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生かされて

乳癌闘病記、エッセイ、詩、童話、小説を通して生かされている喜びを綴っていきます。 by土筆文香(つくしふみか)

里芋ポテトサラダ作ってみました

2018-12-01 15:02:55 | 家族
夫が年に一度の健康診断を受けました。その結果が送られてきてびっくりしました。
悪玉コレステロール値が高いのはいつものことですが、血圧が180もあったのです。そのことをわたしに言いもしませんでした。

4年ぐらい前、145あったとき、病院へ行くと、「薬飲みますか?」と医師に聞かれて断ったそうです。
しばらく毎日血圧を測って用心していましたが、最近は血圧も測らず、「180あっても年齢がすすめば高くなるのだから心配ないよ」と言います。

冗談じゃありません。「すぐに病院へ行って降圧剤を処方してもらって」と言うと、「病院は混んでいるから……。」と行く気がないようです。
血圧は測るようになりましたが、150~160です。

そんなときにテレビTBS系『こんな私は何を食べればいいですか?』が11/26に放送されました。「里芋ポテトサラダ」を3週間毎日食べると、血圧が下がるというのです。

里芋は一日7個。きゅうり一本です。里芋もきゅうりもカリウムが多く、塩分を取り除いてくれるようです。
その量はどんぶり一杯です。量を聞いたとき、これは一週間続けるのも大変だと思いました。それでも、夫が食べるというので、「自分で作ってください」と言って材料を買ってきました。結局わたしも手伝うことになりました。
(作り方は、ここをクリックしてご覧ください。)

塩分が少ない割にはおいしいのですが、毎食ごとに食べたらあきるのでは?と思いました。(もちろん、一回で一日分食べてもOKです)
今日で4日目です。一回に2食分作って冷蔵庫に入れています。今日また里芋を買いに行ったら売り切れでした。作っている人がたくさんいるのでしょうか?

3週間たって血圧が下がったとしても、そのあとも食べ続けなければ血圧がまた上がってしまうとしたら、本当の解決にはなりません。4週間後にお正月を迎えるのですが、まだ里芋ポテトサラダを作り続けているでしょうか?



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ザクロのほっぺ(2)

2018-11-25 16:23:24 | 童話
                     ザクロのほっぺ(2)          土筆文香


ホッサイのむねはちくりといたみました。丘を二つこえた町に人買いがいるのです。ホッサイはそこに向かっていました。
坂道を半分ほどのぼったところで、あたりはまっ暗になりました。みあげると満天の星がまたたいています。すんだ空気がヒヤリとして思わず首をすくめました。
いつも首に巻いていた布をつかもうとして、さっきはずしていたことに気づきました。

(今まで、このいやなほっぺたをかくさずにエリサと話をしていたのか……)
ホッサイは子どものころを思い出しました。

(母さんは、オレが生まれてからずっと『人前ではほおをかくしていなさい』といった。父さんから『こんな顔に生まれて、一族のはじだ』といわれ、家をとび出した。それでどろぼうになった。
生きていくためには、しかたなかったんだ。だけど、もっと別な生き方があったんじゃないかな)

そのとき赤い大きな星が現われ、あたりが昼間のように明るくなりました。

「な、何だ、これは」
ホッサイはブルブルふるえました。エリサは荷車からとびおりると、ホッサイのふるえる手をそっとつかみました。
空をみていると、何人もの天使がとんできて、すんだ声でいいました。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、すくいぬしがお生まれになりました。この方こそ主(しゅ)キリストです」
そういうと天使たちは鈴の音のような声で歌をうたいました。

ふたりはうっとりと、その声に耳をかたむけました。やがて天使のすがたがみえなくなると、エリサがいいました。
「とうとうお生まれになったのね!」
「生まれたって、だれが?」
「神様の子どもよ。そのお方は人間をほろびからすくってくださるって、父さんがいってた」
エリサは大きく息をすいました。

「おじさん、ダビデの町、ベツレヘムに連れていって」
「オレには関係ないよ」
「おじさんのためにも生まれてくださったのよ」
「えっ、オレのためにも……」
 
ホッサイとエリサは赤い星をめざして進みます。少しでも早く着くようにエリサは荷車を後ろから押しました。赤い星はかちく小屋の上にかがやいていました。

ふたりがかちく小屋をそっとのぞくと、赤ちゃんが飼い葉おけの中で横になっていました。赤ちゃんはじっとホッサイをみています。ホッサイの目から大粒の涙がこぼれました。
「オレは、これまで悪いことばかりしてきました。今日はひつじをぬすみ、この子をだまして売るつもりでした。ごめんなさい」
そういいはじめたとき、エリサの家族がかちく小屋に入ってきました。みなが再会の喜びで大声をあげたり、だき合ったりしたので、ホッサイの

