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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

Why(なぜ)?

2009-10-03 09:54:02 | 
 
Why(なぜ)?


河原にそよぐ 傷ついた葦
抜かれて 折られ
捨てられるのを
じっとうつむき 待っている

けれども それを折らないで
杖とされたのはなぜ?

大切 大切 大切だから
あなたは とても 大切だから


油の切れた 古いランプ
芯まで燃えて
燃え尽きるのを
くすぶりながら 待っている

けれどもそれを消さないで
輝かせたのはなぜ?

必要 必要 必要だから
わたしは あなたが 必要だから


力尽きはて 倒れたわたし
何もできない
自分に気づき
声を殺して泣いていた

そんなわたしの手をとって
立ち上がらせたのはなぜ?

愛してる  愛してる 愛してるから
いのちささげるほど 愛してるから

 

いたんだ葦、くすぶる燈心のメッセージを聞いて久々に詩が生まれました。
 

「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(イザヤ42:3)」

受難週に書いた3篇の詩

2009-04-11 09:39:50 | 
 
イエス様の痛み

中傷され ズキズキ心が痛むとき
イエス様を感じてる
平手打ちされ
ののしられたイエス様
わたしの痛みは その何万分の一でしょうか

めまいがし 伏せることしかできないとき
イエス様に叫んでる
十字架を背負って歩き
つまずき倒れそうになったイエス様
イエス様も めまいしていたのですか

ジンジンと関節痛を感じるとき
イエス様を想ってる
わたしのために釘をさされ
壮絶な苦しみを味わったイエス様
わたしの痛みの中にイエス様がおられるのですね



イエス様の目は何色?

砂漠の中のこんこんと水のわき出る泉の色
だれも行ったことのない深海の濃い藍色
宇宙の果てにある星が放つ光の色
ノアがみた虹の色

いえいえ、みんな違います
イエス様の目は
わたしが苦しむとき一緒に流してくれる涙の色



わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか

どんなに絶望的状況にあって、のがれる術を知らなくても
イエス様が一緒にいて下さることを知っているわたしは
一筋の希望をにぎっています

ひとりぼっちで誰からも理解されなくて心がヒリヒリするときも
イエス様だけはわかってくださると知っているわたしは
真の孤独にはなりません

死の淵に立たされ、地上での時間があとわずかしか残っていないときにも
イエス様といっしょに天国へ行くことを知っているわたしは
怖がらず、安心していられるでしょう

十字架の上で神様に見捨てられるという最高につらい状況におかれたイエス様
それは、神様から見捨てられても仕方のないわたしを
見捨てられないようにして下さるためだったのですね

 
*題名の「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、マタイ27:46に書かれています。イエス様が十字架上で言った言葉です。これは詩篇22篇にある言葉の引用です。イエス様は旧約聖書に書かれている言葉を多く引用されて語っておられます。

この言葉は、イエス様が父なる神様に見捨てられたことを示します。肉体の苦痛より辛かったと思います。助けることができるのに愛するひとり子を見捨てなければならなかった神様の気持ちもどんなに辛かったことでしょう。その犠牲があったことで、わたしたちは神に見捨てられるということが永遠になくなったのです。

 
*昨日ブックマークにあるJCP(日本クリスチャンペンクラブ)のHP更新しました。ぜひご覧ください。


やさしさは尊い宝物

2009-02-19 17:29:06 | 

いのちのことば社から発行されている月刊誌いのちのことば2008年1月-12月号に斎藤登志子さんの「ウツと上手につきあうには」というエッセイが連載されました。

ホームページにも掲載されているので、記事を印刷して文通をしている鬱病の方に差し上げたら、その中に書かれている詩に感動され、書き写して精神科の先生に持っていたそうです。そうしたら、その先生(ノンクリスチャンです)はその詩をほかの患者さんにも見せると言われたそうです。

