昨日、入院している義母の病室にカーネーションが届けられました。義妹が生協から母の日に届くようにと頼んでいたそうですが、頼んだときはまさか病院に届けられることになるとは思わなかったでしょう。
ちょうど届いたとき近所の方が家の前にいて、受け取って下さり、病院まで持ってきて下さったそうです。
昨日は、母の日なのにまだ入院していなくてはならない義母を思って悲しんでいましたが、そのことを聞いてちょっと心が温かくなりました。胃腸炎のほうは少しずつ治ってきていますが、持病(難病です)があるので今日と明日検査を受けるそうです。検査結果が出ないと退院のめどがたちません。持病のほうも回復していますようにと祈るばかりです。
「クリスチャンになると、毎週日曜日教会に行かなくちゃならないんでしょう? お酒や煙草はだめなんでしょ。不自由だわ」といって友は教会から離れていきました。
クリスチャンは不自由なのでしょうか?
土筆文香というペンネームを初めて妹に知らせたとき、妹は真っ青な顔をして言いました。
「お姉ちゃん、その名前はやめてちょうだい。今からでも変えて!」
わけを聞くと、「文(ふみ)とつく名前の人は不幸になるってお婆ちゃんが言ってたから」と言います。
わたしはJCPの先生からつけていただいたこのペンネームをとても気に入っており、意味付けもしています。なので、たとえば清香とか遥香にしたら、意味が違ってきてしまいます。
「不幸になるなんて、それはどういう根拠があるの?」
と聞くと、妹は暫く考えてから、
「お婆ちゃんの知り合いの人で不幸せになった人が「文」という字のつく人ばかりだったんだって」
と言いました。
「それは何の根拠もないことだし、他人からみて不幸せでも、本人はどうかわからないでしょう。だから名前は変えない」
と言うと、妹も納得しました。
これはささいなことですが、大安、仏滅を気にしたり、方角を気にしたり、占いにとらわれたり……案外そのようなことに縛られている人が多いのではないでしょうか。それは、世間的な考えの奴隷になっているのです。あるいは、心のどこかに恐れがあるのかもしれません。
クリスチャンは、何にも縛られることがありません。仏滅の日に平気で結婚式をします。
仏滅の日に結婚式をしたら、悪いことが起きるのでは?と恐れ、友引にお葬式をしたら友人が引き寄せられると恐れる人が多いようです。(友引の日は火葬場がお休みのところがほとんどですね)
クリスチャンは、どんなに強い悪の力が存在したとしても、それに勝る方、イエス・キリストがついていてくださるから何も恐れる必要がないと知っています。だから何事にも縛られません。
日曜ごとに教会へ行くのは、行かなければならないからでなく、行って礼拝を捧げたいと願うからです。お酒や煙草だって禁止されているわけではありません。自由です。ただ、神さまが尊いひとり子(イエス・キリスト)の命を犠牲にしてまで自分のことを愛して下さっていることを知っていて、そのことで胸がいっぱいなので、神さまの下さった体をこわすようなことはしたくないと思っているだけなのです。
「クリスチャンは、人からどう思われようが、どう評価されようが、そこからも自由なのです」と牧師先生は言われました。クリスチャンこそ本当の意味での自由を得ている人なのです。
キリストは自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。
(ガラテヤ5:1)
私の父は文夫。母の母はフミ。「おふみさん」と呼ばれていた祖母は優しい人でした。
他にも大勢います。不幸な人もいたけれど、私の周りの人は皆、幸せだった(現在形も)と思います。
あれえ、ここは文香さんのHPでしたっけ?
どうも失礼!
妹が読んだら安心するでしょう。
有り難うございます。
サムサムさん、12日の記事お読みいただけましたか? 感謝です。