言葉を聞いたのは赤ちゃんだけでした。
「この人、ホッサイさん。親切でやさしくてとってもいいおじさん」
エリサが家族に紹介しました。

おばあさんがホッサイに近づいてきました。
「孫のエリサがお世話になって、ありがとよ」
と頭を下げました。
 顔を上げたとき、おばあさんの首にホッサイと同じようなザクロのあざがみえました。おばあさんは首のあざをかくそうともせず、むしろよくみえるように背中をぴんと伸ばし、あごを前につきだしました。

その後、ホッサイはエリサの家族の一員になりました。首にまいていた布は、もういらなくなりました。
                    
                        おわり

あと書き
童話に出てくるホッサイは、生まれつき頬にあざがありました。
それは恥だから隠すように親から言われていました。ホッサイは布でいつもあざを隠していました。布を取ると、出会う人ほとんどが気持悪がってしまいます。それで泥棒になったのですが、エリサに会う前までは孤独でした。
エリサはホッサイの頬を見ても驚きもせず、かわいいと言います。それは何故でしょうか?

エリサのおばあさんの首にも同じようなあざがあったからです。おばあさんは隠しませんでした。
「人と違う部分があっても、日常生活で見慣れていれば、当たり前の情景として受け入れることができます」
隠さなければいじめられるような社会だったら、とても悲しいですね。

天使たちの言葉、「きょうダビデの町で……」は新約聖書ルカ2:11に書かれています。
「ザクロのほっぺ」は創作ですが、聖書に書かれていることは、本当にあったことです。神のひとり子、イエスさまがお生まれになったことのすばらしさを思いながら書きました。





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ザクロのほっぺ(1)

2018-11-22 15:44:52 | 童話
クリスマス童話を書きました。この童話は、日本クリスチャン・ペンクラブで発行しているニュースレター38号(11/15発行)に掲載された作品を書き直したものです。
ニュースレターでは枚数が限られているので書ききれなかった部分を入れました。2回に分けてアップします。



                    ザクロのほっぺ       
                                            土筆文香

むかしイスラエルにホッサイという名のどろぼうがいました。両ほおに半分に割ったザクロのようなあざがあるので、首にまいた布でかくしていました。 
ぬすみがばれてつかまりそうになると、布を取ってニヤリと笑います。あざは真っ赤で、血がはりついているようにみえました。

「わー、化け物だ!」
みた人は、おどろいて腰をぬかします

「わっはっはっはー。オレはいま、人を食って来たたんだぞう」
ホッサイが大声で言うと、たいていの人は逃げ出してしまいます。 
 
夕暮れ時、ホッサイは荷車を引いて荒野を歩いていました。ぬすんだものを売って帰るところです。  
やぶの中からひつじの鳴き声がしました。みると一匹のひつじがやぶにひっかかっていました。ホッサイは荷車の中にひつじを投げこみました。

「オレはなんてついているんだ。今夜はひつじなべだ」
ニンマリしながら歩いていると、向こうから女の子がかけてきました。
(また、えものがやってきた。あの子をだまして、人買いに売ろう)

「ひつじのペペ見かけなかった? わたしの大切なひつじなの」
 女の子がたずねました。
「さあ、知らないね」

 ホッサイはとっさにほおをおおっていた布を取り、車の中のひつじにかぶせましたが、すぐに『しまった』と思いました。あわてて手でほおをかくすと、女の子がいいました。
「かわいいほっぺ!」

「これをみて、こわいとか気持ち悪いとか思わないのか?」
ホッサイがたずねると、女の子は首を横にふってにっこりと笑いました。女の子は8歳でエリサという名前です。

荷車の中からひつじの鳴き声が聞こえました。エリサが荷車をのぞくと、布の下からひつじが顔を出しました。
「あっ、ペペ! おじさんがペペをみつけてくれたのね」
エリサの顔がぱっとかがやきました。

「ま、まあな。この車に乗るといい。家まで送ろう」
 ホッサイはできるだけやさしい声を出しました。
「わーい。ありがとう。こんな車に乗ってみたいって前から思ってたの」
 エリサは何のうたがいもなく荷車に乗りこむと、ペペをだきしめました。

「お家はどのへんにあるのかい」
「ずっと遠いところ」
「遠いところって?」
「わたしたちはひつじかいなの。ひつじさんの食べる草がいっぱい生えているところをさがしながら旅をしてるの。夜はテントで寝るのよ」
「そうか……」
「ペペがいなくなってさがしているうちに、わたし、まいごになっちゃったんだ。でも、おじさんに会えてよかった」

