goo blog サービス終了のお知らせ 

生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

2回も婚約者に死なれた人

2016-04-08 20:25:44 | CS(子供伝道)
明日の子ども家庭集会でお話ししようと思い、「いつくしみふかき」の作詞者について調べていました。初めて知ったこともあり、驚きと感動の連続です。

讃美歌「いつくしみふかき ともなるイエスは」を作詞した人はジョゼフ・スクラィヴェンで、作曲者はチャールス・C・コンヴァース)です。
ジョゼフ・スクラィヴェンは200年ほど前にアイルランドで生まれました。

大学を卒業して、結婚しようとした矢先、婚約者の乗ったボートが転覆して婚約者が溺れ死んでしまいました。
深い悲しみの中にあった彼は、カナダへ行き、小さな町の学校の先生になります。

カナダへ行ってからのジョセフは悲しみをこらえて、町の貧しい人たちのために薪割りをしたり、生活を助けたりして熱心にボランティア活動をしました。
この悲しい出来事から、ジョセフは貧しい人たちのために残る自分の生涯と全財産をささげようと決心したのです。
 
そのうちジョセフは、エリザという娘さんと愛し合うようになり、結婚の約束をします。ところが、結婚を前にして、エリザは結核になって死んでしまいました。

ジョセフはたとえようもなく深い悲しみに沈みました。
けれども彼は、その苦しみの中で神様の慰めを感じていました。そして、そのことで悲しんで落ち込んでいるアイルランドにいる母親を慰めようとして書いたのが、この「いつくしみふかき」だったのです。

ジョセフは結婚を前にして婚約者に死なれるという悲しい体験を2回もしました。
わたしだったら「神さまの意地悪、どうして2度もこんな目にあわせるの!」と、神様に文句を言うか、落ち込んで何もやる気がなくなってしまうかどちらかでしょう。

でも、ジョセフは違いました。人々にイエス様の愛を伝える情熱に燃えていたそうです
当時ジョセフのことをよく知っている人が、『ジョセフの顔は平安と優しさに満ちていた』と言ったそうです。

ジョセフは、神様のことを話し出すと、目が輝きました。苦しみにある者を慰めてくださる神の愛をジョセフが語るとき、その表情は生き生きと見えたのだそうです。

どうしてそのようになれたのでしょう。心を注ぎだして祈り、神様をまっすぐ見つめた時に、深い慰めと平安をいただいたのです。

49歳の時、ジョゼフは病気になり、ライス湖という湖のほとりにあるジェームス・サックヴィルという人の家庭に引き取られました。

「いつくしみふかき」の詩は、お母さん以外誰にも見せていませんでした。ジョセフ自身は誰にも見せるつもりはなかったのですが、ジェームスが、スクラィヴェンの持ち物の中に美しい信仰の詩があるのを発見して出版社に送りました。

それに目を止めたのが、アメリカの有名な伝道者ムーディーの専属歌手サンキーでした。彼はこの詩に溢れている神への信頼に感動して、 サンキーと共に讃美歌集を作っていたチャールス・C・コンヴァースが曲つけました。そして、世界中で歌われることになりました。歌詞とその意味を紹介します。

①いつくしみ深き 友なるイェスは つみとがうれいを とりさりたもう  
 心のなげきを つつまずのべて などかはおろさぬ おえるおもにを

②いつくしみ深き 友なるイェスは われらの弱きを 知りてあわれむ
 なやみかなしみに しずめるときも 祈りにこたえて なぐさめたまわん

③いつくしみ深き 友なるイェスは 変わらぬ愛もて みちびきたもう   
 世の友われらを すてさるときも 祈りにこたえて いたわりたまわん                                                                


①いつくしみ深き(愛の深い)友なる(友だちである)イエスは 罪(してはいけない悪いこと)、咎(あやまち、欠点)うれい(かなしみ)を取り去ってくださる。
心の嘆き(かなしみにひたること)つつまず(かくさず)のべて(話して)
などかはおろさぬ(どうしておろさないでいられようか)負える重荷(背負っている重い荷物を)を。

②いつくしみ深き友なるイエスは、われらの弱きを知りてあわれむ。(わたしたちが弱いことを知って同情してくださる)
悩み悲しみに沈めるときも(悩みや悲しみで落ち込んでしまうときも)祈りにこたえて、なぐさめたまわん。(祈りに応えてなぐさめてくださる)

③いつくしみ深き友なるイエスは、変わらぬ愛もて導きたもう。(変わらない愛によって導いてくださる)
世の友われらを、捨て去るときも。(友達がみなわたしたちを捨てて行ってしまっても)祈りにこたえていたわりたまわん。(祈りに応えて、気を配り大切に扱ってくださる)


写真は今日の桜川。花びらの絨毯のよう。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

白髪になっても

2016-03-01 16:24:31 | CS(子供伝道)
日曜日は教会学校の暗唱聖句大会でした。一か月以上前から聖句の書かれた冊子を子どもたちに配り、家で覚えたり、分級(学年ごとのクラス)で覚えたりしてきました。

暗唱聖句大会当日は覚えていない子にも覚えている子にも楽しくできるゲームが用意されていました。暗唱聖句大会の委員がさまざまな工夫を凝らして、長い時間かけて備えてきたゲームが行われました。

低学年(小1~小3)を4グループに分け、グループごとに競いました。みことば並べ替えクイズは、ただ並べ替えるだけでなく、一部の言葉を隠しておき、グループで隠された言葉を考えるという凝ったものや、上の句下の句でとる百人一首のようなカルタ。聖句には関係ないのですが、一年生も楽しめるジャンケンゲームや、お兄さんが背負っているかごに新聞紙のボールを投げ入れるゲームなどもあり、2時間はあっという間に過ぎました。

暗唱聖句大会の聖句は毎年違うのですが、今年は少し長いのが多かったです。毎日家事をしながら、散歩をしながら、最後の方はクリアケースにプリントした聖句を入れて、風呂場に持って行き、お風呂につかりながら覚えました。すべて覚えた時は、ちょっとでも頭を動かしたらこぼれ落ちてしまうのではないかと思うほど……。

覚えた20の聖句の中で、とくに心に留まった聖句を紹介しますね。

「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが、しらがになってもわたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう。」イザヤ46-4


年を取っていくとだんだん不安になってきます。白髪が増え、体が思うように動かせなくなり、やがて歩けなくなってしまうかもしれないと思ってしまいます。そんなとき、この御言葉を思い出すと平安な気持ちになります。歩けなくなっても神様は背負ってくださるんだ。自分がどんな状態になっても、神様が救い出してくださるのだと、嬉しくなるのです。
覚えるコツは、「あなたがた」は2回、「わたし(神様のこと)」は5回出てくること。
聖書箇所は、46-4を白(4、6)い毛が4本と覚えました。


「わたしはあなたがたに立てている計画をよく知っているからだ。=主のみ告げ=。それはわざわいではなくて平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29:11

