中学生のとき、「よい行いをして、真面目に一生懸命努力していれば、必ず幸せになれるよ」と父に言われました。
わたしはその言葉が信じられず、納得できせんでした。
それなら不幸せな人は、悪いことをしたからそうなったのでしょうか……。
父は心からそう思って言ったのでしょうか? それとも、このことは真実ではないけれど、わたしがよい行いして、真面目で一生懸命努力する人間になってほしいと願って言ったのでしょうか……。
良い行いをした人が幸せになり、悪い行いをした人は不幸になる……世の中が因果律のもとにあるなら、なんとすっきりすることでしょう。でも、実際は違いますね。むしろ、悪いことをせず、正直でまじめに生きている人が不治の病にかかったり、事業が失敗して一文無しになったり、災害にあったりすることが多いですね。
それこそ理不尽な苦しみです。
なぜ自分だけがこんな苦しい目に会うのか……理由が分からないことが、苦しみをさらに深くします。
努力して頑張っているのに……。人のためになることをしてきたのに……と文句を言いたくなります。
でも、理不尽な苦しみにあったとき、喜びの歌をうたった人たちがいました。
先日の礼拝メッセージで使徒の働き16:16-26から牧師先生が語って下さいました。
それは、2000年近く前、ピリピという町での出来事です。
パウロとシラスは、ピリピの町で悪霊につかれている占い女を正気にもどしました。
すると、その女を利用して金儲けをしていた主人は怒って、彼らを役人たちに訴えました。彼らは捕えられ、投獄されてしまいました。
パウロとシラスは鞭打たれ、足枷をつけられて牢屋に入れられたのですが、なんと、ふたりは牢獄の中で祈り、賛美したのです。
賛美というのは神さまに向かって喜び、感謝の歌をうたうことです。
理不尽な苦しみの中で神に感謝して賛美するなんて、そんなことができるのでしょうか……。
でも、そのようなとき、奇跡が起こります。パウロとシラスが賛美していると突然大地震が起き、扉があいて鎖が解けてしまいました。
看守は、囚人が逃げてしまったと思い、罰を受けることを恐れて自害しようとしました。
そのときパウロが「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました。
ほかの囚人たちも逃げなかったのです。囚人たちはあんな状態でも祈り、賛美するパウロたちに心打たれていたのです。
看守は驚き、救われるために何をしたらよいか尋ねます。パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と答えました。
主イエスを信じなさいとは主イエスの上に自分を置きなさいという意味なのだそうです。
「イエス・キリストを信じるとは
①知る
② 納得する。
③ 納得したことに自分を賭ける
の三段階を経て信じるのです。
全能の神がおられ、私たちを配慮してくださっていることを知り、自分を賭けることです。」と牧師先生が言われました。
なぜパウロとシラスは理不尽な苦しみの中で文句を言わず、祈り、賛美できたのでしょうか?
信仰があったから? いえ、信仰があってもわたしなら、予想しない苦しみが突然襲ってきたらとてもそんなふうにはできません。
わたしが思うに、こちらが理不尽だと感じても、神様の目から見ると理不尽なことではないのでは……。神様は何らかの意図があって苦しみを与えて下さったのだと思います。
神様の意図は、たいていそのときはわかりません。ずっと後になってわかることもありますし、天国に行くまでわからないこともあります。でも、神様は善意の方なので耐えられないような苦しみは与えませんし、その苦しみは必ず終わるときがあります。そして、苦しみを受けたことによって、素晴らしいことが起きるのだと信じています。
牢獄の看守とその家族はこのときイエスを信じたのです。パウロとシラスの喜びは大きかったことでしょう。ふたりが投獄されなければ起こらなかった素晴らしいできごとです。
にほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。
わたしはその言葉が信じられず、納得できせんでした。
それなら不幸せな人は、悪いことをしたからそうなったのでしょうか……。
父は心からそう思って言ったのでしょうか? それとも、このことは真実ではないけれど、わたしがよい行いして、真面目で一生懸命努力する人間になってほしいと願って言ったのでしょうか……。
良い行いをした人が幸せになり、悪い行いをした人は不幸になる……世の中が因果律のもとにあるなら、なんとすっきりすることでしょう。でも、実際は違いますね。むしろ、悪いことをせず、正直でまじめに生きている人が不治の病にかかったり、事業が失敗して一文無しになったり、災害にあったりすることが多いですね。
それこそ理不尽な苦しみです。
なぜ自分だけがこんな苦しい目に会うのか……理由が分からないことが、苦しみをさらに深くします。
努力して頑張っているのに……。人のためになることをしてきたのに……と文句を言いたくなります。
でも、理不尽な苦しみにあったとき、喜びの歌をうたった人たちがいました。
先日の礼拝メッセージで使徒の働き16:16-26から牧師先生が語って下さいました。
それは、2000年近く前、ピリピという町での出来事です。
パウロとシラスは、ピリピの町で悪霊につかれている占い女を正気にもどしました。
すると、その女を利用して金儲けをしていた主人は怒って、彼らを役人たちに訴えました。彼らは捕えられ、投獄されてしまいました。
パウロとシラスは鞭打たれ、足枷をつけられて牢屋に入れられたのですが、なんと、ふたりは牢獄の中で祈り、賛美したのです。
賛美というのは神さまに向かって喜び、感謝の歌をうたうことです。
理不尽な苦しみの中で神に感謝して賛美するなんて、そんなことができるのでしょうか……。
でも、そのようなとき、奇跡が起こります。パウロとシラスが賛美していると突然大地震が起き、扉があいて鎖が解けてしまいました。
看守は、囚人が逃げてしまったと思い、罰を受けることを恐れて自害しようとしました。
そのときパウロが「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました。
ほかの囚人たちも逃げなかったのです。囚人たちはあんな状態でも祈り、賛美するパウロたちに心打たれていたのです。
看守は驚き、救われるために何をしたらよいか尋ねます。パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と答えました。
主イエスを信じなさいとは主イエスの上に自分を置きなさいという意味なのだそうです。
「イエス・キリストを信じるとは
①知る
② 納得する。
③ 納得したことに自分を賭ける
の三段階を経て信じるのです。
全能の神がおられ、私たちを配慮してくださっていることを知り、自分を賭けることです。」と牧師先生が言われました。
なぜパウロとシラスは理不尽な苦しみの中で文句を言わず、祈り、賛美できたのでしょうか?
信仰があったから? いえ、信仰があってもわたしなら、予想しない苦しみが突然襲ってきたらとてもそんなふうにはできません。
わたしが思うに、こちらが理不尽だと感じても、神様の目から見ると理不尽なことではないのでは……。神様は何らかの意図があって苦しみを与えて下さったのだと思います。
神様の意図は、たいていそのときはわかりません。ずっと後になってわかることもありますし、天国に行くまでわからないこともあります。でも、神様は善意の方なので耐えられないような苦しみは与えませんし、その苦しみは必ず終わるときがあります。そして、苦しみを受けたことによって、素晴らしいことが起きるのだと信じています。
牢獄の看守とその家族はこのときイエスを信じたのです。パウロとシラスの喜びは大きかったことでしょう。ふたりが投獄されなければ起こらなかった素晴らしいできごとです。

↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。