生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

感激旅行記(その3)

2016-12-07 20:35:11 | 日記
不思議なことは、学生時代の友人と久しぶりに会ったのに、昨日まで毎日会っていたかのように話せることです。いちばん長く会っていなかった人とは10数年ぶりの再会。最近会った人でも6年ぶりです。
みんな変わっていません。しゃべり方も、笑い方も、声も、性格も。みんなと会うと実家に帰ったようにほっとします。

わたしと横浜に住んでいるMOちゃん以外は関西在住なので、卒業後定期的に会っていたそうです。でも、阪神大震災のときは、3年ぐらい会わなかったと言います。家族で亡くなった方はいなかったそうですが、精神的な痛手が大きかったのでしょう。

MOちゃんは実家が神戸なので、里帰りするときに皆と会えたようですが、わたしは関東に引っ越してから36年の間に数回しか関西に行っていません。
でも、みんなが定期的に会っていてくれたおかげで、何かあるとわたしにも連絡が入りました。
そして、みんなが還暦を迎えるときは、還暦旅行をしようねと数年前から約束していました。還暦なんて、ずっと、ずっと、ずーうっと後のことだと思っていたのですが、とうとうそのときがきたのです。


みんなで温泉につかり、おいしい飛騨牛のしゃぶしゃぶなどいただきました。
みんなは元気で、食後にまたお風呂へ行くと言いました。わたしは、とてもその体力がありません。部屋で待っていようと思いました。

すると、Oちゃんが久しぶりのアルコールで気分が悪くなり、横になりたいというので、わたしが付き添うことになりました。みんなが2回目のお風呂に行っている間、わたしもOちゃんの隣でうとうとしました。なんせ朝4時半に起きていますから、眠くてたまらなかったのです。

学生時代、合宿や泊りがけで巡業したとき、いつも先に寝てしまうのがOちゃんとわたしでした。あのときとまた同じだと思うと、笑みがこぼれました。
少し寝たおかげで、夜のミーティング(?)では目が冴えました。Oちゃんも気分がよくなってミーティングに参加できました。

ミーティングは「人形劇部の思い出を語る」です。
「人形劇部の思い出を語る」わたしの書いたものを一部紹介させていただきますね。

人形劇部(ろっち)の思い出はたくさんありますが、卒業して40年経った今、わたしにとって『ろっち』はなくてはならないものだと実感しています。
短大に入学したとき、いちばん盛んな部活に入ろうと思いました。それは、引っ込み思案で人前に出ることが大嫌いだったので、自分を変えたいと思っていたからです。
いちばん盛んな部活はなんといっても、人形劇部でした。見学に行ったとき(MYちゃんと一緒に行ったような気がします)「これだ!」と思ったのです。(略)
人形劇は黒子をかぶってします。客席から動かしている人の顔は見えません。スポットライトが当たるのは自分でなく、人形だと思うとうれしかったのです。
夜遅くまで学校に残り、のこぎりでべニア板を切ったり、ガスバーナーでパイプを曲げたり、不馴れなことをするのは大変でしたが、わくわくしていました。

人形が出来上がると、オリジナル台本で練習します。人形を動かしながらセリフを言うのは意外と難しく、声が出ないことも……。しゃがんだ姿勢で歩くので足が痛くなります。
 中庭でよく「アエイウエオアオ」と言いながら中腰で歩くアヒル体操をしたものです。
今やったら「ハーヒーフーフー バタリ」でしょう。若かったねぇ。
 休みの日には人形、大道具、小道具を持って幼稚園や施設に公演に行ったり、淡路島や米子まで巡業に出かけました。「ようやったね。好評やったでー」と自画自賛。

合宿や巡業で宿泊するのも楽しみでした。ろっちの仲間と一緒に過ごしたのは、たった2年間だったのですが、濃厚でかけがえのない時間でした。
無口で、人前で声を上げて笑ったこともなかったわたしが大声で笑うようになって、S子に「グリム。いま、人格が形成されようんちゃう?」と言われました。(このことはS子は全く覚えていませんでした)

発達心理学か何かの授業で、子どもの人格の形成について習っていた時のことです。ほんまにその通りです。遅ればせながら18歳過ぎて、人格の形成がはじまったのでした。
人形劇部に入る前のわたしは、殻の中に閉じこもっていて、人前で自分を出すことができない者でしたが、ろっちの仲間と過ごすうちに、殻が少しずつ溶けていったのだと思います。

人形劇をしていて、よく覚えているのは、なぜか失敗したことです。さるかに合戦では、わたしは臼の役と柿の木を操作する役目でした。柿の木は、緑の葉だけのものが、裏でひもを引っ張るとたくさんの実をつけたものにパッと変わるというしかけがしています。
 「早く実がなれ柿の種、ならぬとハサミでちょん切るぞ」とかにの兄妹が言ったら、ひもを引っ張るだけなのですが……ひもの端についたリングが指にからまって、はずれなくなってしまいました。うたい終わったのに、実がなりません。
「お兄ちゃん、なかなか実がならないね」「そうだね。もういちどうたってみよう」
NちゃんとOちゃんのアドリブで何とかつなぎます。こちらは、からまったものがとれなくて必死です。ひもが切れてもいいと思い「えいっ」と力まかせに引っ張ると、ぱたりと木の上の部分が開いて、たくさんの柿の実が出てきました。
「ひーふーみーよー、とうとうなったね」
というセリフに込められた思いに舞台裏にいる全員がひとつ思いとなり、ほっと胸を撫でおろしたのでした。

失敗といえば、「しげるちゃんのいちにち」で、パトカーの音が出なくて、Oちゃんがひっくり返って腹を押さえながら「ピーポーピーポー」と言ってくれましたね。(略)

卒業公演では、ムーミンのエンディングの曲が流れなかったことが残念でならなかったです。でも、今から思うと、失敗したからこそ思い出として、それも極上の思い出として残っているのです。

卒業公演では司会進行役をS子とふたりでやらせてもらいました。わたしは、ヒデキの歌をうたう音痴なおばあさん役でした。かつらはつけていましたが、黒子をつけずに舞台に出たのです。
ろっちの仲間のおかげで、わたしにとって黒子はもう必要なくなっていたのでした。
                         

S子とHちゃんの思い出も聞きました。
気づいたことは、同じ経験をしても、人によって記憶にしっかり刻みつけられているところと、ぽっかり穴の開いたように忘れているところが違うということです。

S子にBGMを苦労して一緒に選んだねと言われましたが、わたしの記憶には全く残っていません。でも、電車乗り越し事件と、Tちゃん置き去り事件は、全員が覚えていました。
今回も同じような失敗をしないよう、電車ではみんなが降りる駅に気をつけ、ときどき人数点検もしていたことがおもしろかったです。

今回の旅行では、2人参加できませんでした。ひとりは病気治療のため、ひとりは忙しくてです。楽しんでいる旅の間も、参加できなかったNちゃんとK子のことを想っていました。

H子が気をきかせて絵葉書を買ってきました。切手も用意してくれていたのでハガキにみんなでサインして旅行中に2人に便りを出しました。
Nちゃん、K子、次は一緒に行こうね。



夜1時半ごろまで話し込んでいたのに、朝早く起きて朝市へいきました。

                     つづく

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