わたしたちの人生に神様は計画を立ててくださっています。どんな計画なんだろう。これから大変辛いことが起きるのではないかと恐れます。でも、大丈夫。神様がわざわいではなく、平安を与え、将来と希望が与えられるといわれるのですから。

覚えるコツ
20の聖句のうち、エレミヤ書はこの聖句だけだったので、この聖句は『エレミヤの肉いい計画』と覚えました。にくいい→29:11エレミヤと肉は、あまり関係ないですが・・・・・・。

子どもたちの心に植え付けられた聖句が、大人になったときに大きな力となることを祈っています。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

なくなったPペーパー

2016-02-22 20:17:43 | CS(子供伝道)
昨日は朝8時に家を出て教会へ行き、帰ってきたのは5時過ぎでした。教会学校のイースター礼拝で教師たちがスライド劇をするので、その練習が始まったのです。そして、午後から教師会もあったので忙しくも充実した一日でした。

また、その日は教会学校のメッセージ担当でした。ラザロのよみがえりのお話です。パネルシアターを使ってしようと思ったのですが、Pペーパーがもうありません。
パネルシアターとは、パネル布を貼った舞台に絵をつけたり外したりして見せながらお話をするもので、舞台は段ボールにネルを貼って作りました。
Pペーパーは不折布で、ポスターカラーや絵具でよく染まります。クーピーでも色が付きます。パネル布にくっつくので、絵を動かしながらお話しできます。

以前10枚一組で売っていたのを間違えて10組(B4サイズ)買ってしまい、返品するのが面倒なので、100枚全部を教会学校のお話のために使おうと決心しました。描ききれるまでCS教師を続けられますようにと祈りました。
それから20数年たってPペーパーがとうとうなくなりました。

ラザロのお話を、今まで書いてきた絵を使ってできるか調べると、布が巻かれたラザロを作るだけで足りることがわかりました。捜してみるとPペーパーの切れ端が出てきて、ちょうど人物をひとりぶん描けるだけのスペースがありました。すべて使い切って、感慨深いものがありました。
ラザロのお話はこれまでに何度もしてきましたが、今回準備していて、新しく気づかされたことがありました。
お話を紹介します。聖書はヨハネ11:1-46です。

エルサレムの近くのベタニヤという村にマルタ、マリヤ、ラザロの3人きょうだいがいました。3人の家にはよくイエス様が立ち寄られ、食事を共にし、お話をしました。

イエス様がベタニヤから離れた町におられるとき、ラザロが重い病気になりました。マルタとマリヤは一生懸命看病しましたが、治るどころか、だんだん重くなって今にも死にそうになってしまいました。

「姉さん、このままじゃ、ラザロが死んでしまうわ」
「イエス様がおられたら治していただけるのに……」
「イエス様を呼びに行ってもらいましょうよ」

マリヤとマルタは相談して、使いいを送ってイエス様にラザロの病気のことを伝えてもらいました。
使いの者は2日かかってイエス様のところにたどりつき、「あなたの愛する者が病気です」と言いました。
イエス様は「ラザロの病気は、神様の栄光をあらわすためだ」と言って、すぐにはベタニヤに行こうとされませんでした。

2日たって、イエス様は弟子たちに「ラザロの眠りを覚ましに行く」と言われました。弟子たちは、ラザロは眠っているだけなのか。それなら大丈夫だろうと思いました。
ところが、イエス様は「ラザロは死んだのです」と言われました。

イエス様がベタニヤの村についたとき、マルタが駆け寄ってきて言いました。「主よ。もしここにいてくださったら、ラザロは死ななくてすんだのに・・・・・・」

それに対してイエス様は、「ラザロはよみがえります」と言われました。
マルタは「世の終わりの日に死者がよみがえることを知っています」というと、イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われました。

マルタはイエス様の言われることの意味がよくわかりませんでした。イエス様はどんな病気でも癒すことができると思っていましたが、死んでしまった人はどうしようもないのだとマルタは思っていたのです。

それから、マルタは家もどって、イエス様が来ておられることをマリヤに教えると、マリヤは家から出てきてマルタと同じことをイエス様に言って泣きました。「主よ。もしここにいてくださったら、ラザロは死ななくてすんだのに・・・・・」

町の人たちもラザロの死を悲しんで泣いています。それを見て、イエス様は、激しく心を動かされて涙を流されました。
イエス様はラザロのお墓にいらっしゃいました。岩をくりぬいて作った墓の入り口には大きな石が置かれていました。

「その石をとりのけなさい」とイエス様がおっしゃいました。マルタはびっくりして、「ラザロが死んで4日もたっています」と言うと「わたしを信じるなら、神の栄光を見ると言ったでしょう」とイエス様が言って、お祈りしました。

「父よ。私の願いをきいて下さってありがとうございました」
ラザロがすでによみがえったかのような感謝のお祈りでした。
そして墓に向かって大声で叫びました。「ラザロよ、でてきなさい」
すると、ラザロはお墓に入れられた時の布を巻きつけたまま出てきました。イエス様は、「ラザロの布をほどいってやって家に帰らせなさい」と言われました。

お話の後で……
イエス様は、ラザロの死は「神の〇〇をあらわすため」と言われましたが、〇〇とは何でしょうと尋ねると「栄光」と1年生、2年生の子どもたちが答えました。
栄光をあらわすとは、ここではイエス様によってラザロがよみがえったことをさしています。
この出来事によって、イエス様はご自分が死に勝つものだということを示されました。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

暗唱の力

2016-02-09 20:47:58 | CS(子供伝道)
年に一度の暗唱聖句大会が近づいてきました。
教会学校の子どもたちには、20の聖句と課題聖句を覚えるようにすすめています。

今年の課題聖句は、エペソ4:1~16で、字数にすると819字です。毎日家事をしながら少しずつ覚えていきました。一字一句違えずに覚えるのです。3/4ほどは順調でした。最後の2節を覚え始めたら、前に覚えたところと混ざり合い混乱してしまいました。
文章的に考えて、主語述語がはっきりしないとか、接続詞がおかしいなどと考えてしまうともうだめです。
この前の日曜日には5,6年生の男子が全部覚えてすらすら言ったというのを聞いて感心しています。学年ごとに覚える量が違っていて、1,2年生は少ないのですが、5,6年生は大人と同じです。
低学年の子どもにとっては難しい言葉が多いのですが、一生懸命覚えている姿を見ると、負けてはいられないと思います。それでも、覚えられません。
年のせいで記憶力が落ちているとは思いたくないです。
覚えることができる力を与えてくださいと、神様に祈っています。

