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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

いいことと悪いことの記憶

2014-01-10 16:33:28 | CS(子供伝道)
高校2年の時のクラスメートから連絡が来ました。クラス会をするというのです。いままで同窓会は毎年行われていたけれど、クラス会の連絡は何十年もありませんでした。40名いたクラスの中で35名と連絡がついていると聞いて驚きました。
なかには阪神大震災で亡くなっている人もいます。
兵庫県なので参加は難しいなあと思いました。第一連絡をくれた人のことをぼんやりとしか覚えていません。それだけでなく、クラスメートに誰がいたのか……担任の先生は誰だったのか……高2の時の記憶がとんでいます。

年度途中で転入した中学1年のクラス。友達がひとりもできなかった中2のクラスの方がしっかり記憶しています。

昨日メールで2年I組の名簿をみたとき、次々と思い出しました。
わたしは、修学旅行の少し前に盲腸で入院し、そのため修学旅行に行かれなくなってしまいました。
クラスのみんなは、行けなかったわたしを気遣ってお金を出し合ってお土産を買ってきてくれました。嬉しくて感激したのに引っ込み思案だったわたしは、小さな声で「ありがとう」としか言えませんでした。

Mちゃんは、人気者で誰からも好かれていましたが、高1の時のクラスで同じだった女子は一人だけだからといって、ずっと一緒にいてくれました。盲腸のときは、何度もお見舞いに来てくれました。

わたしが喘息で欠席し、久しぶりに登校した日、教室がとても寒かったので、Yちゃんは自分の上着を脱いで、はおるように言ってくれました。

高2の時は楽しかったのだなあ。悪口を言う人もなく、クラスメートはみんな優しかったなあ……と感謝にあふれました。40年以上前のことです。

辛いとき、緊張したり異常な体験をしたとき、苦しいときはしっかりと覚えているのに、人から優しくされたことや感謝なことは、忘れやすいのかもしれません。
いいことがたくさんあったのに、苦しいことが少しだけあると、苦しいことばかり起きるような気がして不満を言ってしまいます。

「私達は幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と言ったヨブを見習わなくてはと思いました。


この前の日曜日、教会学校でヨブ記のメッセージをしました。これまで教会学校でヨブ記を扱ったことはほとんどありません。ヨブの名を知っている子どもは数人でした。

たくさんの家畜、召使、財産を持っていたヨブは、正しい人でいつも神様を崇めていました。ところが、次々と災害が起こり、召使いや家畜を失い、10人の子ども達まで失ってしまいました。さらにヨブ自身は重い皮膚病にかかり、苦しんでいました。
そのようなときヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」
と言いました。
奥さんはこんなひどい目に合わせる神様なんか信じるのをやめなさいと言いました。(聖書には「神を呪って死になさい」と書かれています。)

「私達は幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」
と、ヨブは言うのです。

ヨブのお話をした後、わたし自身の病気のことを話しました。これまで教会学校の子どもたちに癌のことを話したことはありませんでした。

わたしは、子どものころ喘息でずいぶん苦しみました。大人になってからも喘息が出て大変辛い思いをしました。こんなに辛いことがあったのだから、癌にはならないだろうと思っていたのに、乳がんになりました。
癌と診断され、それが大変な病気だとわかったとき、「神さま、どうしてですか?」と尋ねて泣きました。
そのとき、ヨブが「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言ったのを思い出して神様はわたしに悪いことだけを与えているのではないと気づきました。いいこともたくさん与えてくださっているのです。そして、病気は辛いけれど、悪いこととは限らないと思いました。

癌になって、いいことがありました。それは、同じ癌で苦しんでいる人の気持ちがわかるようになったことです。
わたしが癌になる前は、再発転移が怖いと言っている人に「だいじょうぶよ」と気軽に言い、どうしてあんなに心配するのだろうと思っていました。
でも、自分が癌になってから、簡単にだいじょうぶと言えなくなったこと、癌になった人と一緒に泣くことができるようになったと
話しました。

子どもたちがどう受け止めたかわかりませんが、これからの人生で『なぜこんなことが起こるの?』と思うようなことがあったとき、ヨブのことを思い出してほしいなあと思いました。



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輝いた子どもたち

2013-12-23 12:19:34 | CS(子供伝道)
昨日はクリスマス礼拝、そして教会学校小学科のクリスマス会でした。
低学年は、先月初めから準備し、練習してきた「でんでんむしのよろこび」の劇をしました。「でんでんむしのよろこび」は、新美南吉の童話「でんでんむしのかなしみ」をアレンジしてわたしが書いた作品です。わたしのHP童話の部屋に掲載しています。

その童話をもとに、40人の子どもたちが最低ひとことずつセリフを言うようにして脚本を書きました。
30分以上かかる劇になってしまったので、まとまるかどうか心配でした。教会学校のクリスマス会でこれほどの大掛かりな劇をするのは前例のないことです。降誕劇ではなく、オリジナル作品の劇なので、参考書のようなものは何もありません。小道具ひとつ作るのも試行錯誤でした。

写真は、子どもたちが背中につけたでんでんむしのカラです。右側に見える赤いものは紙皿を絵具で塗ったもの。紙皿を背中にくっつけ、ひもで縛って背負います。厚紙でできたドラム型のカラは、紙皿に垂直に両面テープでつけてあります。このカラに紙袋でできた暗い色のカラをかぶせ、劇の中でジョイジョイさんが取ってくれることになっています。
一週間に一度の教会学校です。せっかく練習しても一週間たつと忘れてしまったり、欠席する子がいたり……。