「丘にのぼれば、家族のいるところがわかるだろう」
夕焼け色の空がだんだん深いあい色に変わってきました。

「暗くなってもわかるの?」
 エリサはちょっと不安そうです。
「わかるさ。ひつじかいたちは、夜は火をたくんだろう。目印になる」
 
ホッサイは荷車を引いて坂道をのぼります。

カタコト カタコト 

木でできた車輪が回ります。でこぼこな場所に来ると、とび出してしまいそうにゆれますが、それが楽しくて、エリサはゆれるたびにキャッキャッと声を上げました。

「おじさんって、親切でいい人ね」
(いい人だって! そんなこといわれたの、はじめてだ。オレみたいな者がいい人になれるんだろうか……)
エリサはペペといっしょにねむってしまいました。

                        つづく



日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてご覧ください。ニュースレターもHPより閲覧できます。


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願い

2018-11-14 16:49:22 | 
    

願い

素直になりたい
いつも素直に神様のことを喜んでいたい

まっすぐでいたい
いつもまっすぐにイエス様を見つめていたい

自分を捨てたい
いつも神様の栄光のためにと思っていたい

それがわたしの願いです

わたしは昔からどこかひねくれていて、なかなか素直になれませんでした。
まっすぐの道をわざと曲がって歩いていました
自分を捨てられず、いつも「自分が、自分が」と言っていました。

素直になりたいのですが、どうしたら素直になれるのかわかりませんでした。
でも、神様に願ったら少し素直になった気がします。願い続ければもっと素直になれるかもしれません。


聖書の言葉
「主に信頼して善を行え。
地に住み、誠実を養え。
主をおのれの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
(詩篇37:3-4)」



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成功の秘訣

2018-11-08 16:42:35 | 教会
昨日の水曜礼拝は、宣教師のP先生がメッセージをしてくださいました。
力強いメッセージを聞いて神様から背中をぽんとたたかれた気持になりました。

メモも十分取れず、ただ圧倒されて聞いていたので、うまくまとめられませんが、心に残ったことを書いていきます。

P先生の家族はクリスチャンホームではありませんでした。唯一おばあさんがクリスチャンで、祈り深い人でした。
P先生はおばあさんの祈りで教会に行くようになって、イエス様を信じました。洗礼を受けてから家族に福音(イエス様のしてくださったこと)を伝えると、一週間で家族の者が次々と救われたそうです。

聖書には、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒の働き16:31)」と書かれていますが、その通りになったのです。

「神様は宇宙を造られました。そして、私を造ってくださいました。神様はお父さんです。

神様は永遠です。世の中は変わっていきますが、神様の言葉は永遠に変わりません。

地上に生きているわたしたちの時間は限られています。年を取るほどに時間が加速していきます。地上で残されているいのちは短いのです。
たったひとつしかないのちです。何が永遠で、何が永遠でないのでしょう……。」
と、P先生が言われました。

そうです。時間は限られているのです。永遠でないことに時間を費やす暇はありません。

「あなたは、そこで何をやっているのか? 子どもたちに神の愛を伝えるために立ち上がったのではないのか?」と神様に言われた気がしました。


成功の秘訣は、「聖書の言葉に従順に従うこと。神と親密になること」だそうです。


ダビデは「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。(詩篇84:10)」と書くほどに、神様との交わりを喜んでいました。

思いがけない災難がやってきたとき、「神様、どうしてですか? わたしを愛しておられないのですか!!」と叫ぶほど神様と親密な関係になっていたいです。


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扉を開けたら

2018-11-05 16:18:46 | 家族
3日は娘一家と義母の入所しているホームへ行ってきました。

娘たちは神奈川県から車で、夫と私は土浦から電車で向かい、ホームのある千葉で待ち合わせしました。どちらからも3時間近くかかります。電車が遅れないように、車が渋滞に巻き込まれないようにと祈りながら出発しました。

「大渋滞に巻き込まれた」と途中で娘からメールがありました。お昼までには着けないかもしれないと思っていると、「浦安過ぎたら、すいてきた。もうすぐ着く」とメール。「ああ、よかった」

ソークンと久しぶりに会いました。パパに抱かれてちょっと恥ずかしそうです。笑いかけるとぎこちない笑顔をみせました。「誰だろう?と」思っているのでしょうね。1歳3か月になりますが、大きくて2歳ぐらいに見えます。
歩き始めたばかりで、何か見つけると突進していくので、転んでばかりです。目が離せません。

義母の部屋を訪れると、義母は大喜びです。みかんをいただいて、ソークンはにっこりしました。ひいおばあちゃんに抱かれてしばらくの間じっとしていました。

同じホームの方が何人もソークンを見に来ました。こんな小さな赤ちゃんを連れて訪れる人は少ないようです。ソークンは一躍人気者になりました。
ファミレスでお昼を食べてから、義母が住んでいた家に寄りました。引っ越してからちょうど1年です。主人が時々行って片づけをしていたので、きれいなままです。