その課題聖句を紹介します。


エペソ11:4-16
さて、主の囚人である私は、あなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、御霊(みたま)の一致を熱心に保ちなさい。
からだはひとつ、御霊(みたま)はひとつです。
あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みがひとつであったのと同じです。
主はひとつ、信仰は一つ、バプテスマはひとつです。
すべてのものの上にあり、すべての物を貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神はひとつです。
しかし、わたしたちはひとりひとりキリストの賜物の量りにしたがって、恵みを与えられました。
そこで、こう言われています。
高いところに上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。
この上られたということばは、彼がまず地の低いところに下られたということでなくて何でしょう。
この下られた方ご自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天より高く上られた方なのです。
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師または教師としてお立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、満ち満ちたキリストの身たけにまで達するためなのです。
それは、私達がもはや子どもではなくて、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ愛を持って真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
キリストによって、体全体は、ひとつひとつの部分がその力量にふさわしく働く力により、また備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して愛のうちに建てられるのです。


日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)のHP更新しました。私の作品「春」を掲載しています。ここをクリックしてから、メニュー作品をクリックしてください。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

感謝感激

2016-01-07 16:18:28 | CS(子供伝道)
1月3日にした教会学校のお話は、ルカ2:40-52 12歳になったイエス様が両親と共にエルサレムの神殿に行ったときの出来事です。
子どものころのイエス様のことが書かれている記事はルカ2章だけです。これまで教会学校で話したことのない箇所でした。

ユダヤの人たちは、過ぎ越しの祭りに毎年礼拝するためにエルサレムに向かいます。親戚や近所の人たちとグループに分かれてぞろぞろ歩いて行くそうです。

ヨセフとマリヤも毎年過ぎ越しの祭りにはエルサレムに出かけていました。イエス様が12歳になった年もイエス様を連れて5日ぐらいかけて歩いていきました。
神殿で礼拝を捧げ、帰り道につきました。一日かけて道を進んだ後でヨセフとマリヤはイエス様がいないのに気づきました。

「どうしましょう。どこかではぐれてしまったのかしら」
「とにかく戻って探そう」
ふたりは、みんなと別れてエルサレムまで戻ってきました。

ようやくイエス様をみつけたのは、3日後でした。なんと、イエス様は神殿で偉い学者さんたちと話をしていたのです。
イエス様の知恵があまりにもすぐれているので、学者の先生たちや聞いていた人たちは、びっくりしていました。
ヨセフとマリヤは驚きました。
マリヤは「まあ、あなたは私達になぜこんなことをしたのです。見なさい、父上も心配してあなたを捜しまわっていたのです」と言いました。

すると、イエス様は、驚いているお父さん、お母さんを不思議そうに見ていましたが、やがて、
「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか」と答えました。

父の家というのは、父なる神様の家、神殿のことを言っています。イエス様は神様の子どもなので、そのように言うのは、当たり前のことなのです。

そのとき、ヨセフもマリヤもイエス様の言葉の意味がわかりませんでした。でも、聖書には「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」と書かれています。

心に留めるとは、どういうことでしょう?
宝物のようにして心の中に置くことです。たくさんの出来事が起きると、すべてを覚えていられなくて忘れていきます。でも、マリヤは、意味はわからないけれど、このことは大切だからしっかり覚えておこうと思ったのです。
その前にもマリヤが「心に納めて」と書かれている聖書箇所があります。イエス様が生まれて、羊飼いたちが礼拝に来たとき、天の軍勢が現れた話をしました。それらのことをマリヤは心に納めたのです。

お話はここまでですが、イエスさまはなぜ神殿で学者さんたちと話していたのだろうかと思いました。
正確なことはわかりませんが、ひとつは、ヨセフとマリヤにイエス様が神様の子どもであり、救い主であることを思い出させるためではないかと考えました。
ふたりともイエス様が生れる前に天使から告げられて神の子だと知っていました。生まれた後は、羊飼いの話した言葉の中にイエス様が神の子であることを聞いていました。

でも、それから12年もたっています。普通の子どもとして育っているイエス様をみて、両親はイエスが神の子であると意識していなかったのではないでしょうか。

なので、神の子なのだということをふたりに思い起こさせる必要があったのかもしれません。

大人の礼拝では、次のみ言葉が示されました。
「事実、いま私たちは神の子どもです。(Ⅰヨハネ3:1)」

イエス様は神の子だとわかるけど、わたしたちも神の子とは、どういうこと?と不思議に思われるかもしれません。

「イエス様は、神の子となる資格のないわたしたちを、神の子としてくださったのです。いかに大きな事実を与えてくださったのか、感謝せずにはいられません」と牧師先生が言われました。

そうです。罪のため、神様と断絶状態になっていた者なのに……キリストによって神の子としていただいたのです。感謝、感激です。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

キャンプの恵み

2015-07-30 11:32:45 | CS(子供伝道)
24日、25日は教会学校低学年キャンプでした。母のことで忙しく、今回は準備の段階からすべて他の先生にお任せしてしまいました。当日は泊まることはできませんでしたが、両日とも奉仕できました。
孫のヒックン(3年生)も参加できてよかったです。ヒックンは去年も参加しました。今年はわたしと一緒の参加がおそらく最後なので、特別な思いを抱いていました。最後というのは、来年もわたしは低学年の教師をさせていただくつもりですが、ヒックンは4年生になり、高学年キャンプに行くことになるからです。

ヒックンはふだんの日曜日は教会学校に通っていないので、教会学校は一年ぶりでした。
ヒックンは初めて会った人とすぐ友達になれるという賜物が与えられているので何の心配もありません。同じグループの先生や子どもたちとすぐ仲良くなって、なじんでいました。
でも、少し不安なこともあるのか、集会のとき、ヒックンの方を見るといつも目があっていました。

猛暑の中、青年の家に行って外を走り回ってゲームをし、体育館では王様じゃんけんゲームや巨大すごろくをしました。楽しくて、気が付くとわたしも走り回っていました。いつもは身体を動かすゲームをするとき、身体が弱いので木陰で見ていることが多かったのに、今回は体調のことも気にせずに子どもたちと一緒になって体を動かし、汗をかきました。(それでも大丈夫でした)

すごろくは、ペテロの歩みをたどるものになっていました。ブルーシートを使って水の上を歩き、イエス様に助けてもらう体験をしたり、先生の足を洗ったり……聖書のお話しを思い出しながらすすんでいきました。

クーラーのきいた涼しい部屋でお弁当を食べて、またすごろくの続きをし、帰るときに雨がぽつぽつ降り出しました。
全員が教会バスに乗ったとたん大雨になり、見晴らしのいい景色の中、何度も稲妻が光るのをみて、子どもたちはキャーキャーと声を上げていました。
教会に着いたら、小雨になっていました。夕飯のカレーを食べているうちにすっかり雨が上がり、キャンプファイヤーができて本当に良かったです。

次の日はまたグループごとの対戦で、水鉄砲や水風船を使ってのゲームをして、大いに盛り上がりました。
お昼の流しそうめんは、滑り台の上から流したので、つかまえるのに必死でした。そうめんだけでなく、ミニトマトやカップゼリー、ようかんまで流れて来たのでびっりしました。