劇としてまとまらなくても、子どもたちがイエス様誕生を祝う気持ちをもって参加すること。物語の内容を理解して、イエス様の十字架を想いながら演じること。ひとりも欠けることなく参加できることをひたすら祈りつつ備えてきました。

大道具小道具作りも大変で、日曜の午後、教師たちは暗くなるまで厚紙を切ったり貼ったりしていました。
打ち合わせも日曜だけでは時間が足りなくて、平日にメールのやりとりを頻繁にして思いをひとつにしました。
 
3週目ぐらいになると、最初は乗り気でなかった子どもたちに変化が表れました。4週目にはカラを背負い、頭には目玉(ぼんぼり)のついたはちまきをつけ、大道具を使って練習を始めると、バラバラだった子どもたちがまとまってきました。
「練習なんかいやだよ」「でんでんむしになるのはいやだ」と言っていた子どもたちが、喜々として練習するようになってきたのです。

でんでんむしになる子どもたちには、各々好きな名前を考えさせました。
「おしゃべりさん」「おえかきさん」「あつがりさん」「よわむしさん」「がしゃがしゃくん」「おこりんぼう」「げんきさん」「やだやだくん」「びっくりさん」など考えて、名前にあう動作をしながら自己紹介します。

主人公は、ぼんやりくん。ダブルキャストで場面ごとに交代したので8人のぼんやりくんがいます。礼拝の時間、おしゃべりばかりしていていつも怒られているAくんが、長いセリフを覚えて言ったのには驚きました。
ジョイジョイさんは、19歳の大学生の青年が熱演してくれました。

本番は、たくさんの父母たちが見に来ていたので、子どもたちは緊張していました。セリフをとばしたり、出番を間違えたりしましたが、ちゃんとセリフが言えました。

何よりも嬉しかったのは、練習の間「ぼくはやらないよ」と言って一度もやらなかったBくんが、でんでんむしのカラを背負って舞台に上がったことです。セリフは言いませんでしたが、嬉しそうにしていました。

フィナーレに「ジョイ」という歌をうたったのですが、ひとりひとりの顔は輝いていました。



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幼子のように

2013-10-14 16:00:36 | CS(子供伝道)
教会学校小学科の2年生クラスで「お祈りしてほしいこと」を書かせました。
「スポーツ選手になれるように」「サッカーの試合に勝てるように」など自分の願いを書いている子どもが多かったです。

その中で「罪をおかさないように」と書いている子どもがいて、驚きました。
罪がどういうことか知っていて、罪を犯さないように祈って欲しいというのです。なんとすばらしい信仰なのでしょう。
罪という字はちゃんと漢字で書かれていました。

「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」という詩編119:11の言葉を思い出しました。


礼拝メッセージは、マルコ10:13-16より語られました。イエス様のもとに行こうとしている幼子(おさなご)を弟子たちが止めたとき、イエス様が憤ったという箇所です。

聖書には「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。(マルコ10:13)」と書かれています。

イエス様が子どもたちの頭の上に手を置いて、祝福を祈ってもらおうとしているのだと思っていますから、そこに『さわっていただこうとして』と書かれていることを読み落としていました。

メッセージを聞いて、さわるという行為に注目しました。すべての動物はさわってもらうのが好きなのだそうです。
確かにそうですね。人慣れしない獣でも、親に舐めてもらうことを喜びます。

親が子どもの頭をなで、抱きしめるだけで、子どもは、言葉がなくても愛されていることを知ります。

子どもたちは、イエス様が大好きです。せっかくやってきたのに弟子たちはなぜ止めたのでしょう。

イエス様が休む暇がないほど多忙なので、子どもになどかまっている暇はないんだと思ったのかもしれません。
当時、子どもは今の時代よりずっと軽く扱われていました。


子どもたちを追い返してしまおうとする弟子たちに向かってイエス様は憤って言われます。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです(マルコ10:14)」

わたしのもとに来させなさいとは、『いつも近くにおらせなさい』という意味だそうです。

「そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(10:16)」

この箇所を読むと胸が熱くなります。
自然にわたしは幼子になっています。


飼い犬が、24時間主人の一挙一動を見ているように、神様も24時間私たちを見ていてくださると聞いて、嬉しくなりました。

神様はうっかり目を離したり、まどろんだりすることがないのです。
「(主は)寝ずの番をされた(出エジプト12:42)」


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たったひとつの小石

2013-07-29 17:29:08 | CS(子供伝道)
26日、27日、教会学校低学年(小1~3年)の夏期キャンプが教会で行われました。今年は去年より少なく28名の子どもたちが参加しました。
「輝いて生きる」がテーマで3回の礼拝と水遊び、キャンプファイヤー、オリエンテーリングと盛りだくさんのプログラムでした。

去年わたしは体調がおもわしくなかったので泊まらず、1日目の夕方に帰宅して、翌日朝に再び加わりました。今年は去年よりは調子がいいので泊まることにしました。
子どもたちが眠った後、12時ぐらいまでミーティングがありました。ミーティングの後、目が冴えて眠れず、朝は4時過ぎに目覚めてしまったのでほとんど眠れませんでしたが、なんとか2日間体が持ちこたえられました。
去年は夜の集会にも出ず、うしろめたい思いを抱えながら帰宅したのですが、今年はまる2日間参加できたことを感謝しました。

1日目は教会のバス2台で霞ヶ浦のほとりにある霞ヶ浦ふれあいランドに行きました。科学館を見学した後お弁当を食べ、芝生で水鉄砲遊びをしました。


水鉄砲で紙コップのタコとイカに当てて落とし、さらに半紙でつりさげられた月、星、太陽も落とすというゲームです。グループで競ったので盛り上がりました。
先生たちをターゲットに水鉄砲を打つという遊びをすると、子どもたちはキャーキャーと大喜びです。若い先生たちはTシャツもズボンも絞れるぐらいびしょ濡れになっていました。