わたしは鬱病ではありませんが、鬱的傾向にあった時期がありました。なので、エッセイや引用されている詩がぴったりきます。詩のひとつを紹介します。



あなたはやさしい人だから

あなたはやさしい人だから
すぐ傷ついてしまうのです。
人の悪口を言ったり、意地悪になれないから
そんな仕打ちをうけると、傷ついてしまうのです。

あなたはやさしい人だから
すぐにつらくなるのです。
人の痛みや苦しみがすぐにわかってしまうから
自分までつらくなってしまうのです。

あなたはやさしい人だから
すぐに疲れてしまうのです。
人のことを心配して、気をつかってばかりいるから
すぐに疲れてしまうのです。

あなたはやさしい人だから
すぐに苦しくなるのです。
人の悪いところもいやなところも
だまって我慢しているから、すぐに苦しくなるのです。

あなたはやさしい人だから
うつになってしまったのです。
病気は治ってほしいけど
あなたのやさしさはとても尊い宝物です。

(『傷つきやすいあなたへ』木村藍 著、文芸社より)


わたしも傷つきやすい者です。やさしさが尊い宝物とは・・・嬉しいですね。

詩の紹介

2009-01-27 12:04:40 | 

ペンの友に須藤あきこさんという方がおられます。「詩の友会」のHPに掲載された詩を読んで、心打たれました。須藤さんの了解を得て紹介させていただきます。この色の字はわたしのコメント。緑字は聖書の言葉です。

須藤さんの詩をもっと読んでみたい方は、詩の友会を開いて、投稿詩をクリックしてください。



もしも わたしが        須藤あきこ             
      ――苺ミルフィーユを食べながら
          
     もしも
     わたしが
     あなただったら
     と 考えると
     あなたに
     もっと 優しく
     なれるかもしれない

     そう思ったら
     今まで
     悩みあぐねていた心が
     氷のように
     溶け始めたような
     そんな
     気がする

今年の初めから、互いにいたわりあうにはどうしたらよいか考えてきました。
この詩のように「もしもわたしがあなただったら」と考えることによって、いたわりの心、愛する心が生まれてきますね。


「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。(マタイ 7:12 )」


完全とは               須藤あきこ                     
     ――ある陶器師の作品から
      
     完全とは
     自らが
     不完全であることを
     認めること

     その中には
     寛容 親切 謙遜 赦し……
     愛のすべてが
     内包されているから



自分が完全だ、正しいのだと思った瞬間、完全ではなくなるのだと思います。
自分が不完全な者だと知っている人が御霊(みたま)の実をみのらせることができるような気がしました。


「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ 5:22)」



弱さ                  須藤あきこ

     弱い人は
     強い人の
     支えになることができるように
     神さまから
     弱さを
     与えられている

     そして
     弱い人は
     神さまの
     大いなる力によって
     支えられている


弱い人が強い人の支えになるというのは本当です。強いと思っている人でも、予期せぬ出来事が起きたとき、ひとりでは対処できなくて弱り果ててしまうことがあります。
そんなとき、弱い人の存在がその人を立ち上がらせてくれるのです。
神様の大いなる力で支えられるとき、弱い人は強い人より強くなります。


「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。(Ⅱコリント12:9)」
「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(Ⅱコリント12:10)」


永遠のいのち宿りて

2008-12-23 09:19:23 | 

クリスマスのメッセージを聞いて、永遠のいのちを与えて下さるために生まれて下さったイエスさまに心打たれて詩を書きました。

       
永遠のいのち宿りて      

どんなに苦しい思いをしても
どんなに心傷つけられても
「助けて」
と叫んだとき
あなたはもう助けられているのです

どんなにみじめな気持ちになっても
どんなにさみしく孤独でも
「イエスさま」
と呼んだとき、
あなたはもうひとりではありません

どんなに小さな声でもかまいません
だれにも聞こえなくていいんです
「神さま」
と呼んだとき、
あなたには永遠のいのちが宿っているのです

からっぽの手の中から

2008-10-02 13:47:42 | 

この写真はベンジャミンのジェミニです。我が家のバルコニーで暮らしています。
18年前、土浦に越してきた年に近所のスーパーの店頭にあったのを買ってきました。そのときは、背の高さが30センチくらいでした。今は120センチもあります。

ジェミニという名前がついたのはつい3か月ほど前です。
今年の春ごろから元気がなくなり、葉が散りはじめました。6月には1枚も葉がなくなってしまいました。葉が全部散ってしまうなんて18年間1度もなかったことです。

(寿命なのかな。木も枯れてしまうのかな)と思ってがっかりしていました。植物は人間の気持ちがわかるらしいので、「枯れないで。元気を出して」と毎日話しかけながら水やりをしました。