「キャンプがあと10日続いたらいいのに」と言った子どもがいました。
こんなに楽しくて貴重な経験をした子どもたちを神様は祝福してくださっているのだなあと思いました。


母はホームの生活に慣れてきましたが、足がむくんで、歩くのが困難になりました。部屋の中は伝い歩きでようやく歩けるのですが、外へ行くときは車椅子です。
入院前までは車いすも杖も手押し車もいやだと言っていたのですが、今は受け入れています。

妹が実家に置いてきた神棚のことを話すと、母は「神棚は人間が作ったものだから、いらない」と言いました。聖書をほんの少ししか読んでいなくても、母にはこのことがわかっているのだと思うと、嬉しくなりました。
聖書には、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。(使徒の働き17:24)」と書かれています。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

備えられていた良いこと

2015-07-23 12:19:33 | CS(子供伝道)
この前の日曜日、教会学校でお話をしました。今、旧約聖書アブラハムのお話を続けてしています。先日はアブラハムの息子イサクの結婚のお話でした。
聖書のお話の後に母のことを語らせていただきました。紹介させていただきます。


アブラハムのお話しを続けて聴いていましたね。イサクが生まれたのは、アブラハムが何歳の時だったでしょう・・・・100歳のときですね。
それからイサクは成長し、大人になりました。イサクが40歳のとき、アブラハムは140歳ですね。
アブラハムはイサクにお嫁さんをみつけなければと思いました。今住んでいるカナンという土地いる人は、神様を知らない人たちばかりです。それで、アブラハムの親戚たちが住む場所でイサクのお嫁さんを探すことにしました。
アブラハムは信頼できる召使に「わたしの故郷へ行ってイサクにふさわしいお嫁さんを探して連れて来てくれないか」と言いました。

神様はアブラハムに『あなたとあなたの子孫にこの地を与える』と約束してくださいました。この地とはカナンのことです。イサクがカナンを離れて別の場所に住むようなことになってはいけないので、お嫁さんがこちらに来てもらうようにしなければならないとアブラハムは召使に言いました。

召使は十頭のラクダを連れ、たくさんの贈り物を持って旅に出ました。アブラハムの故郷ナホルの町に着くまでは何日もかかりました。
夕暮れ時、ようやくナホルの町に着きました。召使はイサクにふさわしいお嫁さんを連れて帰れるのか心配になってきました。
召使は井戸のそばに腰を下ろして天の神様に祈りました。

「神様、わたしはいま、水のところにいます。これからこの町の娘たちが水を汲みに来るでしょう。わたしが娘さんに『どうかあなたの水瓶を傾けてわたしに水を飲ませてください』と言ったとき、娘さんが『わたしはあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘がイサクのために神様が用意してくれたお嫁さんだと知ることができますように。

すると、召使いが祈りの言葉を言い終わらないうちに、水瓶を肩に乗せてひとりの娘が井戸にやってきました。
召使は声をかけました。「水を少し飲ませてくださいませんか」娘は「どぞお飲みください」と、快く水を分けてくれました。さらに「らくだにも水を汲んであげましょう」と言って何度も井戸の水ををくんでくれました。
召使は、この娘さんがイサクさんのお嫁さんとして神様が用意してくださった人かもしれないと思って、ドキドキしながら尋ねました。

「あなたは、どちらの娘さんですか?」
「ナホルの妻、ミルカの子、ベトエルの娘です」
娘さんは、なんと、アブラハムの親戚だったのです。
この人こそイサク様のお嫁さんになる娘さんだとはっきりとわかって、召使は金の腕輪を娘さんに差し出しました。娘さんの名はリベカといいました。

リベカは召使に自分の家に泊まってくださいと言いました。ラクダの餌もありますからといいました。
召使は、ひざまずいて神様に礼拝を捧げ、感謝のお祈りをささげました。
召使はリベカの家に行ってリベカの家族の人たちにどのようにしてリベカと出会ったか話をしました。そして、リベカをアブラハムの息子、イサクのお嫁さんとしてカナンに連れて行きたいと言いました。

家族の人もリベカも、神様が導いてくださったことを感謝し、喜んで承知しました。
リベカは、行ったことのない土地でまだ会っていない人と結婚することになりましたが、何の心配もありませんでした。神様が結婚するようにしてくださったと思ったからです。
カナンの町に入ると、イサクがリベカを迎えに出てきました。そして、イサクとリベカは結婚しました。

神様は、祈りを聞いてくださるお方です。召使はまず祈っていますね。そしてリベカさんに出会った後でも祈っていることが大切なことです。
召使が祈り終わらないうちにリベカが井戸のところに来ていたことって、すごいですね。召使がカナンの町の入らないうちにリベカは水汲みをしようと井戸に向かっていたのですから、神様がすべてを導いてくださったことがわかりますね。
神様は、神様を信じる人を導き、よいことを備えてくださいます。

わたしのお母さんのことを話します。
お母さんは85歳です。東京でお父さんと2人で暮らしていましたが、お父さんは8年前にイエス様を信じて天国に行きました。それからお母さんは一人で暮らしていました。

わたしは、お母さんもイエス様を信じることができるようにとずっと祈っていました。
お母さんの家に行くたびに、聖書の話をしましたが、お母さんはあまり聞いてくれず、「私は信じない」と言っていました。
そのお母さんが去年の秋、胃がんになりました。手術して退院してから元気になりましたが、またいつ悪くなるかわからないので、私の家の近くにある老人ホームに入ることになりました。引っ越しの準備をしていると、お母さんの具合が悪くなって熱が上がったり下がったりするようになりました。

なんとか5月4日に引っ越ししましたが、ホームに着いたら40度の熱が出てしまいました。
救急で病院へ連れて行くと、最初熱の原因がわかりませんでした。

3人の先生が何時間もかかって調べてくれました。その中のリーダーの先生が肝膿瘍といって肝臓にうみのたまる珍しい病気だと気が付いて、お腹に穴をあけて悪い物を出す手術をしてくれました。

もし、その手術を受けなければ死んでいたでしょう。手術はうまくいって、入院しました。お母さんは入院してすぐ、洗礼を受けたいと言い出して、5日目に洗礼を受けました。

後から聞くと、秋に病気になってから少しずつイエス様を信じるようになっていたのです。
病気はつらく、苦しいことでしたが、神様はお母さんがイエス様を信じるように導いてくださっていたのです。わたしの祈りはきかれました。
神様は、神様を信じる人を導き、よいことを備えてくださっています。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



いのちの水

2015-04-20 21:00:17 | CS(子供伝道)
昨日は小学科でメッセージをさせていただきました。ヨハネ4:1-29からイエス様に出会ったサマリヤの女の人のお話です。

実家との往復で忙しく、準備する時間が少ししかありませんでした。でも、以前描いたパネルシアターの絵があったので、それを使うことにしました。
お話は、テキスト「成長」(いのちのことば社)を参考に書いて電車の中で覚えました。