夕食のカレーをいただいてから、夜の集会で聖書のお話を聞き、キャンプファイアーをしました。教会でキャンプファイアーを行ったのは4年ぶりです。

生きているようにゆらめく炎を見ながら、天と地とすべてのものを造られた神様のことを思いめぐらしました。
少年ダビデが、たったひとつの小石で巨人ゴリアテを倒したというメッセージを聞いた感想を子どもたちに尋ねていました。3年生の子どもが、「ダビデが小石だけでゴリアテを倒せたのは、神様が一緒にいてくださったからだと思った」と言ったので驚きました。的を得た発言でした。

「わたしたちに与えられているのは、たったひとつの小石のようなものです。それを神様のために用いるとき、神様が力をくださってどんなことでもできるのです」
というI先生のメッセージをしっかりと受け止めていることがわかり、心打たれました。

わたしに与えられているものも小さな小さな小石です。何もできないとポケットにしまっていては小石をくださった神様に喜ばれません。わたしと小石だけでは、本当に何もできないのです。でも、神様とわたしと小石ならどんなことでもできるのだなあと思いました。

翌日は楽しいオリエンテーリング。天気はよくなかったのですが、室内で行うときには雨が降り、屋外に出ると雨がやんで、昼食の流しソーメンも外でできました。


ミニトマトが流れてきてびっくり!

キャンプ最後の集会で、子どもたちが心から賛美しているようすを見て涙が出てきました。
『神様と一緒に輝こう!』と叫ぶ子ども達は、キラキラ輝いていました。


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危機がチャンスに

2013-07-13 18:51:56 | CS(子供伝道)
今日は子ども家庭集会の奉仕でMちゃんの家に出かけました。

現在子ども家庭集会は2か所で行っていますが、奉仕者がぎりぎりの人数でした。
今回はI先生の都合が悪くなり、さらに2つの家庭集会の日時が重なったため、危機的状況に陥り途方にくれました。

今まで教師会で何度か子ども家庭集会の奉仕してくれる人を求めたのですが、皆、土曜日は忙しいようで、よい返事をいただけませんでした。

今回は、どうしても必要なので必死に祈りました。そして、先月の教師会のときに子ども家庭集会の働きについて熱く語り、奉仕者を募集しました。

そうしたら、2人の青年女子が申し出てくださいました。さらに水曜礼拝で子ども家庭集会の話をすると、友人が奉仕してもいいと言ってくれました。

なんという恵みでしょう!
危機がチャンスに変えられたのです。

そして、今日は2人ずつ2か所の場所に遣わされていきました。


子ども家庭集会は16年前から始められましたが、教会でCEF(日本児童福音伝道協会)の学びを受けたことがきっかけとなっています。

教会学校に通えない子どもたちにキリストを伝える働きとして、小学生のいるクリスチャン家庭を開放し、その子どもの友達を招いて行います。教会から先生や奉仕者が訪れて、聖書のお話をし、ゲームをして遊ぶのです。

最初、我が家で行いました。長女が5年生の時でしたが、同じマンションの小学生が10人近く集まってきました。
長女が中学生になってからは、小学生のいる家にわたしが先生と一緒に出かけて行って奉仕しました。

子ども家庭集会には色々な名前がつけられました。
わくわく子どもクラブ、はこぶねクラブ、ピジョットクラブ、おいでよクラブ、きらりんクラブ、ぽんぽこクラブなどユニークな名前です。

一度も教会に行ったことのない子どもは、天地万物を造られた神様のこと、イエス様のことを子ども家庭集会の場で初めて聞くのです。

その中で教会学校につながった子どもはわずかですが、心の中に神さまの言葉の種が植えられたことは確かです。その子どもたちがいつか信仰をもつことができるように日々祈っています。

岡山におられるM先生、子ども家庭集会は継続していますよ。そしてM先生の蒔いた種はしっかり育っていますよ!



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この世界にいなくてもいい人間はひとりもいないんだよ。

2013-04-09 16:10:34 | CS(子供伝道)
写真は常陸風土記の丘。山桜が満開、しだれ桜が咲き始めていました。

春の嵐には冷や冷やさせられました。
7日の日曜日は暴風雨の中でも教会に行くつもりで、雨合羽と長靴、着替えも用意していました。幸い朝は雨が止んでおり、強風の中なんとか徒歩で教会にたどり着きました。
その日は何があっても休むわけにはいかなかったのです。

2週間ほど前のこと、教会学校の教師としての証しをしてくださいと牧師先生から依頼されました。なぜわたしが? 小学科の教師は20人もいるのに……と思いましたが、祈って引き受けました。
教会学校教師になったきっかけや動機、教会学校教師として奉仕してきた恵み、今、担当している小学科の紹介といった内容を含むことを期待しますと言われました。
幸いわたしひとりではなく、午前中の礼拝が3回あるので、3人の証し者がたてられました。

証し文を書いて牧師先生に送ると、「この証しがメッセージの一部となります」と言われ、身が引き締まる思いがしました。
講壇に上がるだけでも緊張するのに落ち着いて語れるだろうかと心配になりました。
200名近くの人がいるのですから……。でも、人を見ていては恐れが増すばかりです。
バッハのサイン、SDG(ただ神の栄光のために)を思い出して、会衆をほとんど意識せずに原稿を読ませていただきました。