すると7月につやつやの黄緑色の小さい葉が生えてきたのです。ジェミニという名前をつけて「ジェミニちゃん。もっともっと葉を茂らせて」といいました。

葉はどんどん増えていきましたが、色つやが悪くなってきました。良くみると、小さな虫がびっしりついています。

酢を水で薄めたものを霧吹きでかけるとよいと聞いていたので酢水をコップに入れました。ところが霧吹きが見当たりません。仕方なく、口に含んでシューっと吹きかけました。(すっぱかったです)

翌日みると、虫はいなくなっています。
それから3か月たって、こんなに葉が茂りました。今日は快晴。日の光を受けてジェミニちゃんは嬉しそうです。

ジェミニちゃんに励まされて詩を書きました。


  からっぽの手の中から
 
頼りにしていたものがなくなり
自慢だったものを失い
 てのひらはからっぽになってしまった
 
何にもなくなって途方にくれ、
生きる意欲さえなくしたそのとき
声が聞こえた
 
生きて、生きて、生きるのよ
 
何もないのにどうやって生きるの?

 からっぽの手を広げると
目に見えない宝物がつまっていた
 
  
 ベンジャミンがすべての葉を落としたように、すべてを失ってしまうようなときがあります。でも、からっぽになることは、ときとして必要なのでは? からっぽの手を広げたとき、神様が満たして下さるからです。

聖書の言葉

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(2コリント 4:7)

世界一の臆病者

2008-07-05 09:00:38 | 
世界一の臆病者


犬におびえ、虫におびえ、人におびえ、
病におびえ、地震雷におびえ、親におびえて生きていた
誰かに助けを求めたくて、
誰に求めたらいいかわからなくて
頼れる誰かを探していた

失敗におびえ、いじめにおびえ、裏切りにおびえ
注目におびえ、傷つくことにおびえ、明日におびえてふるえてた
誰かを信じて安心したくて
でも、誰も信じられなくて
信頼できる誰かを求めていた

長くつらい冬が過ぎたとき、求めているおかたに出会った。
わたしはそのかたのことを知らなかったのに
出会ったとき、なつかしいと思った
そのかたは遠い昔からわたしを知っていた
そのかたはわたしが生まれることを
世界の基ができる前から計画していたと言った
そのかたに出会って
世界一臆病なわたしは、勇気ある者となった

栄光の主

2008-07-04 14:00:52 | 

今週の日曜の礼拝で聞いたD・R先生のメッセージに心打たれました。
感動で胸がいっぱいになり、すぐには書けませんでした。
今週中に書かないと忘れてしまいそうなので一部紹介させていただきます。


ヨハネの福音書17章に書かれているのはイエス様の祈りの言葉です。イエス様が十字架につけられる前、逮捕される数分前に祈られた祈りです。
冒頭では「父よ。時がきました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」と祈っておられます。

『時がきました』というのは、イエス様が地上来られた目的が成就される時、つまり十字架につけられて死ぬ時が来ましたという意味です。
ここで注目したいのは、イエス様がご自分の栄光を父なる神に求めていることです。

もともとイエス様は栄光に包まれた姿で天におられました。地上に来られた時、栄光は失われ、無になった姿でした。(キリスト降誕の絵を見ると、赤ん坊のイエス様から光が放たれているように描かれているものがありますが、実際は光っていません)


「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。(ピリピ2:6)」


地上におられるときのイエス様は、栄光が隠されており普通の人間の姿でした。でも、イエス様が十字架にかかってすべてのわざを成し遂げたのち、神様はイエス様に栄光を戻して下さいました。つまり、復活のイエス様は栄光のお姿なのです。

栄光に包まれたイエス様が今、わたしと共にいてくださる。そのことに気づかされて、熱い思いが湧きあがり、詩を書きました。



 栄光の主

一目でもいい
一目でもいいから
あなたの栄光のお姿を見てみたい

いま、友と祈っているから、きっと真ん中に立っておられるのですね
そっと目をあけてみようか

もしお姿をみたら、パウロのように目が見えなくなるのかな
それとも、ヨハネのように倒れてしまうのかも……

見なくてもいい
まぶたの裏に映っているから
見えなくてもいい
栄光に満ちたすばらしいおかたが
ぴったりと寄り添っておられることがわかったから

ゆるしなさいと言われても

2008-02-07 17:19:06 | 
写真は不忍池の水鳥です。


昨日、聖書輪読会でマタイの福音書18章を読みました。その中でペテロがイエスさまに「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」と尋ねています。それに対してイエスさまは、「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」と答えています。