小学科低学年向けにしては、難しい聖書箇所でした。イエス様とサマリヤの女の会話は、礼拝する場所についてまで及んでいましたが、その部分は省略しました。

お話を紹介します。

サマリヤのスカルという町にひとりの女の人が住んでいました。その人は昼の12時ごろ、井戸の水をくむために水瓶を持って歩いていました。
サマリヤ地方は、昼間は日が照りつけてとても暑く、そんな時間に水を汲みに行く人はほとんどいませんでした。みんな朝早くか夕方の涼しい時間にくみに行っていました。

なぜ女の人は暑い時間に水をくみにでかけたのでしょう……。女の人は正しい生活をしていなかったので、町の人からのけものにされていました。陰口を言われていることも知っていました。それで、町の人に会わないようにわざと人の来ない時間に水汲みに行ったのです。

さて、井戸のほとりにはイエス様がすわっておられました。
イエス様はサマリヤを通ってユダヤからガリラヤへ行く旅をしておられました。
そのころ、ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪く、ユダヤ人はサマリヤ人を馬鹿にしていました。ユダヤ人はサマリヤの土地を通ることさえきらって、サマリヤを通らずにわざわざ遠回りしてでかけていました。

でも、イエス様は違いました。
女の人は、井戸のそばにユダヤ人の男の人がすわっているのをみて、どうしてユダヤ人がサマリヤにいるのかしらと思いました。
イエス様は、女の人に言いました。
「わたしに水を飲ませてください」
女の人はびっくりしました。ユダヤ人がサマリヤ人に話しかけることがなかったからです。
「あなたはユダヤ人でしょう。どうしてサマリヤ人のわたしに水を飲ませてくださいなんて言うのですか?」
女の人が尋ねると、イエス様は不思議なことを言われました。
「わたしはあなたに『生ける水』を与えることが出来る。その『生ける水』を飲んだ人は決して渇くことがない」
「えっ、そんな不思議な水があるなら、わたしに下さい。それを飲めば、もう水汲みにこなくていいのですね」
女の人はイエス様の言われる『生ける水』を飲めば喉が渇かなくなるのだと思ってそう言いました。
でも、それは喉が渇かなくなるのではなく、心が渇かなくなるという意味でした。女の人は、心に悲しみがあって、寂しくて心が渇いていたのです。

それでは『生ける水』とは何でしょう? 『生ける水』とは、イエス様の下さる水のことです。それを飲むというのは、イエス様を救い主と信じることです。
信じたら、その人の心の中で永遠のいのちへの水が湧き出るとイエス様が言われました。

聖書の言葉を読んでみましょう。
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)」

イエス様を信じることによって新しいいのちが与えられ、なくなることのない喜びが心にあふれるのです。

イエス様がこのように言われたのは、この女の人の生活をご存じだったからです。この人は幸せになりたくて5回も結婚しましたが、どれもうまくいきませんでした。いつも満たされない寂しい気持ちでした。町の人からはのけ者にされ、ひとりぼっちでした。イエス様はそんな女の人の悲しみをすべてご存知でした。

イエス様は「あなたは5回結婚しましたが、今一緒に住んでいる男の人はあなたの夫ではありませんね」と言いました。イエス様が女の人がしたことを言い当てたので、女の人は驚きました。
(わたしはこの人に今日初めて会った。自分のことは何も話してないのにこの人は知っていた。この人はいったい誰なの? 神様のことを伝える預言者なのかしら)
女の人は思いめぐらしているうちに、聖書(旧約聖書)の言葉を思い出しました。

「聖書には救い主がいつか来てくださると書いてありますが、救い主がもし来てくださったら、正しいことを教えてくださるのでしょうね」
「あなたと今話しているこのわたしが救い主です」
「えっ! あなたが、救い主なのですか。ああ、わたしは救い主と出会って、話したのですね。」
女の人の心に喜びが湧きあがりました。イエス様を救い主と信じたので、今まであった悲しみや空しさがなくなってしまいました。

そして、急いで町へかけて行き、人々に向かって叫びました。「みなさん、聞いて下さい。わたしは救い主に会いました。井戸のそばおられる方がそうです。みなさん、来て、見てください」
女の人はそれまで町の人と顔を合わせないようにしていたのですが、イエス様に出会ってすっかり心が変えられて、町の人にイエス様を伝えました。伝えずにはいられなかったのです。
女の人のおかげで多くのサマリヤ人がイエス様を信じるようになりました。

サマリヤの女の人は、最初、人に会いたくなくて人の来ない時間に水汲みに出かけていましたね。でも、このとき女の人は町の人のところへ出かけて行っています。どうしてでしょう……。

それは、女の人がイエス様の下さった『生ける水』を飲んだからですね。『生ける水』が泉のようにあふれ出て、喜びでいっぱいになったのです。心の渇きがなくなったのですね。それで救い主を町の人たちに伝えたいと思ったのでした。


わたしも『生ける水』をいただいています。だからどんなに苦しい時でも、喜びが泉のように湧き上がってくるのです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



洗濯バサミで遊ぼう

2015-02-14 20:28:50 | CS(子供伝道)
今日はOさん宅での子ども家庭集会でした。教会に集合して出かけるのですが、ちょうど出かけようとしたとき風が強くなったので、自転車は危ないと思い、歩いて行きました。
歩いて行って正解でした。どんどん風が強くなり、学園大橋を渡るときは、歩いていても風にあおられそうで怖かったです。

お話とゲームの担当を教会のI先生と交互にしています。今回はわたしがゲーム担当でした。
ゲームはインターネットでヒントを得ますが、オリジナルのものもあります。
6年生と4年生の子どもたちと一緒にして、大いに盛り上がりました。
そのゲームを紹介しますね。(6人参加して、かかった時間は①~③で30分ぐらいです。)

①洗濯バサミじゃんけん
ひとり5つずつ洗濯バサミを服につける。
歩き回って出会った人とじゃんけんし、勝ったら、ひとつ洗濯バサミを相手からもらえ、負けたら渡す。洗濯バサミがなくなってしまった人が出たら終了。

②洗濯バサミ追いかけじゃんけん
全員輪になってすわる。
向かい合うふたりが洗濯バサミを持つ。リーダーの合図で、洗濯バサミを持った人は、右となりの人とジャンケンをする。
ジャンケンに勝ったら、負けた人に洗濯バサミを渡す。もしジャンケンに負けたら、今度は、左となりの人とジャンケンする。そこで負けたら再び右となりの人とジャンケン。
こういうふうにしてジャンケンをしては、洗濯バサミを渡していく。洗濯バサミを2本持った人が負け。
このゲームで使う洗濯バサミは①で使うものと色を変えて、マイナス1とする。


③洗濯ばさみクレーン
洗濯バサミでえんぴつをはさんで箱に入れる。6本入れるのに何秒かかるか時間を測る。
自分で10秒~20秒の秒数を申告して、申告した時間内に全部箱に入れられたら、洗濯バサミ5つもらえる。(ちょっとしたコツがあるので、練習時間を設ける。あせるとうまくいかない)
①~③で洗濯バサミの数を合計して結果発表する。