その原稿を紹介させていただきます。
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わたしが教会学校で奉仕するようになったのは、土浦に引っ越してきて2年ほどたったときのことでした。車の運転のできないわたしは最初、4歳の長女と小学2年生の長男を自転車の前後に乗せ、教会へ送っていました。   
教会学校を見学していると「CS教師になりませんか」と校長先生から声をかけていただき、奉仕することになりました。それから二十数年。
今日は22回目の教師任命式に預かることになりました。教師任命式の時は毎回震えます。はたして自分は子どもたちの前に立って語る資格のある者なのだろうか……と思うと恐ろしくて震えてしまうのです。

子どもたちはまっすぐです。お話を素直な心でそのまま受け止めます。教師の神様に対する姿勢が子どもたちに伝わります。間違ったことを話してしまったらどうしよう。という恐れがわき上がります。
メッセージを担当するときは、聖書を読んで思いを巡らし、子どもたちに主のみこころを正しく伝えられるように必死に祈りながら準備します。そうすると、神様はこの弱き者に必要な知恵と力を与えてくださいます。主によって子どもたちの前に立たせられていることを実感しながら、お話ししています。

子どもたちの反応にはっとさせられることがあります。十字架の話をしたとき、小学一年生の子どもが「イエス様はわたしの罪のために十字架にかかって死んでくださったんだよね」と、目に涙をためながら言いました。
なんという素直な信仰でしょう。子どもたちの信仰を見習いたいと思います。

長年教師をさせていただいて、色々なことがありました。いちばん嬉しかったことは、わたしが乳がんの手術を受けることになったとき、子どもたちの声を録音したカセットテープが病床に届けられたことです。

「〇〇先生。がんばって」の一言でしたが、分級の子どもたちが祈り心で言ってくれたエールにどれだけ力づけられたことでしょう。 
受け持った子どもたちがテイーンズになって洗礼を受けるときは、大きな喜びです。その中でCS教師になる者も出てきました。あのAちゃんが……Bくんが……と感慨深いです。

体調が悪い時でも、CSで子どもたちが元気に賛美する姿を見ていると、不思議に元気になります。

わたしは中学生のころ、自分の存在価値がわからなくて死にたいと思っていました。強い劣等感があって、自分なんか何の価値もないんだ。生まれてこない方がよかったとさえ思っていました。
クリスチャンホームではありません。まわりにクリスチャンがいなかったので、イエス様のことを知りませんでした。

大人になって教会に通うようになり、聖書の中に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という箇所をみつけたとき、とびあがりたいほど大きな喜びに包まれました。

天地万物を造られた神様は、わたしのことを造ってくださり、高価で尊い者だとおっしゃっておられるのです。愛するひとり子の命を差し出してまでわたしのことを愛してくださっているのです。そのことに気づいて、はじめて自分の存在が価値あるものだとわかりました。
このことを子どもの時に知っていたら、どんなによかっただろうと思います。もし何かのきっかけがあったら、わたしは自殺していたかもしれなかったのでした。

小中学生の自殺のニュースが流れるたびに思います。自殺する前に、「この世界にいなくてもいい人間はひとりもいないんだよ。あなたは神様から愛されている尊い存在なんだよ」と伝えたかったと。

教会学校に通っている子どもたちは幸いです。このことを知っているからです。また、いちばん大切なものは何か知っているからです。
子どもたちが輝いて生きるために、わたし自身も神様によって輝かせていただきたいと願っています。


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このあとで、小学科のようすの写真をプロジェクターに映して説明しました。



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このわたしはあなたを忘れない

2013-02-25 16:16:33 | CS(子供伝道)
昨日は教会学校の暗唱聖句大会でした。先月末に20の聖句と十戒(これは個人賞)を書いた紙を子どもたちに配って、家でも覚えてくるように言いました。分級では聖句の意味を説明して、みんなで暗唱しました。

当日は1,2年生と3~6年生に分かれてゲームをしました。

1.2年生はみことば並べゲームと聖句の歌をうたって発表しました。
聖句の歌というのは「こひつじソング」といって、聖書の言葉に曲をつけて歌になったものです。付属幼稚園のオリジナルソングで、娘も幼稚園のときはよく歌っていました。

課題曲を5曲決めてこれまで練習してきました。当日は、グループリーダーが、曲名の書かれたくじを引いて、当たった曲を歌詞を見ずにグループ全員で賛美するのです。判定は小学科担当の牧師先生と校長先生です。

3分ほど練習時間があったので、北風のふく外で(あいている部屋がないので)子どもたちと賛美練習しました。いつも恥ずかしがってほとんど声を出さない子どもも大きな声で歌っていたので、嬉しくなりました。

高学年は、みことば並べゲームとパワーポイントを使った虫食いクイズをしました。
今回は学年ごとに競っています。終わってから得点を計算しました。この一か月間で子どもたちが覚えた聖句の数の平均も点数に加わります。

高学年(3~6年)では、4年生が一位だったので驚きました。ゲームの得点はそれほどでもなかったのですが、覚えてきた数がどの学年より多かったので一位になりました。

わたしは、その4年生の子どもたちが2年生のとき受け持っていたのですが、そのときの暗唱聖句大会では一年生に負けたほど、やる気のある子どもが少なかったのです。
その子どもたちが生き生きとして意欲的に聖句を覚えてきたことに感激しました。

子どもたちの心に覚えたみことばが留まり、生きる力となりますように。これからも子どもたちがすすんで聖句を覚えますようにと祈りました。

わたしが今回覚えた聖句の中でいちばん心に留まったものを紹介します。

しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:14,15 )


母親は自分の子どもを忘れないものです。でも、たとえ母親がわが子のことを忘れ、母親に見捨てられても、神様は決してあなたのことを忘れません。それは、神様があなたを形造ったからです。あなたのことをかけがえのない者だと思っておられるからです。


