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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

任命式

2006-04-02 17:43:58 | CS(子供伝道)

今日は礼拝の中でCS(教会学校)教師任命式が行われました。毎年4月の第一日曜日に任命式が行われます。わたしは12回目ですが、牧師先生から祈っていただいている間、足が震えていました。子供に教えるのにふさわしい者なのだろうか?と考えると、とてもそのような者でないことに気づきます。

また、この一年間健康でいられるのかと心配になります。具合が悪くなって教会学校の奉仕ができなくなるのではないかとおそれます。
そのとき、礼拝堂にいる人がみんな心を合わせて教師達のために祈って下さっていることを感じ、胸が熱くなりました。弱い者であるからこそ祈っていただく必要があるのです。
私自身も祈っているうちに、神さまはふさわしくない者をふさわしくして下さる。必要な体力を与えて下さるのだという確信が持てるようになりました。

 今日のメッセージは「主にあって誇れ」という題でした。あなたがたは取るに足りない者であったのに神さまによって義となり、聖としていただいた。だから、誇るなら自分ではなくて主を誇るようにという内容でした。

 自分には誇るものは何もないのです。このような者を子供達に教える者として下さったのは神さまです。神さまから教師としていただいているのだなあと思って感謝しました。


「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(Ⅱコリント1:27)」


子どものように

2006-01-29 17:04:28 | CS(子供伝道)


「自分の宝は天にたくわえなさい。そこでは虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません(マタイ6:20)」


今日、教会学校でこの聖書の箇所から「天に宝をつむとはどういうことでしょう?」と先生が尋ねました。小学2年生のRくんは「簡単だよ。大事な物を持って階段をのぼっていけばいいんだから」と答えました。

Rくんにとって、天国とは階段をのぼっていったところで、簡単に行ったり来たりできるところなのです。天国のことを身近に感じているRくんは、イエスさまのことが大好きです。Rくんは、イエスさまが望まれるなら、自分の大事にしている宝物を天国に置いてきてもいいと思っているようです。子供たちと接していると、その信仰の純粋さにはっとさせられます。

「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(ルカ18:17)」
のみ言葉を思い出しました。


共鳴箱

2006-01-23 13:46:09 | CS(子供伝道)

共鳴箱のついた音叉をご覧になったことがありますか? わたしが小学校のとき、音楽室にありました。同じ振動数の音叉を近づけると、共鳴箱つき音叉が同調して鳴り出すのを知って驚いたことを覚えています。
別の小学校へ通った6歳年下の妹は共鳴箱を知らないといいます。今では、共鳴箱のついた音叉を置いている学校はないのでしょうか? 知らない人が多いのかもしれません。

わたしの心には共鳴箱があるようです。昨日教会で礼拝のメッセージを聞いたとき、わたしの心の音叉は鳴り響きました。数年前にも鳴りました。鳴ったのは何回目でしょう。なぜか礼拝中に鳴り出すのです。
牧師先生は最近の新聞記事を取り上げて言われました。
イライラしている小学2年生は40%、
自分などいない方がいいと思っている子供は30%、
日本の未来は暗いと思っている中高生は61%いる。
そして、自殺者は年間3万人以上。児童虐待の相談件数は3万件にも上ると……。現代は、何というカオス(混乱)の時代なのでしょう。

Ⅰコリント人への手紙の冒頭には、使徒パウロがコリントの教会の人たちのことを「聖徒として召され」た者と呼びかけています。聖徒というのは、その人が特別すぐれているからそう呼ばれるのではなく、神さまの恵みによって、イエス・キリストを信じることにより聖徒とされた者です。イエスさまは、ひとりひとりのクリスチャンのことも「聖徒」と呼んで下さっています。
「このわたしが聖徒? バンザーイ、嬉しいな」と手放しで喜んでばかりいられるでしょうか。

聖徒には目的、使命があるといわれました。自分の存在価値がわからず、生きる目的を失い、さまよっている人たちに「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」と言って下さる神さまの愛を伝えるという目的です。