7度の70倍赦しなさいというのは、490回赦して、491回目は赦さなくていいという意味ではありません。7は完全数、10は満数なので、無限に赦しなさいという意味です。そんなことができるのでしょうか。

クリスチャン・ペンクラブでは、「愛すること 赦すこと―平和を求めて―」のテーマでエッセイを書くことになっています。けっこう難しいテーマなので、四苦八苦して書きましたが、今日は詩を書いてみました。



     ゆるしなさいと言われても

ゆるせない
ゆるせない
ぜったいに ゆるせない
あのときのあの人の言葉
あの人の行動
ぜったいにゆるせない

ゆるしなさい
ゆるしなさい
7の70倍ゆるしなさい
と言われても、ゆるせるわけがない
憎しみをつかんで
きつくにぎりしめていた

ゆるしてください
ゆるしてください
正論を唱えて、人を裁いていたわたし
愛のない言葉が
友を深く傷つけていたことを知り
そう叫んで泣いた

ゆるされている
ゆるされている
そんな声が聞こえたとき
握りしめていた憎しみと
ゆるせない心が 粉々にくだけて
ポロポロと手からこぼれ落ちていった

もしイエスさまが来て下さらなかったなら

2007-12-25 15:52:05 | 
Moscow

23日の礼拝メッセージを聴いて書いた詩を紹介します。

もしイエスさまが来て下さらなかったなら   土筆文香


もしイエスさまが来て下さらなかったなら

わたしの心は闇におおわれていたでしょう

もしイエスさまが来て下さらなかったなら

人間らしく生きることができなかったでしょう

もしイエスさまが来て下さらなかったなら

身体も心も病んで、ボロボロになっていたでしょう

もしイエスさまが来て下さらなかったなら

生きる意味がわからずに、あてもなくさまよっていたでしょう

もしイエスさまが来て下さらなかったなら

ああ……わたしはとっくに死んでいました


聖書の言葉
きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)




もしや希望があるかもしれない

2007-11-21 17:26:07 | 
旧約聖書の哀歌を読んで書いた詩です。試みの中にあるMさんのことを想いながら書きました。

もしや希望があるかもしれない

何とかなると思っていた
こんなはずじゃなかったのに……

自分の力では どうすることもできなくて
立ちすくんでしまった

アリジゴクの巣に落ちた
小さな虫のように
もがけばもがくほど
深い穴に落ち込んで 
どうしても出られない

長い間 穴の中にいたら
助かりたいとさえ思わなくなった
すべてが物憂く
怒りも悲しみも 感じられない

生きる気力が失われかけたとき

「もしや希望があるかもしれない」
という声が聞こえた

希望……久しく聞いたことのない言葉…… 
それは どこにあるの?
教えて!
もしあるのなら、下さい

暗闇の中から 大声で叫ぶと
「恐れるな」
確かに聞こえた この耳に
「わたしはあなたを贖った」

そのとき
引き上げてくださる手が
最初から伸ばされていたことを知った


哀歌3:25-33、57-58

主はいつくしみ深い。
主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
それを負わされたなら、
ひとり黙ってすわっているがよい。
口をちりにつけよ。
もしや希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頬を与え、
十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。
たとい悩みを受けても、
主は、その豊かな恵みによって、
あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、
思っておられない。

(中略)

私があなたに呼ばわるとき、
あなたは近づいて、
『恐れるな。』と仰せられました。
主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、
私のいのちを贖ってくださいました。


弱いから

2007-09-28 12:00:50 | 

10年ほど前に書いた詩2篇紹介します。推敲もしてないので詩というより、独り言を書き記したという感じですが……。
日記は捨ててしまいましたが、このように書いた物が残っていると、心の記録になります。


弱いから  


弱いから
体が弱くて色々なことができないもどかしさは
誰もわかってくれない
いや、ひとりだけ
わかってくださる お方がいる

弱いから 何もできないのではない
できることが わずかだから
祈って
いちばん大切なことを
選んで やっていっている

最近 そのことが
わたしにとって 恵みなんだと 思えてきた
もし
体が丈夫で たくさんのことができたなら、
大事なことを忘れて
「忙しい」を連発しながら
走り回っているでしょう
祈ることさえ忘れて



わたしの心  

きれいな物をいっぱい見て
美しい音楽をたくさん聞いて
ピュアなドラマを見ていれば
きれいな心になれますか?