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あなたがたのうちひとりが(その2)

2013-02-20 20:06:29 | CS(子供伝道)
前回の続きです。


ユダはイエス様から祈って選ばれた弟子でした。会計係をまかされ、ほかの弟子たちからは信頼されていました。何よりイエス様は、このユダを愛していました。

『ユダ、まだ間に合う。今すぐ裏切ることをやめなさい』とイエス様は心の中でユダに語りかけていたのだと思います。
でも、ユダは知らん顔をして、「まさか私のことではないでしょうね」と、ほかの弟子たちと同じ言葉を口から出しました。
イエス様は、がっかりしたでしょう。悲しみに満ちた目でユダを見つめると、「いや。あなたがそうだ」とおっしゃいました。
ユダは死ぬほど驚きましたが、他の弟子たちは気づきませんでした。

ユダはあやまりませんでした。もしこのとき、イエス様にあやまったなら、イエス様はもちろん赦してくださったでしょう。イエス様は、ユダを愛していたので赦したいと思っておられたのです。

その後、イエス様はパンを取り、お祈りをして、弟子たちに配りました。
「食べなさい。これはわたしの体です」

それからぶどう酒の入った盃も取り、感謝の祈りをささげてから言いました。
「飲みなさい、これは、わたしの血です。人々の罪を赦すために流されるものです」
そして、ぶどう酒も弟子たちに分けてくれました。

イエス様は、ご自分の体がパンのように裂かれて赤いぶどう酒のような血が流れること、つまり、これから十字架にかかって死ぬことを伝えました。
そして、十字架にかかって血を流すことは、人々の罪を赦すためだとおっしゃったのです。

イエス様は「これからわたしを覚えてパンを食べ、ぶどう酒をいただくことをしなさい」と言われました。

このことを聖餐式と言います。それで、世界中の教会で聖餐式が行われるようになりました。
この教会でも年に4回、礼拝の中で聖餐式が行われます。イエス様が十字架にかかってわたしたちの罪を赦してくださったことを覚えるため、感謝のしるしとして行われているのです。

暗唱聖句
「これは、わたしの契約の血です、罪を赦すために多くの人のために流されるものです。マタイ26:28」



イエス様はユダをどう見ておられたのでしょうか……。名指しをせず、『この中に裏切る人がいる』と言ったのは、悔い改めのチャンスを与えるためではないかと思いました。聖書では「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。(マタイ26:23)」とありますが、それはユダにだけわかる方法で知らせたのだと教案誌には書かれていました。

ユダは罪の告白をせず、あやまりもせず、出て行きました。
その後、自分のしたことを後悔して自殺してしまいます。自殺するぐらいなら、イエス様のもとに行けばよかったのに……と残念に思います。ユダが自殺してしまったことでイエス様はどれだけ心を痛められたことでしょう。
イエス様はユダをも愛していたのですね。  
                        おわり


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あなたがたのうちひとりが(その1)

2013-02-18 16:40:42 | CS(子供伝道)
昨日は教会学校小学科でメッセージをさせていただきました。お話と準備をしていて気づかされたことを2回に分けて紹介させていただきます。
新約聖書マタイ26:17-29 ルカ22:7-4から最後の晩餐の箇所です。


イエス様は、大勢の人々に神様のことを伝え、病人を癒したり、奇跡を行ないました。イエス様には12人のお弟子さんがいました。イエス様は弟子たちにご自分が十字架につけられることを話しました。でも、弟子たちにはその意味がわかりませんでした。

「過ぎ越しの祭り」を祝うため、特別な食事をする日がやってきました。
昔、イスラエルの人たちがエジプトで奴隷のようにこき使われていた時、神様がモーセをリーダーとして救い出してくださいました。過ぎ越しの祭りとは、そのことを記念してお祝いする祭りです。

イエス様は弟子のペテロとヨハネに過ぎ越しの食事の準備をするように言われました。
「どこで準備したらいいのですか?」

ふたりの弟子がたずねると、イエスさまは
「町に入ると水瓶を運んでいる男の人と出会うから、その人が入る家までついていきなさい。そして、弟子たちと一緒に食事をする部屋はどこかと先生が言っていますと言いなさい。そうすれば広間に案内してくれるから、そこで準備をしなさい」
と、おっしゃいました。

ペテロとヨハネがその人のあとについていき、イエス様のおっしゃったことを話すと、その人は大きな部屋に案内してくれました。イエス様がおっしゃったとおりだったで、ペテロとヨハネは驚きながらそこで食事の準備をしました。

夕方になってイエス様は12人の弟子たちとテーブルにつき、過ぎ越しの食事が始まりました。これがイエス様と弟子たちとの最後の食事でした。

食事の最中にイエス様がびっくりするようなことを言われました。
「あなたがたのひとりが、わたしを裏切ります」
弟子たちは驚き、そして悲しみました。

「イエス様、まさか私のことではないでしょうね」
「まさか私のことではないでしょうね」
弟子たちは次々とイエス様にたずねました。

ユダはギクッとしました。ユダは実はすでに裏切っていたからです。ユダはイエス様を憎んでいる人たちに会い、イエス様を捕まえる手伝いをすると約束してお金をもらっていたのでした。

なぜそんなことをしたのでしょう。ユダは、イエス様がユダヤの国の王様になってくれると思っていました。ユダヤの国はローマに支配されて、人々は苦しい生活をしていました。イエス様がそれを救って、楽な暮らしができるようにしてくれると思ったのです。でも、イエス様は王様になる準備をなさいません。ユダはイエス様にがっかりして、裏切るようなことをしてしまったのです。