わたしは、神さまの愛を子供や若者に伝えたいと思って小説を書いています。
でも、困難を感じ、とてもわたしには書き上げられないと落ち込んでいたときに、共鳴箱が鳴り出しました。どうしたらいいのでしょう……。いくら耳をふさいでも聞こえてきて、鳴りやまないのです。



クリスマス祝会

2005-12-17 17:37:56 | CS(子供伝道)

今日は教会学校のクリスマス祝会でした。いつも教会学校は日曜日の朝ですが、今日は特別です。もちろん明日の日曜日も教会学校があります。クリスマス会では、それぞれの学年で劇や歌や合奏などを発表しました。わたしは、小学2年生の先生をやらせてもらっています。2年生は12人で「よきサマリヤ人」の劇をしました。

「よきサマリヤ人」というのはイエス様のしてくださったたとえ話で聖書のルカの福音書(10:30-37)に書かれています。強盗に襲われた旅人が道に倒れていると、祭司が通りかかります。聖書の教えは全部守っているという祭司ですが、旅人を見ると道の反対側を通り過ぎていきます。

次に祭司につかえるレビ人が通りかかります。彼も旅人を見ると道の反対側を通り過ぎていきます。

そこへユダヤ人である旅人とは敵の国の人、サマリヤ人が通りかかります。彼は、旅人を介抱し、宿屋に連れていって一晩面倒を見、宿屋の人にお金を渡して翌日エリコの町にでかけていきます。

「さて、この三人の中でだれが強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」。とイエスさまは問われます。隣人(となりびと)になるとは、自分と同じように相手を愛し、大切にすることを意味します。

練習のときはふざけたり、セリフがなかなか覚えられなかったりしたのですが、本番になると子供たちは瞳を輝かせて立派に演じました。


16歳の犯罪……どうして人を殺してはいけないのか(3)

2005-11-15 18:11:11 | CS(子供伝道)
「どうして人を殺してはいけないか?」ということを聖書を用いずに話そうとすると、子供たちが納得する答えを出すのは難しいです。
人殺しは殺人罪だからダメだと言うだけでは納得しないでしょう。法で裁かれなけば悪いことではないと考えると、(極端な例ですが)殺人を犯しても誰にも知られなければ悪くないということになってしまいます。
殺人犯に対して、「あの人は人間じゃない」と言う人がいます。少なくとも自分と同じ人間だとは思えないからそう言うのでしょう。
でも、殺人犯の心理を書いた物を読むと、その人が特別冷酷な人なのではなく、追いつめられて人を殺してしまった。ほんの小さな憎しみ、ほんのささいなきっかけから殺人という行為に至ったという例が多いことに気づきます。
もちろん例外はありますが……。

自分が殺人罪を犯していないのは、環境が整えられ、守られているからだけで、心理的には殺人犯に近いときがあると思うことがあります。

「あの人なんかいなくなればいいのに」と心の中で思うことは、心の中で人を抹殺していることで、実際に殺さなくても殺人と同じ罪なのだと聖書はいっています。

小さな憎しみの芽がいつの間にかぐんぐん育って、心の中は憎しみでいっぱいになることがあります。憎しみを抱くと、その人自身の心も蝕まれていきます。

「自分の敵を愛し迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」
と聖書に書いてあります。ひとりひとりが憎しみの代わりに愛を持つことができたら、戦争もなくなり、殺人事件もなくなるでしょうね。そうなってほしいと心から願います。

16歳の犯罪……どうして人を殺してはいけないのか(2)

2005-11-13 17:18:24 | CS(子供伝道)
神さまなんてウザイ、ばかじゃないのとのコメントをいただきましたが、わたしも以前は神さまという言葉を聞いたり、宗教の話しを持ち出されると鳥肌がたつほどいやでした。だから、書いた人の気持ちがわかります。

「あなたのために神さまに祈っていますよ」と言われたときは、祈って下さいなんて頼んでないのに……神さまなんかわたしには関係ないと腹をたてていました。
目に見えない神さまを本気に信じている人などいないと思っていました。もし本気で信じている人がいれば、その人は狂っているか、大バカだと……。
 