ソークンは、扉を開け閉めすることに興味を持ち、取っ手をつかんで扉が開くとニッコリ笑って入り、扉を閉め、ひとまわりしてまた扉を開けてニッコリ。飽きずに何回も繰り返しています。

「写真撮るからおばあちゃんにだっこしてもらって」と言っても聞き入れません。
「扉開けたとき、大人がひとりずつ顔を出せば、いい写真が撮れるかも」と娘が言って、皆で交代でソークンと一緒に扉を開けて顔を出しました。大人がソークンに遊びを教えてもらったのです。

扉を開けるときのソークンの嬉しそうな顔。扉の向こうに何があるのか期待して、開けたときの喜び。それは、希望に満ちた顔でした。大きくなっても希望を持ち続けてね。ソークン!!

電気もガスも水道もそのままにしているので、「来年のお正月は家じゃなくて、ここに皆が集まってお祝いしたい」と義母が言いました。義母はホームのことを「家」と言ったので、「あれっ?」と思いました。

入所するとき、いやがっていたのです。でも、一年たってホームを我が家と思えるようになったのだなあと、嬉しくなりました。一年で2回ころびましたが、骨は異常なしでした。これからも守られますように。



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人生の最後までできること

2018-10-30 16:03:09 | 教会
先日の礼拝メッセージは、ピリピ人への手紙最後の節から語られました。

最後の節には、たった一言「どうか、主イエスキリストの恵みが、あなた方の霊とともにありますように」です。
ピリピ人への手紙は獄中書簡といわれ、パウロが牢の中で書いた手紙です。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ1:21)」とあるのは、死を自覚し、最後の手紙になるかもしれないと思って書いたのでしょう。

「ピリピ人への手紙の最後は祈りの言葉です。遠く離れたところにいる同胞のことを祈る言葉です」と聞いて、祈ることの大切さを教えられました。

日野原重明さんは、「生きるということは、いのちを使うことです。このいのちを他の人のために使うことです。それが使命です」と、言われたそうです。
わたしたちの使命は何でしょう? 最後までできる使命は祈りです。


確かに年を取り、何もできなくなって、寝たきり状態になってもできることはあります。それは、祈ることです。手を組むことさえできなくても、言葉が出てこなくても、心の中で祈れるのです。


ヘルマン・ホイヴェルスの詩が紹介されました

最上の業

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること--。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために--。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事--。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために--。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と--。



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これで十分

2018-10-23 15:56:56 | 教会
新約聖書の神様はやさしくて、旧約聖書の神様は厳しいと思っている人はおられませんか? かつて、わたしもそう思っていました。

もっと前は、新約聖書は新しい訳で旧約聖書は古い訳だと思っていました。それにしては旧約聖書はぶ厚くて、新約聖書の何倍ものページ数があります。

ひとりで読むと、何のことが書かれているのか理解できません。旧約と新約がどうつながっているかもわかりません。
新約と旧約の『約』は約束の『約』、契約の『約』で、訳ではないこと。旧約はイエス・キリスト誕生以前のこと、新約聖書はイエス・キリストの誕生後の事が書かれていると教えていただいたとき、目が開かれたようでした。

先日の礼拝メッセージでは、へブル人への手紙から語られました。へブル人への手紙は新約聖書の中で難関といわれる書簡だそうです。

書いた人が誰なのかわかりません。パウロが書いた手紙には挨拶文がありますが、へブル人への手紙には挨拶も自己紹介もありません。自己紹介しなくても宛先のへブル人と周知の仲だったからか、それとも切迫感があって、まず伝えたいことをいきなり書いたのか、どちらかわかりません。

へブル人とはユダヤ系クリスチャンのことで、旧約聖書は認めるのですが、イエス・キリストが救い主とは認めない人たちです。
その人たちにへブル人への手紙の筆者は何を伝えたかったのでしょうか。

聖書には次のように書かれています。

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(へブル人への手紙1:3)」

旧約聖書では、海が二つに分かれたり、岩を杖でたたいたら水が出たり、天から火が降ったり、ライオンの穴に投げ入れられていたダニエルが助かったり……と数多くの可視的な奇跡が書かれています。

これらの奇跡はなぜ今は起こらないのかと思われる人もあるでしょうが、イエス様のしてくださったことに比べれば完全ではなく、キリストのひな型でしかないのです。

旧約に書かれているどの出来事よりはるかに卓越しているのが、イエス・キリストのしてくださったことです。「イエス・キリストのしてくださったことで十分だ」と牧師先生が言われました。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32)」

