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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

わたしは山羊?それとも羊?

2007-08-11 17:10:53 | 聖書から
   
今日から主人はお盆休みです。娘と主人の運転する車で買い物に行き、夢庵でランチを食べてきました。今日は誕生日だったので、そのお祝いということでご馳走になりました。51歳です。主にある喜びを文章によってたくさんの人に伝えていける1年になればいいなあと願っています。

  
この間の祈祷会で、マタイの福音書25章を読んで黙想をしました。少し長いのですが書き写します。この聖書箇所の意味するところの解釈はされませんでした。いろいろな解釈があるようなので、わたしもコメントは控えます。ただ、感じたことを書きます。

  
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位につきます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。  そうして、王は、その右にいる者たちに言います。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

するとその正しい人たちは、答えて言います。『主よ、いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつあなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちはあなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

すると王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
(マタイ25:31-40)


祈祷会では、新共同訳聖書からこの箇所が印刷されているプリントが配られました。(上記は新改訳)そして40分間、繰り返し読んで黙想する時が与えられました。
この聖書箇所を読んだとき、その続きを思い出していました。

王が左にいる人たちに向かって、「わたしが空腹であったときは食べる物をくれず……」と言い、言われた人が「いつあなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見てお世話しなかったのでしょうか」と尋ねます。すると王様は 『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
と前に言ったことと反対のことを言われます。

  
いつもこの箇所を読むと、後半の方が印象強く、自分は左にいる者(山羊)ではないかと不安になってしまうのです。
人に不親切だったこと、愛に欠けた行為をしたこと、人の心を傷つけたことなど……が思い出され心が痛んでいました。
でも今、なぜあえて後半部分は読まず、前半部分だけを何度も繰り返し読む機会が与えられたのでしょうか?
わたしは山羊?それとも羊?

そのとき 山羊-山=羊という式が思い浮かびました。

わたしは山羊だったけど、羊に変えられたのではないでしょうか? 王様、つまりイエスさまが、わたしの山(罪)を取り除いて下さった。わたしの背負っていた大きくて重い山をイエスさまが背負って下さったので、わたしは羊になれ、右に分けられる者になったのではないでしょうか。

そう思うと、感謝と喜びが沸き上がってきました。そして分けている王様は、心痛めておられる。みなが羊になってほしかったと思い、泣きながら分けておられる。そんな気がしました。
   
明日午後から三鷹の実家にいきます。といっても明後日の夕方には息子一家が来るので1泊だけして大急ぎで帰ってきます。息子たちが来たら賑やかになりそうです。   

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