 でも、今のわたしはたとえ人から「大バカ」と言われても、「神さまって本当にいるんですよ」と言います。「それなら証明して」といわれても、それはできません。風は目に見えませんが、風がふくと木の葉が揺れたりしてわかりますよね。神さまの存在も、目には見えないけれど感じられるのです。そして、どうして人を殺してはいけないのか?という問題を考えるとき、神さまの存在を否定しては、正しい答えが出せないのです。

【わたしたち人間を造られた神さまは、ひとりひとりをとても愛しておられます。でも、最初の人間アダムとエバが神さまの言いつけにそむいて木の実を食べてしまってから、人間は罪を犯すようになりました。罪というのは法に触れるものだけをさすのではありません。憎しみ、嘘、嫉妬等、心の中で抱く醜い思いも罪といいます。

神さまは、人間に永遠の命を与え、エデンの園のような天国に住まわせたいと思っておられます。でも、罪のある者は天国に入ることができません。人間は、自分の力では、自分の罪を消すことができないので神さまは、人間の罪を赦すためにご自分の一人息子であるイエス・キリストを地上におくりました。イエスはマリヤの胎をとおして人間の赤ちゃんとして生まれました。

イエス・キリストが生まれて約30年たったとき、十字架につけられて死にました。このことは、イエスが生まれる前から計画されていたことでした。イエスは神の子ですので罪がありません。罪のない者が、罪のある人間の身代わりになって死んで下さったのです。イエス・キリストは死んでから三日目によみがえりました。

イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったおかげで、罪のある者でもイエスを信じるだけで罪赦され、永遠の命をいただけるようになりました。】というのが下記の聖書の言葉の説明です。

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(みこ)を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためある。(ヨハネ3:16)」
神さまはひとり子のイエス・キリストを十字架につけるほど、わたしのことも、あなたのことも、あの人のことも愛して下さっています。
だから、このような(神さまに特別に造られ、特別に愛されている)人間を(自分も他人も)殺してはいけないのです。
イエス・キリストは、心の中でも人を殺してはいけないといわれました。それは、すべての殺人は、憎むこと、嫌いになること、腹をたてること、赦せないという感情から起こるからです。
人を殺したら神さまはとても悲しまれます。死んでしまった人の家族や多くの人が悲しみます。自分の一生を苦しめます。
殺してしまった人にどんなにあやまっても、その人は生き返りません。でも、殺人者を赦すことの出来るお方(神さま)がおられることを忘れないでください。
人を殺さない(心の中でも実際にも)ためにはどうしたらいいでしょう?
1)赦すこと、愛することをイエスさまから学ぶ。2)友達の悪いところばかり見るのではなく、いいところを見つける。3)暴力的なビデオや漫画、ゲームなど見ない、やらない。4)友達に対して思いやりの心、優しい心を持つ。etc……。
これらのことを心がけることが大切です。以上が昨年夏に教会学校で小学生に話された内容です。

16歳の犯罪……どうして人を殺してはいけないのか(1)

2005-11-12 17:35:11 | CS(子供伝道)
16歳の犯罪が続き、ショックを受けています。昨年、小学生が同級生を殺してしまうというショッキングな事件が起きたとき、わたしの通う教会の教会学校では「なぜ人を殺してはいけないのか」ということについて小学生に話をしました。その話の内容をかいつまんで紹介したいと思います。
(これは、「生かされて……土筆文香」のHPつれづれ日記3月にも掲載しました)

どうして殺してはいけないのかというと、十戒に「人を殺してはいけない(出エジプト記20:13)」とあるからです。十戒とは神様が人間に与えて下さった10の命令です。
また、すべての人は、神様によって造られたのです。だから、どんな人も殺してはいけません。人間は他の動物とは違う特別な存在として……神様と話したり、賛美したりできる存在として造られました。
「神はこのように、人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:27)」と聖書にあります。
神様は、すべての人を……ぼくも、わたしも、君も、あなたも、この人も、世界中すべての人をいちばん良くできた尊い存在として見て下さっています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43-4)」と神さまは言っておられます。


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