イエス様はユダのしていることをすべてご存知でした。いきなり、『ユダが裏切ります』と言わず、『あなたがたのうちひとりが』と言ったのは、ユダにあやまるチャンスを与えるためでした。

                       つづく



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いのちの輝き・・・夏期キャンプ(その2)

2012-07-31 16:36:01 | CS(子供伝道)
夕食は、参加した子どものお母さん方が作って下さったカレーでした。夜は、馬のメリーちゃんが怖がるといけないので(メリーちゃんは教会グラウンドにお泊りしました)キャンプファイヤーと花火は行わず、その代り小礼拝堂でキャンドルを囲んで元気よく賛美し、牧師先生からお話しを聞きました。


今回、わたしは体調が万全でなかったので教会へは泊まらず、いったん家に帰って翌朝早くまた教会へ行きました。たくさんの奉仕者がいてくださったので、できたことでした。そのおかげで体力が保たれました。 

翌日は早目に朝食を済ませました。朝の涼しいうちに(といっても、8時ですでに30℃ぐらいありましたが)乗馬体験をするためです。
2人組になった子どもたちが、ひとりはメリーちゃんの背中に乗り、ひとりは手綱を持って馬の前を歩きます。

乗馬は初めてという子どもが多かったので、みんな緊張していました。怖がってなかなか乗ろうとしない子どももいましたが、最後には乗れて、喜んでいました。

手綱を持って先導する子どもには、Sさんがついていてくださり、「右に曲がって」「次は左に」「もっと早く歩いて」など言って下さいます。

わたしも先導をさせてもらいましたが、緊張して右、左を間違えそうでした。急いで歩いたつもりなのですが、背中にメリーちゃんの鼻息を感じて、もう少しで追い越されるところでした。


それにしても子どもが46人もいたのですから、メリーちゃんは46回もグラウンドを回ってくれたことになります。暑いところ、本当に御苦労さまでした。ありがとうメリーちゃん。

乗馬体験の後、2回目のお話しを聞きました。

わたしたちは、得意なこと、苦手なこと、性格など、ひとりひとり違っています。他の人と比べて落ち込んだりする必要はありません。
わたしたちには、ひとりひとり違ったいのちの輝きがあります。
『神様から見ると、あなたはとてもすてきです。だから、あなたを大切にします』ということが聖書に書かれています。
メリーちゃんも輝いています。あなたも、あなたのお友達も輝いています。それは神様から与えられた輝きです。


「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)」

かつてわたしは人と比べて自分がダメな人間だと思っていました。自分に輝きがあるなんて思ってもみませんでした。自分自身が輝くのでなく、神様の輝きを受けて輝いていることを知って嬉しくなりました。神様によって造られたいのちは、みんな輝きを放っているのですね。
 
キャンプの2日間、怪我や事故もなく、熱中症からも守られたことを心から感謝しました。
 
                     おわり



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自然の中で・・・夏期キャンプ(その1)

2012-07-29 21:08:05 | CS(子供伝道)
27日、28日はCS(教会学校)の夏期キャンプでした。今回のキャンプのテーマは「いのちの喜び」です。自然の中で遊び、動物と触れ合い、神さまから与えられたいのちを喜ぶという目的で行われました。
 
馬の写真家のSさんが、ホースパークから馬を借りてきて教会に連れて来て下さるというので、みんなワクワクドキドキしていました。

キャンプの一日目は県立中央青年の家に行って遊びました。『動物かくれんぼ』といって、グループごとに時間内に動物の絵が書いてあるカードを探して歩くゲームです。山の中なので涼しいかと期待していたのですが、ものすごい暑さで、少し歩いただけで汗が滝のように流れます。

「暑いからやりたくない」と言っていた子どもたちも、ゲームが始まるとおもしろくて夢中で駆けまわっていました。幸いほとんど日陰だったので助かりました。こまめに水分補給をしたり、休憩を入れながらの活動です。



午前中1時間ほど子どもたちのあとについて歩きまわると、もう体力の限界です。午後の活動は、若い先生たちにまかせて休んでいました。

3時過ぎに教会へ戻ると、グラウンドに白い馬の姿が見えました。子どもたちは歓声をあげました。
各自家から持ってきた馬の餌(野菜)をあげにグラウンドに行きました。馬の名前はメリーちゃん。人間の歳でいうと60歳ぐらいだそうです。

Sさんが馬の特徴などを話してくださいました。視野が広く、真後ろと真正面以外の350度もあること、耳は自在に回転して常に周囲の気配を感じ取っていること。

また、馬の体の構造が、人が乗るのに適していることを教えていただきました。
馬の歯は臼歯と犬歯の間にすき間があいていて、ハミ(馬の口に含ませる金具)を噛ませるのにちょうどよくなっていること。また、背骨やお腹の構造は、走るとき背中が大きく動かないつくりになっていることを教えていただいて、神さまが馬をそのように造って下さったのだなあと心打たれました。

お話しを聞いた後、キャベツの葉やにんじんなどのえさをあげました。怖くて野菜を持った手をなかなか前に差し出せないでいる子どもがいると、メリーちゃんは前足で地面を蹴って催促していました。
わたしもキャベツをあげました。てのひらで感じたメリーちゃんの口はあたたかくて、やわらかでした。

                      つづく



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子羊の血(その2)

2012-07-25 20:39:45 | CS(子供伝道)

前回の続きです

真夜中ごろ、エジプトで悲しい叫び声や泣き声が響きわたりました。最初に生まれた子どもがみんな死んでしまったからです。でも、イスラエル人の子どもは守られました。神様が血を見て、過ぎ越して下さったからです。

