昨日の続きで26日の礼拝メッセージについて書いています。
青字がS先生のメッセージ、緑字は聖書のことば、茶色字がわたしの感想です。
イエスさまを紹介するとき、聞く人の文化的、宗教的背景を考える必要があります。パウロとバルナバが異国の都市ルステラ(現在トルコ)でキリストを伝えたとき、足の不自由な人の足を治したことから神の化身として崇められました。そのときパウロは「わたしたちは同じ人間です」と言い、*生ける神がおられること。*その神を礼拝するように。と教えました。
その生ける神とは、
「恵みをもって天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たして下さったのです。(使徒の働き14:17)」
このような神です。
神さまは、ただ人間が生きるのに必要な食べ物を与えるだけでなく、味わって楽しむためにもたくさんの種類の食物を与えてくださっているのですね。感謝!
聖書の神さまは、人の弱さを指摘しようとしているのではなく、また罪を責めようとしている神さまではありません。恐ろしい神ではなく、恵み深い神さまなのです。
そのことがとても嬉しいです。
パウロはユダヤ人たちに教えるときは、旧約聖書の話しをしましたが、ルステラで語るときは旧約聖書を持ち出しませんでした。それは、ユダヤ人は旧約聖書に精通しているけれど、ギリシャ人は旧約聖書を知らないからです。パウロは、聞く者の文化的背景を尊重して語り方を変えたのです。私たちもその努力をしなければなりません。
山浦玄嗣氏は気仙地方の故郷の仲間に伝えるためギリシャ語を勉強し、ケセン語訳聖書を作りました。
茨城弁訳聖書も作られるといいなあと思いました。
それぞれの習慣や伝統をふまえて伝えることが大切です。わたしたちが伝えるのは良いニュースです。
わたしは、日本で宣教がすすまない理由として、日本人の国民性にもあると考えます。自分自身も含めてではありますが、あからさまに感情を表さないことがマイナスになっているのでは? 心の内側では救われたことの喜びに溢れているのですが、そのことを表さないので、周りの人には伝わりません。
こんなに良いニュースを知っているのだから、もっと喜びを表現して熱くなったらいいと思います。喜んでキラキラ輝いて生きていたら、まわりに伝染するでしょう。すると、クリスチャンでない人は疑問に感じます。なぜいつも喜んでいられるの?と聞かれたら、しめたものです。イエスさまのことを語るチャンスです。
周りの人がどう思うか気にする人が多いことも宣教がすすまない原因だと思います。有名人でクリスチャンの人はたくさんおられますが、クリスチャンだということを公言している人が少ないのは何故でしょう。信仰、信仰と言っていたら社会的に不利になるのでしょうか? 偏見の目で見られるのでしょうか?
たとえそうだとしても、クリスチャンであることを恥じず、もっと堂々としていたらいいと思います。
おわり