神様は、罪にために滅びてしまう私たちを救うためにイエス・キリストを惜しまずに死に渡されました。そこまでして私たちを愛してくださる神がすべてのものを恵んでくださらないわけがないでしょう。

神様のしてくださったことを思うと、胸が熱くなります。聖歌593番を歌いたくなりました。
1番を紹介します。


罪に満てる世界 そこに住む世人に
「いのち得よ」とイエスは 血潮流しませり
ああ 恵み はかりしれぬ恵み
ああ 恵み 我にさえ及べり



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ブログ13年

2018-10-15 16:53:00 | 日記

ブログ開設13年になりました。こんなに続くとは思っていませんでした。やめようと思ったことは数えきれないほどあります。

最近久しぶりに会う人に近況を話そうとすると、「わかっているから」と言われます。えっ、なぜ……と、思い巡らしていると、「ブログ『生かされて』を読んでいるから」と言うのです。

最近たて続けに何人もの方から言われたので、恥ずかしいようなうれしいような・・・・・・。

不特定多数の人に一方的に発信するということは、考えてみると恐ろしいことです。一昔前だったら考えられないことですね。
先日は、3年前に北海道に引っ越されたIさんにお目にかかりました。教会のYさんの絵画の個展がつくばで開かれるので、北海道から訪れたと言われました。

水曜礼拝に行くとき、ピスガの前で出会ったのですが、やはりIさんもブログを読んでくださっていて、「お礼が言いたかった」とおっしゃってくださいました。もっとIさんとお話ししたいと思いましたが、礼拝の後は聖書輪読会が予定されていたので、話はできませんでした。

ところが、輪読会でご一緒していたSさんが午後からYさんの個展に行くのでご一緒しませんかと声をかけてくださいました。それでSさんの車に乗せてもらって個展に行きました。(感謝)

神様を指し示す作品に心打たれました。とくに神様の天地創造が描かれている絵は迫力があり、圧倒されました。

その会場で再びIさんにお会いでき、ゆっくりお話しできました。神様の計らいだと思いました。Iさんのことを祈りのカードに書いて祈っていたと言うと、Iさんも私のことを祈っていたとおっしゃいました。私は、私の想像よりはるかにたくさんの人から祈られているのかもしれません。なんとうれしいことでしょう!!

このようなことがあると、ブログをまだ書き続けたほうがいいのかなぁ?と思わされます。

昨日の礼拝では、ピリピ人への手紙4:21-22からメッセージが語られました。ピリピ人への手紙の最後で、あいさつ文です。
「聖徒たちへ」と書かれていますが、クリスチャンは、みな聖徒なのだそうです。
聖徒といわれると、身が縮む思いですが、聖徒とは「その人の性格や能力に関係なく、神の一方的な恵みによって聖徒とされた者」だと聞いて、ほっとしました。

聖徒とはどういうことか教えていただきました。
①罪があるのに赦されたという立場にある。
②それにふさわしく変えられていくという状況にある。
③神に聖別された者である。(聖別とは他の者から分離された、きよくされたということ)

聖別には、必ず目的があります。神の目的を遂行させるため、聖別されたのです。聖別されたからと言って、高慢になってはいけません。むしろへりくだる者になるようにと奨めがありました。


わたしにとって神様の目的とは何でしょう。自分は目的に従って歩んでいるのだろうか……と考えています。



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笑い飛ばして

2018-10-11 16:29:36 | 家族
土曜日は土浦市花火大会が予定されていました。台風25号が縦断するということでしたが、24号に比べて離れた場所を通るので、風は24号ほどではないという天気予報でした。
それでも開催されるかどうか不安でした。日曜日に延期になると、花火の打ち上げ場にもなっている教会への出入りが難しくなってしまうからです。

当日、予定通り花火大会が開催されることを知りました。
息子一家が来てバルコニーから花火を眺めました。花火がいつもより西に上がるので、打ち上げ場所が移動したのかと思って見ていました。(風で流されていたようです)花火を満喫していると、三分の一ほど打ち上げられた後、止まってしまいました。

同時中継しているテレビは「強風のため中断しています」というばかりで、一向に再開されません。

「花火が観客席に飛んできて、怪我人が出たんだって」ヒックンが言いました。
「どうしてそんなことわかるの」ママが驚いて尋ねると、「ツイッター見たからだよ」と言ってママのスマホを見せてくれました。ママでさえツイッターの見方を知らないのに小6でできてしまうとは……。

それにしても何ということでしょう……花火が飛んできたなんて……。やはり、風が強かったのですね。けが人(軽症で、救急搬送された人はいなかったようです)が出たのなら、もう花火は中止になるだろうと思っていたら、まもなく中止が知らされました。外で見ている人たちには伝わったのでしょうか……。皆、スマホがあるからツイッターで知るのでしょうね。
花火が中止になったので、ヒックンはパパとママと一緒にトランプを始めました。学校の先生にトランプの大富豪を教えてもらって、最近トランプにはまっているそうです。