パロはモーセとアロンを呼びつけて言いました。
「出て行ってくれ。もうごめんだ。これ以上お前たちがここにいたら何が起こるかわかったもんじゃない。早く、出ていけ!」

さすがのパロも自分の子どもを失ってショックを受けたのでしょう。とうとうイスラエル人がエジプトを出るのを許してくれました。

神様は、エジプト人にイスラエル人のことを良く思う心を与えてくださったので、エジプト人は金や銀、着物などをイスラエル人にくれました。これから荒野を旅するのに金銀が何の役に立つかと思うかもしれません。でも、これらは後になって、旅の間に神様を礼拝する幕屋を作るのに役立ちました。

イスラエルの人たちは荷物をまとめると、モーセを先頭に神様が約束して下さった土地、カナンを目指してエジプトを出発しました。

このときのイスラエル人の人数は男だけで60万人いたといわれます。全部で200万人以上いたでしょう。神様は最後の一人がエジプトを出るまで寝ずの番をされました。

神様が過ぎ越されたと言いましたが、このことを記念してイスラエルの人たちは毎年、過ぎ越しの祭りを行っています。およそ1550年後のイエス様の時代でも行われていましたね。そして約3550年後の今でも行われているそうです。

門につけた血は、イエス様が十字架で流された血を意味しています。血のついた家の子どものいのちが守らました。

わたしたちは、イエス様を信じただけで罪が赦され、永遠のいのちをいただけます。神様は、イエス様が来られるずっと前からこのようにイエス様のしてくださることを示してくださっていたのですね。 


このお話しを準備していて教えられたことがあります。

なぜ神様がたくさんの災いをエジプトに下されたのか……パロが頑なな心を持っていたから、それを懲らしめるためと思っていたのですが、実はパロを含めエジプト人が悔い改めてイスラエル人の信じている神様が本物だと認め、信じるようになるためだと教えられました。

エジプト人も神様によって造られた人間です。神様はエジプト人のことも愛しておられたのです。だからこそ、どんな災いを起こされてもすべてのエジプト人を滅ぼしたりはなさいませんでした。

出エジプト記を読むと、奇跡の大きさや目を見張るような出来事に心を奪われてしまいますが、そうではなく、出来事の背後にある神様の意図を知ることが大切だと思いました。

また、門につけられた血がイエス様の十字架で流された血を表すとは気づきませんでした。
このように旧約聖書には、イエス様のなさったことのひな型がたくさん書かれています。
書いていたモーセ自身も知らないことだったのではないでしょうか。聖書は人類の救済史と言われる訳がわかったような気がしました。

聖書の言葉 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1:7)」

CS成長教案誌を参考にお話しの原稿を書きました。エジプト人が金、銀、着物をイスラエル人に渡すことは教案誌に書かれていないことです。視覚教材として手作りのパネルシアターを使いました。                  
                       おわり



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子羊の血(その1)

2012-07-23 20:42:32 | CS(子供伝道)
20日は、我が家での家庭集会でした。牧師先生を含めて12名の方が来て下さいました。
ちょうど涼しくなって助かりました。それでも準備をしていたら、汗びっしょりになりました。
新しい方や2名の神学生が来て下さって、たくさんの恵みをいただきました。

今週の金曜、土曜は教会学校低学年の夏期キャンプです。家庭集会が終わったら、その準備で大忙しになり、ブログを書く時間もありませんでした。子ども46名、大人23名参加するので、名札を作るだけで何時間もかかってしまいました。

昨日の午後はスケジュールの最終確認をしました。最後にはゆっくり祈る時間が与えられてよかったです。


昨日は教会学校のお話しの担当でした。今月は出エジプト記に書かれているモーセのお話しを連続でしています。
先週は9つの災いが起こったお話しでした。(出エジプト記11:1~12-42)昨日お話ししたことの一部を紹介させていただきます。


【これまでのお話し】

エジプトに住んでいるイスラエル人は、奴隷としてこき使われていました。奴隷というのは、人間を牛や馬に対するように扱うことです。重いレンガを運ばされ、少しでも休むとムチがとんできます。イスラエル人は神様に向かって叫び、助けを求めました。
神様はイスラエルの人たちの叫びを聞き、救い出そうと計画されました。そのリーダーとしてモーセが選ばれました。

モーセとアロン(モーセの兄)は、エジプトの王パロにイスラエル人をエジプトから去らせて下さいと頼みました。パロはイスラエル人がいなくなると困るので、去らせたくありません。
神様はナイル川の水が血になったり、大量のカエルが出てきたり、ブヨやアブが出てきたり……と、9つもの災いを起こしました。そのたびにパロは出て行くことを認めるのですが、災いが去ると「行ってはならない」とことばを翻していました。

【きょうのお話し】

「今度は最後の災いだ」と神様がモーセに言われました。モーセは神様から聞いたことをパロに伝えました。

「今夜、神様ご自身がエジプトに来られます。そして、最初に生まれた子どもはみんな死ぬでしょう。貧しい人の家の子も、お金持ちの家の子も、家畜の子も、そして、王様あなたの子どもも……。でも、イスラエル人の家の子どもは誰も死にません。」

パロ王様は心の中で少し不安になりました。でも、それを打ち消して言いました。
「おどしているんだろう。そんなことが起こるはずはない。お前たちを出て行かせはしないぞ」
モーセはパロが心を変えないので、がっかりしてイスラエル人のところへもどりました。
今度はイスラエルの人たちに伝えなくてはなりません。