きれいな心になったと思ったのに
自分中心の思い、
みにくい思い、
人をうらやみ、にくむ気持ちが
むくっむくっと顔を出す

どんなに努力してもなれません。
どうしたらきれいな心になれるのですか?
どうしたらいいのですか?
  
「純粋だね」と言われたことがあります
でも、そう言った人はわたしの心を全然知りません
もし、心を映す鏡があったなら
わたしはそれを見て気絶するでしょう
今、自分で思っている以上にその心はみにくいのです

神様、お願いです
きよめてください
もう、心の片隅にも悪しき思いが浮かんでこないように
わたしの心を
きよらかにして下さい


いつくしみと恵み

2007-08-25 17:27:20 | 
19日の礼拝メッセージ(昨日の記事をご覧下さい)を聞いて詩を書きました。

いつくしみと恵み
 

つらいとき
無理して笑うことないんだよ
大声を上げて
文句言ったらいい

でも、さいごには
イエスさまを呼ぼう
イエスさまは与えて下さるよ
平安と幸いを

苦しいとき
平気な顔することないんだよ
なりふりかまわず
泣き叫んだらいい

でもさいごには
イエスさまを呼ぼう
イエスさまは連れてきて下さるよ
いつくしみと恵みを

死なないでください

2007-08-20 21:42:30 | 
 
今日から夏期学校の疲れが出てきています。(1テンポ遅いのは年のせいでしょうか……)でも、具合が悪いわけではないので、ゆっくり休めば回復するでしょう。

今日は家事もそこそこにしてK子さんへ手紙を書きました。何より優先しなければならないと思ったからです。

K子さんは日本ミッション発行の「よろこびの泉」7月号に掲載されたわたしの証しと詩を読んで電話をかけてきて下さいました。20代の若い方です。躁鬱病で精神科にかかっているとおしゃっていました。

昨日3回目の電話をいただいて、大きな問題を抱えておられることを知り、心を痛めながら聞いていました。自殺願望があったけれど、この詩で救われたと言われるのを聞いて、神さまに深く感謝しました。わたしはこのような方のために書くという使命を与えられているのですね。

わたしのHPにも載せていますが、よろこびの泉に掲載された詩、「死なないで下さい」を紹介します。K子さん、死なないで下さい。あなたは、愛されていますよ。

 死なないでください

 
死なないで下さい
あなたが生まれた時
小さくてたよりない
その体を 
そっと包むように
抱いてくれた人がいるから

死なないで下さい
あなたがお母さんの
おなかにいる時から
あなたを知り
かたち造ってくれた
お方がいるから

死なないで下さい
すべての道が閉ざされて
何の希望も持てなくても
じっと見ている
お方がいるから

死なないで下さい
心の傷をすべて 
涙の数をすべて
知っていて下さる
お方がいるから

死なないで下さい 
いとしいひとり子の命を 
あなたのために
ささげてくれた
お方がいるから

書くことは回復に……

2007-06-28 13:05:55 | 

童話、詩、小説、エッセイ、ジャンルを問わずに書いていますが、自信がないものばかりです。それでも、書くことが回復につながるので、今日は詩を載せます。


胸の痛み

心って、胸にあるんだね
だって、悲しいと 
心臓のあたりが
痛くなるのだもの

むなしさと さみしさを 
感じたときも
胸が痛むのは なぜだろう

それはね
神さまに呼ばれているんだよ
神さまの呼びかけが
胸の痛みとなって
響いているんだよ



この詩は24日の礼拝メッセージで語られたことと関連しています。アダムとエバが罪を犯したため、人は神さまと断絶してしまいました。女には出産の苦しみが与えられ、男には労働の苦しみが与えられ、いくら働いても達成感を得ることができなくなってしまいました。

そして、人はやがて土に返る、すなわち死が訪れることが定められました。そのときから人はむなしさを感じるようになったのでしょう。

でも、そのむなしさが人の心に沸き上がってくる訳は、人の心を神さまに向けるためなのだと聞いて、嬉しくなりました。
さみしいとき、悲しいとき、むなしさを感じるとき、それは神さまからの呼びかけだと思うのです。神さまの呼びかけに答えたとき、回復が始まるのです。

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