「今日は楽しかった。花火も十分見れたし、中止になったおかげで、家族でトランプができたから」ヒックンが言いました。
パパとママはなかなか仕事の休みが合わなくて、家族一緒に過ごす時間が少なかったので、貴重なひとときだったのですね。

ヒックンとナルクンは三連休ずっとこちらにいました。月曜日、ヒックンはおじいちゃんと一緒に公衆電話のあるところまで行って、電話をかける練習をしました。先に受話器を取ることがまだできていなかったので、よかったです。

そのあと、桜川の土手で待ち合わせをしていました。わたしはナルクンを連れて出かけたのですが、外に出たとたん、雨が降ってきました。「雨だからお散歩はやめようね」と言うと「いやだー」とナルクンが納得しません。

仕方がないので傘をさして出かけました。ナルクンと手をつないで歩きながら、いろんなことを話しました。ナルクンの話のほとんどが、お兄ちゃんのことでした。「お兄ちゃんにたたかれて痛かった。意地悪されてくやしかった」など、たくさんの不満がたまっているようです。

実際はお兄ちゃんがそんなに意地悪をするわけではありません。ちょっとからかっただけで、ナルクンがひどいことをされたと感じてしまうようです。

ヒックンはヒックンで、「ナルクンが泣くと、いつもぼくがしかられる」と、ストレスをためているようです。

ナルクンの話を聞いて、「つらいね。そんなことされたら怒りたくなるでしょう」と言うと「ううん。笑いたくなる」と答えたので驚きました。
「それじゃ、笑おっか」「うん、笑おう。ハハハハハ」「イヒヒヒヒ」「ゲラゲラゲラ」「わっはっはっはー」笑いながら土手を歩いていきました。
いやなことを笑いとばすエネルギーってすごいですね。

聖書の言葉

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。(Ⅰテサロニケ15:16)」
 
日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。


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失うことにより、わかることがある

2018-10-05 14:58:55 | 聖書から
水曜礼拝で士師記16章を学びました。5月に学んだときは、サムソンの全盛期でしたが、今回は晩年のサムソンンです。

サムソンは、神様によって特別な力を与えられていました。素手でライオンを倒したり、門柱と扉を引き抜いて肩にかついで山に持って行ったり……。
イスラエルがペリシテ人に支配されていた時代にあって、怪力サムソンの登場は同胞イスラエル人にとって、頼もしい存在だったことでしょう。ペリシテ人は、サムソンを恐れて何もできずにいましたが、サムソンを倒す機会を狙っていました。

サムソンの弱点は女性でした。サムソンはデリラを愛しました。そのことを利用してペリシテ人たちはデリラにサムソンの力の秘密を聞き出すように頼みました。

デリラはサムソンに尋ねます。が、サムソンは嘘をつきます。何回か繰り返されたのち、サムソンは本当のこと(髪の毛をそり落とされたら力が弱くなる)をついに明かしてしまいます。

サムソンの力の秘密をペリシテ人に告げたら、サムソンがペリシテ人に殺されるかもしれないとデリラは承知していたはずなのになぜ?と思いますが……。サムソンとデリラの愛は不完全でした。

サムソンは髪の毛をそられて力がなくなったとき、初めて自分の弱さに気づきました。特別な力は、神様から頂いたものだと気づき、神に立ち返ったのです。

「サムソンは20年の間イスラエルをさばいた。」書かれているところから、そのときのサムソンは最初のころと違って、晩年であったことがうかがえます。

人は晩年になると、力、健康、大切な物、積み上げてきたものを失いますが、失うことで見えなかったものが見えるようになります。失ったことにより、わかることがあります。神様はサムソンが立ち返るのを待っておられました。
神様はあなたを待っておられます。


わたしは若いころ、年をとれば達観の心境になったり、穏やかで平安に包まれたりするのかなと思っていました。体力的な衰えはあっても、もともと体の弱い者なので、それほどの変化は起きないだろうと思っていました。
けれども60歳を超えたときから色々な故障が起きて、日常生活の中でも身体の衰えをはっきり知らされて、内心「このままの速度で老化していったらどうしよう」とあせっている自分がいます。


「失うことにより、わかることがある」と牧師先生が言われました。そうです。確かにあります。
年をとって、できないことがひとつひとつ増えていって、最後は横になるしかできなくなるかもしれません。でも、そのときが神様にいちばん近いときなのでしょう。