今回は、家に洗濯バサミがたくさんあったので、それを使ってのゲームができたらいいのにと探っていました。これまで、空き缶、ペットボトル、ペットボトルのキャップ、新聞紙、軍手、ピンポン玉など身近にある物を使ってゲームをしてきました。

今日行った①と③は11日に孫のヒックンが来たので、洗濯バサミで遊んでいるうちに思いついたゲームです。ヒックンと遊びに興じていたら、なぜか10か月のナルクンに大うけして、キャッキャ、キャッキャとはしゃいでいました。

I先生のお話は、 エペソ2:10から「神の作品」という題でした。朝焼けの美しい写真を見て、この世界を造ってくださった神様のすばらしさを改めて思いました。そして、神様が私たち人間を良い行いをするために造ってくださったことの意味を深く考えさせられました。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)」


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。



ラパパンパン

2014-12-24 16:32:43 | CS(子供伝道)
クリスマスおめでとうございます!


21日は、教会学校小学科のクリスマス祝会でした。低学年はリトルドラマーボーイの曲から「ポールの贈り物」の劇をしました。
11月はじめからダンスと賛美、太鼓グループに分かれて練習を重ねてきましたが、子どもたちはなかなか集中できず、気持ちもひとつになれませんでした。

14日のリハーサルでは30分の劇なのに1時間もかかってしまいました。
本番で演じるチャペルでの練習が一回きりなので、出入りを覚えさせるのが大変でした。せっかく覚えても次は一週間後なので、忘れてしまうのです……。

今年は、小学科の礼拝を先に行い、そのあと本番前に20分のリハーサルの時間がとれたので、去年よりはよかったです。

ついに、本番になりました。緊張しているのは子どもたちより教師たちのようです。
わたしも、何度もシミュレーションしたことを思い出して、心の中で祈りながら備えました。

BGMが流れて、劇は始まりました。最初は「このままの姿で」の曲を演奏しました。
台本通りスムーズに進み、いよいよクライマックスです。「リトルドラマーボーイ」の曲が流れ、賛美、ダンス、太鼓の演奏が始まりました。

子どもたちは、目をキラキラ光らせて一生懸命演奏しています。バックには赤ちゃんイエス様が笑っている画像が大きく映し出されています。
子どもたちは、イエス様への贈り物としての演奏、賛美をするのだという気もちになったようです。はじめて気持ちがひとつになったのです。イエス様は喜んでくださったことでしょう。

高学年のオリジナル劇もまた素晴らしかったです。みんな、長いセリフを覚えていて、心打たれる内容でした。

リトルドラマーボーイの曲を紹介してくださった友人のブログ「土の器」を紹介させていただきます。同じ日のクリスマスコンサートでリトルドラマーボーイを賛美したそうです。ここをクリックしてご覧ください。


The Little Drummer Boy

王が生まれたラパパンパン
会いに来るようにとラパパンパン
いちばんの贈り物はラパパンパン
王にささげよう
ラパパンパン ラパパンパン ラパパンパン
主をたたえよ ラパパンパン その時

赤ちゃんのイエスさまラパパンパン
ぼくも貧しいラパパンパン
ふさわしい贈り物がラパパンパン
王のために何もないけれど
ラパパンパン ラパパンパン ラパパンパン
太鼓をたたいて ラパパンパン あげましょう

マリアはうなずくラパパンパン
羊もききいるラパパンパン
かれのためにラパパンパン
心から太鼓をたたくと
ラパパンパン ラパパンパン ラパパンパン
主はほほえんだ ラパパンパン
ぼくと太鼓に ラパパンパン


上の写真は太鼓グループのかぶった手作り帽子。





この写真は太鼓。厚紙に色画用紙を貼って作った側面をキラキラ折り紙で飾っています。
太鼓のたたくところは、植木鉢の皿です。(写真にはありませんが)太鼓のバチは菜箸です。上下逆に持ってたたきました。

ブログを読んでくださる方のうえにクリスマスの祝福が満ち溢れますように。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

グンカンドリのお話し

2014-11-18 11:57:13 | CS(子供伝道)
先週の土曜日にOさん宅で子ども家庭集会がありました。今日はそのときにわたしがしたお話を紹介させていただきます。



(写真を見せて)この鳥を知っていますか? グンカンドリです。オスには赤い喉袋があります。
グンカンドリは、ハヤブサ、アマツバメと並んで世界最速の鳥です。水平に飛ぶときの早さは、およそ時速150キロメートルですが、急降下するときは420キロメートルにもなります。

グンカンドリは水鳥が捕まえた魚を横取りするので、ほかの鳥たちに恐れられています。鳥を殺したりはしませんが、呑み込んだ魚をむりやり吐き出させて取り上げることがあります。狙った鳥は必ずつかまえるそうです。どの鳥より早く飛べるからできるのですね。

どうしてそのようなことをするのでしょう。意地悪な性格だからでしょうか? そうではありません。それには、理由がありました。
水鳥の羽は水をはじくようにできています。だから水の上に浮かんでいても沈んでしまうことはありません。ところがグンカンドリは羽がぬれると重くなり、水の上にいると、沈んで溺れてしまうのです。

だから魚をとりたくても、水の上にとまれません。トビウオなど、水面に顔を出す魚はとれますが、それだけでは餌が足りません。
それで、魚を捕まえた鳥を襲って横取りするのです。生きるためには仕方のないことだったのです。
また、グンカンドリの足の水かきは細い枝をやっとつかむぐらいしかできません。地上を歩くのは苦手です。
グンカンドリは飛ぶのに適した体をしているので長い時間とんでいます。飛びながら寝ることもあるそうです。

グンカンドリのオスとメスの違いは一目でわかります。



この写真はグンカンドリのメスです。
オスの胸に赤い袋がありますが、メスにはありません。オスは、気に入ったメスと出会うと、赤い袋を膨らませて、キョホホホホ……と鳴きます。メスはそれをみて、結婚相手を決めるのです。


グンカンドリのひなは真っ白ですね。

地球上には数えきれないほどたくさんの種類の鳥がいます。鳥は神様によって造られました。グンカンドリは早く飛べるけれど、水の上や地上は苦手という特徴があります。
鳥には種類ごとにそれぞれ特徴があり、一羽一羽みんな違っています。神様がそのように造ってくださったのです。
わたしたち人間もひとりひとり違っています。得意なこと、苦手なことが違っています。お友達には理解できないような性格や能力を持った子どもがいます。

病気でじっとしていることができない人、人前でしゃべれない人、静かにしていなければならないときに大声を上げてしまう人、一日に何時間もとび跳ねてしまう人。色々な人がいます。神様がその人にしかできないことをさせるため目的を持って造ってくださったからです。
人と違うからといって、悲しんだり悩んだりする必要はありません。また、自分と違う人を嫌ってはいけません。
「あなたがたは互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」と聖書に書かれています。聖書は神様の言葉です。違いを受け入れてお互いに愛しあうことを神様は望んでおられます。