「みんな、よく聞くんだよ。今夜、神様がエジプトに来られる。そして最初に生まれた子どもがみんな死ぬ。でも、このことをすれば、わたしたちの家では誰も死なないと神様がおっしゃっている」
「子どもが死ぬだって!」
「なんと恐ろしいこと」
「このことって、何をすればいいのですか?」
人々は不安になって口々に言いました。

「家ごとに子羊を殺してその血を門とかもいに塗りなさい。神様は、その血をみて、血のついている家を過ぎ越される。それから、その羊を焼いて種をいれないパンを野菜といっしょに食べなさい。そして出発の支度をしなさい」

人々は、モーセの言う通りに子羊の血を器に入れ、ヒソプの葉に浸して門とかもいに塗りました。

つづく


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心を動かすメッセージ

2012-07-02 21:08:03 | CS(子供伝道)
明日からスクーリングに出かけるので、その準備と日本・クリスチャン・ペンクラブ(JCP)で秋に出版する本の校正で大忙しの一日でした。


土曜日のCS(教会学校)教師研修会は、実りある楽しい時間でした。親子クラスから幼稚科、小学科、ティーンズ(中高科)の教師50名以上が参加しました。牧師先生からレクチャーを受け、夕食を共にしました。また、夕食後は小学科の教師だけ小グループに分かれての語らいの時があって、充実した時間を過ごしました。

人の心を動かすようなメッセージを伝えるにはどうしたらよいか……を考えるために「男はつらいよ」47作からのDVDを見せていただきました。

鉛筆を買ってもらうために満男(寅さんの甥)は、「この鉛筆、買って下さい」と言いたいことを直接言葉にします。

一方、寅さんは、鉛筆を削ってくれたお母さんのことを語り、鉛筆と共に生きた暖かい幸せな生活を語りました。相手は、鉛筆を持ったら暖かい生活ができるかもしれないと思って、鉛筆を買いたくなります。
言いたいことを直接言わず、イメージを提示することが大切なのです。

「メッセージは神がいる生活・世界を描き、その世界が聞き手とどういう関係にあるか感じさせることが基本」だと教えていただきました。



このことは、子どもたちに聖書のお話しをするときだけでなく、人に伝えるとき、書いて伝えるときにも当てはまると思いました。

わたしは長い間創作をしていますが、初期のころは、あきらかにキリストをあらわす人物を登場させ、伝えたいことをダイレクトにセリフにしていました。
その作品は、読んだ人の心を動かすことがなく、メッセージは届きませんでした。

いまは言葉ではなく、作品のストーリーそのものが「神の愛」をあらわすものにしたいと願って書いていますが、そのように書けているのかどうかわかりません。書けるようになりたいと祈りつつ……。



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子どもたちのデイサービス訪問

2011-11-24 20:37:42 | CS(子供伝道)
昨日は教会学校の子どもたち(1、2年生)11名と一緒に教会のデイサービスを訪問しました。
今年の教会学校クリスマスは、福祉というテーマで取り組んでいます。例年ならクリスマス会に向けて、劇や歌、工作などのグループに分かれて練習するのですが、今年はそれがありません。

低学年で3グループ、高学年で3グループに分かれて手話、キングスガーデン訪問、デイサービス訪問、奥多摩自然の家(福島第一バプテスト教会の方々が避難しているところ)訪問、韓国デバン教会との交流、聾教会訪問を行うため準備をしてきました。

わたしはデイサービス訪問の担当です。
めぐみ教会では月曜から金曜日に喜楽希楽サービスというデイサービスが行われており、毎日10名前後の高齢者の方が通所しておられます。

子どもたちが高齢者と一緒にできることは何だろうと考えました。まず、手遊びをしてみてはどうかという案が出ました。喜楽希楽サービスの方々は「みかんの花咲く丘」が好きで、よく歌っておられると聞いたので、子どもたちにも教え、練習しました。

手遊び後はクリスマスの工作をすることにしました。
前もって子どもたちがツリーとリースを貼り絵で作り、当日は高齢者の方々と一緒に色紙で飾りを作るのです。


いよいよ当日、少し緊張した面持ちの子どもたちが訪れると、おじいちゃん、おばあちゃんたちは歓迎の拍手をしてくださいました。

まず、自己紹介をして、みかんの花咲く丘の手遊びをしました。子どもの小さな手が高齢者の方の手に触れると、お互い笑みがあふれてきました。歌に合わせて手を動かすことは高齢者にとって大変なことのようでした。ゆっくり、ゆっくり・・・・・・。

子どもたちは歌にではなく、おじいちゃんおばあちゃんの手の動きに合わせます。「可愛いおてて」と言って思わず子どもの手を握るおばあちゃんもいらっしゃいました。


工作は、おじいちゃんおばあちゃんの方が得意のようでした。きれいに折ったり、線の通り切るのは上手です。線を書いておじいちゃんに切ってもらっている子どももいました。子どもたちは型にとらわれず色んなものを考えて作りました。折り紙で大好きな電車を作ってリースに貼っている子どももいました。おじいちゃん、おばあちゃんは独創性のある作品に目を丸くしていました。

80代、90代の方がほとんどですので、小学生の孫がいる方は少なく、孫がいても成人していたり、遠方だったりで、ふだんは小さな子どもと触れあう機会が少ないようでした。
子どもたちと接する高齢者の方々の目はキラキラ輝いていました。子どもたちも嬉しそうでした。

1時間半ほどの交流を終えて、最後に記念撮影をしました。
共同作業で作ったクリスマスツリーとリースは喜楽希楽サービスでしばらく飾って下さるそうです。

子どもたちはこの交流を通して何を感じたでしょうか……。
このことをきっかけにこれからもよい交流ができますように。


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