明日は土浦の全国花火競技大会です。台風が通過するので強風が予想され、中止か延期になるのかなと思いましたが、予定通り行うそうです。我が家からよく見えるので今年も息子一家が来ます。
事故のないように祈ります。


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やるならやる、やらないならやらない

2018-10-01 16:23:50 | 家族
台風24号が日本列島を縦断しました。今までにないほど強い風でした。昼間はたいしたことなかったので教会に行けました。

夜中に停電があり、4時間ぐらい水も止まっていました。東日本大震災を思い出しました。

今日は母の命日です。母が天に召されたのは3年前でした。

東日本大震災の時は、都内で一人暮らしをしていましたが、とても元気でした。

震災後、計画停電をすると言ってたのに中止になったとき、母が街頭でテレビ局のインタビューを受けました。83歳の時です。
「計画停電と聞いて何をしましたか?」と聞かれ、「朝5時に起きてご飯を炊き、おにぎりを作りました。」と答えたそうです。
「東京電力に何か言いたいことはありますか?」と聞かれ、「計画停電はやるならやる。やらないならやらないとはっきりしてください!」と大きな声できっぱりと言ったそうです。

母はテレビに出るかもしれないということを誰にも言いませんでした。ところが、姪が家で何気なくテレビを見ていたら、母(姪にとっては祖母)が出てきてそのように答えたので、とても驚いたそうです。

その日のうちに同じインタビューが3回も放送されたようで、遠くに住んでいる友人から電話がかかってきたと母が言っていました。見たかったです。

昨日は母の料理ノートを見て、里芋と大根と豚バラ肉の煮物を作りました。母は計量スプーンを使わない人だったのでレシピは大雑把に書かれています。砂糖少々とかひたひたの水。味を見て足りなければ醤油を足すなど……。なので母の味を再現することができません。昨日はかなり近づいた味になったと思いますが、母が食べたら、「まだまだ」と言いそうです。

母は料理が好きで、和食、洋食、中華どれも得意でした。もっと手伝って母の料理をマスターすればよかったと反省しています。

母は食べることが好きで、胃がんの末期でも意欲がありました。わたしが食べさせにホームへ行くと、少しずつですが、お粥、豆腐料理、白身魚など食べてから、「茶わん蒸しはないの?」と尋ねました。

施設の人が茶わん蒸しは食べられますねと言ったので、今日茶わん蒸しが出るのかと思ったようです。

「あとでプリン食べるの。3時のおやつで半分しか食べられなかったから、残りを冷蔵庫に入れてあるの」
と、嬉しそうに言っていましたが、食べることはありませんでした。その夜の10時前に天国に召されたからです。87歳でした。



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私は私らしく

2018-09-27 16:35:04 | 
前回、家庭集会で読んだ水野源三さんの詩の紹介させていただきましたが、レジュメにもうひとつ書かれていたのでそれも紹介いたします。

「生きる」 水野源三

神様の大きな御手の中で

かたつむりは かたつむりらしく歩み
蛍草は蛍草らしく咲き
雨蛙は雨蛙らしく鳴き

神様の大きな御手の中で
私は 私らしく 生きる


生を受けたものは、使命を持っています。この世界の生き物は、目的をもって神様によって造られたからです。

その目的がわからずに背伸びしたり、どうせ自分には才能がないからと卑屈になったり、人と比べて落ち込んだりします。

その人らしく生きるのがいちばんですが、自分らしく生きるとは、どういうことでしょう。

かたつむりが、かたつむりらしくなく歩んだらどうなるでしょう。そもそもかたつむりらしくとは、どういう意味でしょうか。逆立ちしても素早く歩けるとは思いません。かたつむりらしくは、『ゆっくりと』ということでしょう。

蛍草は小さな花です。ひまわりやバラのような派手さはなく、人に気づかれることなく庭の片隅にひっそりと咲いているというイメージの花を引用したのは、源三さんが、蛍草をご自分に重ね合わせたのかもしれません。

「雨蛙は雨蛙らしく鳴き」と、ここで聴覚に訴えるものを持ってきたのは、源三さんらしく思います。源三さんは声も出すことができなかったのですから、じっと蛙の声に耳を傾けていたのでしょう。

私は私らしく生きるとは、どういうことでしょう。体を動かすことができず、まばたきでしか意思を伝えられないのに「私らしく生きる」と書いて、自分の境遇を受け入れています。そこには不満や怒り、嘆きがありません。平安があるだけです。
そのような心境になれたのは何故でしょう? 一行上に「神様の大きな御手の中で」という一文がありますが、そこに秘密が隠されている気がします。

「すべてのことは、神様の御手の中にあるので、何が起きても動揺することはありません。神様が最善をなしてくださるので、ありのままで従っていくだけです。自分のできないことを嘆くのではなく、今与えられているものを用いて精いっぱい生きることが私らしく生きるということです」
源三さんはこのように思ってこの詩を書いたのではないかと想像しました。