(お話はここまで)


世界最速の鳥を調べていて、グンカンドリのことを知りました。最初、ほかの鳥がつかまえた魚を横取りする鳥を好きになれそうにありませんでした。でもグンカンドリの特徴を調べていくうちに、神様にそのように造られた鳥だったのだと、納得しました。
赤い喉袋をふくらませてキョホホホホ……と鳴く姿がいとおしく思えてきました。
 
違いを受け入れることはたやすいことではありません。自分の目から見、自分の経験したことから考え、自分の感性に頼っていると、自分とかけ離れた人を見たとき、嫌悪感を抱いたり、裁いたりしてしまいがちです。
残念なことに、障がいのある人のことを「理解できないから受け入られない」と言う人がいます。

でも、どんな人でも神様によって造られたと思えば、愛することができます。
神様がひとり子のいのちを与えてまで愛してくださった人を愛していきたいです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

人目を気にして

2014-10-15 20:58:24 | CS(子供伝道)
かつてわたしは人の目を気にしてばかりいました。人の評価で自分の価値が変わるわけではないのに……。誰かから悪口を言われるのではないかといつもビクビクしていました。

教会に通いはじめたときは、教会へ行っていることを誰にも言えませんでした。クリスチャンになってからも、親しい友人には言えても近所の人には言えませんでした。人の目を気にして言えない自分が情けなかったです。
そんな臆病な人が聖書にも出てきます。それはニコデモという人です。

教会学校でニコデモの話をするために聖書を何度も読んでいると、気づいたことがありました。
ニコデモのように気の弱い者にも真実に向き合って真理を知らせ、導いてくださったイエス様の愛の配慮に気づいたのです。
12日に教会学校で話したメッセージを紹介しますね。いのちのことば社の「成長」というテキストを参考にしています。

教会へ行っていることを学校の友達や先生に話していますか? 
クラスで教会学校に行っている子どもがひとりだけだったりすると、教会のことやイエス様のことを話せないことがありますね。

わたしは大人になってから教会へ行ったのですが、最初は教会へ行っていることを友達に話せませんでした。
 
人々から先生と呼ばれている人が、イエス様のところへ行くとき、人に見られないように夜になってからこっそりやってきた人のお話をします。
その人の名前はニコデモと言います。ユダヤ人指導者のひとりで、パリサイ人と呼ばれるグループの人でした。

パリサイ人は、聖書をたくさん勉強して、律法という神様の教えをきちっと守ることを大切にしている人たちでした。律法を守れば救われると思っていたのです、

ニコデモも、神様に喜ばれる人になりたいと思って、一生懸命決まりを守ろうとしていました。
でも、全部守りきれないことで悩んでいました。また、心に穴が開いているような気がしていました。

そんなとき、ニコデモはイエス様のうわさを聞きました。イエス様が神様のことをお話したり、病人を癒したり、奇跡を行っていることを聞いて、どうしてもイエス様の話を聞きたいと思ってやってきたのです。

どうして夜にやってきたのでしょう。パリサイの仲間や友達に知られたくなかったからです。仲間たちはイエス様を救い主とは思っていませんし、イエス様の教えを聞こうともしません。

ニコデモはイエス様のうわさを聞いて、もしかしたらこのお方が救い主ではないかと思ったようです。でも、人には知られたくなくてこっそり夜訪れたのです。

ニコデモはイエス様に言いました。
「先生、あなたは神様のもとから来られたお方です。あなたが素晴らしい働きをされているのは、神様が一緒におられるからだと思います。」

ニコデモは、ユダヤ人から尊敬され、先生と呼ばれている指導者でしたが、イエス様のことを先生と呼んで、お話を聞こうとしました。
神様のことを求める真剣な気持ちを持っていたのです。
イエス様は人の目を気にして弱いところのあるニコデモを受け入れて、一生懸命答えてくれました。

イエス様はまず、「まことに、まことに、あなたに告げます。」と言われました。
「まことに」とは、本当にという意味です。イエス様は大切なことを話すとき、2回繰り返します。なので、とても大切なことを告げますよと言っているのです。
そのあとで「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。(ヨハネ3:3)」と言われました。

ニコデモは、新しく生まれなければ神の国に入れないと聞いてびっくりしました。
「わたしのように年を取った者が、新しく生まれることができるのですか?
赤ちゃんにもどって、お母さんのお腹の中に入って生まれてくるということですか?」と聞きました。

イエス様はにっこりしておっしゃいました。
「いいえ。もう一度お母さんのお腹から生まれることではありません。新しく生まれるというのは、神様から新しいいのちをいただいて、神様の子どもになるということですよ」

「神様の子どもになる?」

「人にはみんな罪があるので、自分の力で神様に喜ばれる人にはなれません。けれども、神様のおくってくださった救い主を信じることによって、すべての罪が赦され、生まれ変わらせて神様の子どもとしてくださるのです。そのためにわたしは十字架にかかります。」

イエス様の話を聞いて、ニコデモはすぐにイエス様が救い主だと信じたわけではありませんでした。でも、ニコデモはイエス様の教えを心に留めて考え続けました。そして、しばらくしてからイエス様を信じたのです。

それは、イエス様が十字架に架けられたとき、ニコデモは勇気をもって駆けつけてイエス様をお墓に入れるのを手伝いました。
ニコデモのしたことは、人々に『イエス様を信じています』と示すことでした。でも、このときニコデモは人からどういうふうに思われようと、そんなこと気にしなくなっていました。ニコデモはイエス様を信じることによって、変えられたのですね。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。

いちばん大切なものは?

2014-07-05 20:49:40 | CS(子供伝道)
今日は子ども家庭集会でMちゃんの家へいってきました。

子ども家庭集会では、身近なものを使ってゲームをしたり、聖書のお話しをし、賛美をします。今日は7人の小学生が集まりました。
お話はわたしが担当させていただきました。

聖書のたとえ話の絵本「おろかな金持ち」を読んでからメッセージをしました。
たくさんの財産、穀物を持っている金持ちが、蔵を建て、これで安心だと思った日に死んでしまったというストーリーです。

絵本を読んだ後、次のような話をしました。

「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。ルカ12:15」と言ってからイエス様はこのたとえ話をされました。

貪欲とはなんでしょう。この「おろかな金持ち」のようにものすごく欲ばりという意味です。

この人のどこが間違っていると思いますか?
この愚かな金持ちが得た〈穀物や財産〉は、もともとは神さまのもので、何かの目的のために彼に管理するように任せられていることを忘れていました。

また、自分の安全を保証してくれるのは、神様以外にはないことを忘れ、〈穀物や財産〉が守ってくれるのだと思い〈さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ〉と言いました。

それでは、イエス様は私たちがお金持ちになってはいけないといっているのでしょうか。いいえ、違います。お金が神様より大切になったり、お金を集めることだけが生きる目的になってはいけないと言っておられるのです。
あなたは「神様よりも大切にしているもの」がありますか?

