今日は家庭集会でした。我が家での家庭集会は奇数月に行っています。前回は3月半ばのはずでしたが、地震で中止になったので今回は久しぶりです。
牧師先生と6人の方が来て下さいました。娘もちょうど仕事が休みだったので参加しました。
今日の聖書の学びは、マルコ10:46~52です。盲人バルテマイがイエス様に癒される箇所です。
教会学校でも何度かお話しし、よく知っている箇所でしたが、初めて気づいたこと、教えられたことがありました。
盲人バルテマイはエリコの町で物乞いをしていましたが、「ダビデの子のイエスさま。わたしをあわれんでください」と叫び始めました。
町の人は彼を黙らせようとたしなめたのですが、バルテマイはますます叫びたてました。
その声を聞かれたイエス様は彼を呼んでくるように言われ、彼はイエス様の前に連れて来られます。イエス様に「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれ、バルテマイは「先生、目が見えるようになることです」と答えます。イエス様は「さあ行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言って彼の目を癒されます。
「バルテマイが叫び始めたのはいつからでしょうか?」
と聞かれて、改めて聖書を読みました。
「彼らはエリコに来た。イエスが弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると・・・・(10:46)」と書かれています。
イエス様と弟子達はエリコの町を通って出て行くところだったようです。イエス様一行がエリコに入ったとき、バルテマイは「イエス様だ!」という人々の声を聞き、そのときから叫び始めたのではないでしょうか。そして、イエス様がエリコを出るときまでずっと叫び続けていたのではないでしょうか……彼はすごく熱心に求めていたのです。
と牧師先生が言われました。
バルテマイが叫んだとき、町の人々は大勢で彼をたしなめたと書かれていますが、彼をイエス様のもとに連れて行ってくれる友人はいなかったのでしょうか?
バルテマイというのはテマイの息子という意味で彼自身の名ではないそうです。生まれつき盲人だったかどうかわかりませんが、バルテマイは生まれた時から名前すらつけてもらえなかったか、あるいは周りの人から名前すら呼んでもらえない存在だったのかもしれません。
と聞いて、バルテマイはなんて孤独で辛い人生を歩んでいたのだろうと思いました。
バルテマイはイエス様に呼ばれたとき、「上着を脱ぎ捨てて、すぐに立ち上がってイエスの所に来た」のは彼の象徴的行為を表しているそうです。
バルテマイが座り込んでいたのは、試練の中で座り込んでしまうわたしたちの霊的状態をさします。バルテマイが立ちあがったとき、彼の心も立ちあがりました。自分の目を開けてくださるお方に出会ったとき、立ちあがることができたのです。
立ちあがり、目が開かれたバルテマイに対して、イエス様は「さあ行きなさい」と言います。
バルテマイには自由が与えられましたが、彼はイエス様の行かれるところについていきました。イエス様と共に生きる道を選び取ったのです。
イエス様はバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」と聞きます。バルテマイは「先生、目が見えるようになることです」と答えます。食べ物やお金がほしいとか、もっと望みはあったはずですが、目さえ見えるようになれば他のことはなんとかなると思ってそう言ったのでしょう。
イエス様ならきっと治して下さる。治せるのはイエス様だけだと思ったので、イエス様に「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのですね。
わたしはかつて喘息がひどかったとき、知り合いの紹介で漢方薬屋さんに連れて行ってもらったことがありました。店の人が「これを飲めば必ず治ります」言ってせんじ薬をすすめました。
ひねくれていたわたしは、そのとき(そんなに簡単に治るわけない)と思ったのです。また、自分が喘息患者であることを認めたくなくて病気から目をそらしていました。ほんとうは心から癒されたいと思っていたのにです。
「求めなさい。そうすれば与えられます(マタイ7:7)」とあります。
バルテマイのように熱心に求め、イエス様と共に歩いていきたいと思いました。
にほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。
牧師先生と6人の方が来て下さいました。娘もちょうど仕事が休みだったので参加しました。
今日の聖書の学びは、マルコ10:46~52です。盲人バルテマイがイエス様に癒される箇所です。
教会学校でも何度かお話しし、よく知っている箇所でしたが、初めて気づいたこと、教えられたことがありました。
盲人バルテマイはエリコの町で物乞いをしていましたが、「ダビデの子のイエスさま。わたしをあわれんでください」と叫び始めました。
町の人は彼を黙らせようとたしなめたのですが、バルテマイはますます叫びたてました。
その声を聞かれたイエス様は彼を呼んでくるように言われ、彼はイエス様の前に連れて来られます。イエス様に「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれ、バルテマイは「先生、目が見えるようになることです」と答えます。イエス様は「さあ行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言って彼の目を癒されます。
「バルテマイが叫び始めたのはいつからでしょうか?」
と聞かれて、改めて聖書を読みました。
「彼らはエリコに来た。イエスが弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると・・・・(10:46)」と書かれています。
イエス様と弟子達はエリコの町を通って出て行くところだったようです。イエス様一行がエリコに入ったとき、バルテマイは「イエス様だ!」という人々の声を聞き、そのときから叫び始めたのではないでしょうか。そして、イエス様がエリコを出るときまでずっと叫び続けていたのではないでしょうか……彼はすごく熱心に求めていたのです。
と牧師先生が言われました。
バルテマイが叫んだとき、町の人々は大勢で彼をたしなめたと書かれていますが、彼をイエス様のもとに連れて行ってくれる友人はいなかったのでしょうか?
バルテマイというのはテマイの息子という意味で彼自身の名ではないそうです。生まれつき盲人だったかどうかわかりませんが、バルテマイは生まれた時から名前すらつけてもらえなかったか、あるいは周りの人から名前すら呼んでもらえない存在だったのかもしれません。
と聞いて、バルテマイはなんて孤独で辛い人生を歩んでいたのだろうと思いました。
バルテマイはイエス様に呼ばれたとき、「上着を脱ぎ捨てて、すぐに立ち上がってイエスの所に来た」のは彼の象徴的行為を表しているそうです。
バルテマイが座り込んでいたのは、試練の中で座り込んでしまうわたしたちの霊的状態をさします。バルテマイが立ちあがったとき、彼の心も立ちあがりました。自分の目を開けてくださるお方に出会ったとき、立ちあがることができたのです。
立ちあがり、目が開かれたバルテマイに対して、イエス様は「さあ行きなさい」と言います。
バルテマイには自由が与えられましたが、彼はイエス様の行かれるところについていきました。イエス様と共に生きる道を選び取ったのです。
イエス様はバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」と聞きます。バルテマイは「先生、目が見えるようになることです」と答えます。食べ物やお金がほしいとか、もっと望みはあったはずですが、目さえ見えるようになれば他のことはなんとかなると思ってそう言ったのでしょう。
イエス様ならきっと治して下さる。治せるのはイエス様だけだと思ったので、イエス様に「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのですね。
わたしはかつて喘息がひどかったとき、知り合いの紹介で漢方薬屋さんに連れて行ってもらったことがありました。店の人が「これを飲めば必ず治ります」言ってせんじ薬をすすめました。
ひねくれていたわたしは、そのとき(そんなに簡単に治るわけない)と思ったのです。また、自分が喘息患者であることを認めたくなくて病気から目をそらしていました。ほんとうは心から癒されたいと思っていたのにです。
「求めなさい。そうすれば与えられます(マタイ7:7)」とあります。
バルテマイのように熱心に求め、イエス様と共に歩いていきたいと思いました。

↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。