最後にわたしの好きな賛美曲「このままの姿で」の歌詞を紹介します。
   
   このままの姿で 

ちいさな野の花でも
主の愛をうけて かがやく
あふれる主の恵みは
いついつまでも
バラはバラのように
すみれはすみれのように
わたしもこのままのすがたで
ついてゆきます

空をとぶ鳥たちは
主の愛をうたいつづける
あふれる感謝 よろこびは
いついつまでも
わしはわしのように
すずめはすずめのように
わたしも主のほめうたを
うたいつづける
   詩、曲ノア




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なぜ災害が起きるのでしょう

2018-09-21 16:38:55 | 聖書から
ごぶさたしています。
昨日の家庭集会で感じたことを書かせていただきます。

この夏は災害が続いて、まだ苦しみの中にある人たちが大勢おられます。なぜこのような災害が起きるのかと、問いただしたい気持ちになることでしょう。

旧約聖書の出エジプト記にはモーセがイスラエルの民を率いて荒野を旅するようすが書かれています。エジプトを出発してカナンの地に行くのです。まっすぐ行けば2-3か月で行けるそうですが、回り道をしたため40年もかかって到着しました。

回り道をさせられた理由はわからないのですが、イスラエルの民は、神様に導かれて苦難のある荒野を旅したのです。神様の側からみると、あえて民に苦難の旅をさせたということです。なぜでしょう。

水野源三さんの詩に「苦しまなかったら」という詩があります。

「苦しまなかったら」 水野源三

もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら
神の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら
神様の愛はあらわれなかった。


水野源三さんは子どものころ赤痢に罹って、命は助かりましたが、体が動かせなくなってしまいました。
まばたきで意思を伝えることしかできませんでしたが、たくさんの詩を作って、多くの人に感動と生きる力を与えました。

源三さんは、自分の病気を嘆くのではなく、苦しみにあったので神の愛を知ることができたと書いています。

詩篇には「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」と書かれています。

わたしの場合は、苦難の真っ最中にいるときは、神様がなぜわたしを苦しい目にあわせるのかわかりませんでした。でも、過ぎ去ってみると、心から「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言うことができます。真っ最中にいるときにもそのように言えれば本物の信仰者です。水野源三さんのように。

また、出エジプト記19:5には「わたしの宝となる」と書かれています。
その言葉に感激しました。神様は何のとりえもないわたしを宝と言ってくださるのです。神様はわたしのことを造り、苦しみも与えてくださいましたが、多くの喜び、恵みを与えてくださいました。そして『お前はわたしの宝だよ』と言ってくださっています。なんとうれしいことでしょう!

最後になぜ災害が起きるのかについて。
なぜ災害が起きるのかわかりませんが、確かなことがあります。それはイエス様が災害にあわれた方のそばにおられるこということです。災害にあわなくても悲しみの中にいる人の傍らにイエス様がおられるのです。


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相手を変えようと思うのは……

2018-09-11 16:13:20 | ティーンズ
学生時代の友人のひとりが書いて送ってくれたハガキです。グリムというのは、わたしのニックネームです。
先月長野へ学生時代の友人9人で長野県へ旅行に出かけました。
旅行の後、ブログに旅行記を書きましたが、それを少し書き換えて、行けなかったひとりも含めて9人に便りを送りました。このハガキはそのお返事としてS子から送られてきたものです。おもて面には「グリムの生き方は素敵です」と書かれていました。うれしくて、S子の許可を得てからアップしました。

一昨日のTEENS礼拝は結婚についてのメッセージの第2弾。前の週に語ってくれたYさんの奥さんがメッセージしてくださいました。
その中で印象に残ったことを紹介します。

夫婦はお互い価値観が違うので、宇宙人のように全然理解できない者です。相手を変えようとしてはいけません。誰かを変えようとするのは、愛のない行為です。相手を受け入れて、自分を変える努力をしてくださいというメッセージでした。夫婦円満の秘訣ですね。

ニーバーの詩が紹介されました。

祈り

変えることのできないものに対しては、

それを受け入れるだけの冷静さを、

変えることのできるものに対しては、

それを変えるだけの勇気を、

そして、変えることのできないものと、

変えることのできるものとを見分ける知恵をわたしに与えて下さい


(この詩は、以前このブログで紹介しました)

日曜日の午後は、教会でH先生の歓迎会がありました。また、以前伝道師として教会におられたM先生と5年ぶりぐらいにお会いできて楽しい時間を過ごしました。

日本クリスチャン・ペンクラブのHP更新しました。ここをクリックしてごらんください。わたしのエッセイが掲載されています。



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