お金でなくても、どんなものでも神様より大切にしているものがあるのなら、この愚かな金持ちと同じ生き方をしているといえます。
このたとえ話をした後に、イエス様は「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」(ルカ12:21)と言われました。
〈神の前に富まない〉とは、神に繋がっていないということです。

それでは、神様はわたしたちにどのような生き方を望んでおられるのでしょう。
神様に繋がって神様を第一にして生きることを望んでおられます。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(詩篇1:2-3)」  

このみことばの賛美をしました。


わたしもこのおろかな金持ちと同じでした。

以前わたしは、健康が一番大切だと思っていました。体が弱かったので、じょうぶになる方法はないかといろいろな健康法を試していました。体に良いものを食べ、サプリメントを飲み、週に2回スイミング教室に通いました。

元気でなければ教会の奉仕もたくさんできないと思い、まず健康になることを目標にしていました。
ところが、スイミング教室に通ってちょうど10年経ったとき、乳癌になりました。体にいいことばかりやっていたのに……とショックでした。

そのとき、健康になることを目的として生きていたことが間違えだとわかりました。弱く生まれたのは、神様が何らかの目的のためにそうしてくださったのです。

もちろん健康になることをめざし、体に気を付けることは悪いことではありません。
ただ、頭の中がそのことでいっぱいで、神様を第一にしていなかったことが間違えだったのです。
弱いからできることがあることに気づきました。弱いままでいいのだと思えました。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


すばらしい宝物

2014-04-12 20:29:12 | CS(子供伝道)
今日は子ども家庭集会でした。月に一度、土曜日の午後に教会学校に来ているMちゃんの家に友達が集まってきます。I先生とわたし、ときには落語をしてくださる長老、教会学校の若い先生も訪れます。ゲームをしたり、聖書のお話を聞き、賛美をして楽しい時間を過ごしています。ゲームというのはテレビゲームではありません。ピンポン玉やペットボトル、トランプ、ハンカチなどを使ってする集団ゲームです。毎回考えて準備していきます。

子ども家庭集会はふだん教会学校に来ていない子どももやってきます。

今日はわたしがお話をしました。「すばらしい真珠を見つけた人(高見澤潤子著)教文館」という絵本を読みました。その絵本はイエス様のたとえ話をもとに書かれています。商人がすばらしい真珠を捜して旅をし、みつかったとき、全財産を売り払って真珠を手に入れたという内容です。

絵本を読んだあとで以下のようなお話をしました。

あなたは宝物を持っていますか? どんな宝物ですか?
このお話は、イエス様のたとえばなしです。イエス様は神様のこと、神様の国のことを人々に話すとき、わかりやすいようにたとえ話をされました。
財産すべてを投げ打ってでも手に入れたかった真珠とは何のことでしょう……。

わたしたちの心には罪があります。罪とは嘘をついたり、友達に意地悪してしまったり、あんな人いなくなればいいのにと心の中で思ったりすることです。罪をなくしたいと思っても、自分の力ではなくすことはできません。このままでは罪のために滅びてしまいます。

でも、神様はご自分のひとり子を地上に生まれさせてくださいました。それがイエス様です。イエス様を信じれば罪が赦されるのです。

どうして信じるだけで罪赦されるかというと、イエス様が十字架にかかってくださったからです。わたしたちの罪に対する罰をわたしたちに代わって受けてくださったのです。

イエス様は十字架で死にました。でも、三日目に墓の中からよみがえりました。
十字架のおかげで、わたしたちはイエス様を信じるだけで神のみ国でずっと神様と一緒に過ごすことができるようになりました。

それが宝です。イエス様はこんなすばらしい宝をくださいました。
この宝をいだたいているわたしたちは、どんなにすばらしい真珠や金銀宝石などよりも価値のあるものを持っているのです。


お話の後、「ぼくの宝物」を賛美しました
歌詞を紹介します
     
ぼくの宝物

イエス様がくれた このくちびるで
イエス様を賛美しよう
今日も注がれる 限りない愛
心から感謝ささげよう
ぼくの宝物はイエス様を知ったこと
イエス様と一緒に生きること
わたしの宝物はイエス様を知ったこと
イエス様と一緒に生きること


イエス様と出会ったことがわたしの宝物です。ほかのものは何もいりません。イエス様という宝が与えられているすばらしさに感動し続けています。この思いが子どもたちに伝わったでしょうか。

聖書の言葉
「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 (ピリピ3:8)」 



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村
↑ここをクリックしてください。そうすると、より多くの方がこのブログを読んでくださるようになります。


助けはそこに

2014-02-09 20:52:59 | CS(子供伝道)
45年ぶりの大雪ということで、土浦でもたくさん雪が積もりました。



上の写真はマンションの2階の通路に積もった雪です。吹き込んできたのですね。

今日は礼拝の日です。

車ならスタッドレスタイヤ でないタイヤで走るのは、危険です。自転車はこげませんし、こげたとしても転倒の恐れがあります。でも、わたしの2本の足ならだいじょうぶと思って出かけました。
滑り止めのある長靴を履いていきました。雪道はシャーベット状になっていて、歩きにくかったのですが、景色を見ているうちにわくわくしてきました。


教会へ着くと教会学校の小学科教師がわたしを入れて4人(全員で20名います)しかいませんでした。メッセージを語る予定の先生はふたりとも交通手段がなくて行けないと連絡がありました。

子どもたちも1年生から6年生まで合わせてたったの9人でした。(いつもは70名近くいるのですが……)
どうしても教会へ行きたいからと30分もかけて雪道をひとりで歩いてきた子どもがいたので、心打たれました。


10時からの礼拝は予定通りしたほうがよいとのことで、4人で祈りつつ考えました。
23日に行われる暗唱聖句大会に備えて5曲のみことばソングを中心に礼拝を進めることにしました。
わたしが聖句の意味を説明したり、みことばにまつわることを話し、S先生のリード、M先生のピアノで賛美しました。そのあとで聖書を開き、5つの聖句を順に読みました。

聖句の説明をするとき、何の準備もしていませんでしたが、語るべき言葉がそのときに与えられて感謝しました。
5つの聖句の中のひとつ「神はわれらの避け所、また力。苦しむときそこにある助け。(詩編46:1)」を子どもたちと一緒に読んでいたとき気づいたことがありました。

苦しくて助けを求めたときに助けていただくのではなく、助けがすでにそこに備えられているということに気づいたのです。
あまりにも苦しくて「助けて」とも言えないようなときでも、すでに助けがあると神様はおっしゃってくださいます。助けはそこにあるのです。

すべてをご存じで、すべての必要を満たしてくださる神様に感謝しました。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

拍手ボタンです

web拍手