アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

夜光の階段

2011-11-13 10:31:38 | 
『夜光の階段(上・下)』 松本清張   ☆☆☆☆

 日本に出張した際、帰りの飛行機の中で読もうと思って買った松本清張のミステリ。ピカレスクもの。『黒革の手帖』『わるいやつら』系の話である。松本清張のこのパターンは外れがない。これも知名度は劣るが、十分面白かった。

 主人公はプレイボーイの美容師で、例によって女たちを利用しながらのし上がっていく。しかしほぼ主人公視点で語られる『わるいやつら』と違って、本書では三人称の語り手が登場人物たちを距離を置いて眺めているところに特徴がある。登場人物たちを突き放したところがあるのである。この冷静な、時には冷ややかな視点はあまり他の清張作品にも見らないもので、実験的と言ってもいいかも知れない。それは冒頭の一文からも明らかで、「三十五歳くらいの男が九州の温泉地の旅館で朝の床から起きた――という平凡な日常的動作からこの話をはじめる必要がある」という文章に続いて、平凡とか異常とかいうものについての考察が続く。なんとなくメタフィクショナルである。

 視点が変わるという手法もそう。たとえば『わるいやつら』では語り手の視点はずっと主人公の医師に寄り添っていて、三人称叙述ながらも医師の目から見た世界が描かれていた。読者を特定の人物に感情移入させるのにこの方法は有効である。しかし本書では、視点が主人公の美容師・佐山、事件に興味を持つ検事・桑山、あるいは美容師の恋人・幸子、あるいは美容師に利用されるデザイナー・岡野、という具合にどんどん入れ替わる。

 視点の切り替えは他の小説でも普通にあるじゃないかと言われるかも知れないが、通常はAさん、Bさんと章によって視点が変わる場合、AさんとBさんは異なる環境、もしくは別々のサブプロットの中にいる。この二人はあまり絡まない。AさんとBさんが恋人同士でお互いを利用しようと企んでいるような時に、語りの視点がAさんだったりBさんだったりはあんまりしないだろう。ところが、この小説はそういうスタイルで書かれている。

 これだと読者は、視点が一貫している場合に比べて登場人物への感情移入が浅くなる。その反面、登場人物を色んな角度から眺めることができて知的興味は掻き立てられる。言ってみれば情緒型ではなくアイロニー型だ。

 こういうスタイルだから、主人公である佐山の行動もすべてが読者に知らされるわけではない。ある部分はわざと伏せられる。また同じエピソードをまず岡野視点で描写し、後に佐山視点で描写しなおす、といったことも行われる。この小説では何度か殺人が起きるが、ある部分は倒叙推理、ある部分は本格と、異なる面白さを味わえるようになっている。

 それから検事である桑山視点の章では、法律学の立場から学術的な注釈が入ったりするが、これもなかなか面白い。たとえば自白というものが裁判の趨勢にどう影響するかなどが、他の本からの引用もまじえて解説される。

 ところで、佐山の恋人である幸子の悪辣さはまったくひどく、犯罪者である佐山に同情したくなるほどだ。とんでもない女である。だから幸子に関してはあまり佐山を悪く思えない。この佐山と幸子の駆け引きのあたりはじっくり読ませる。また、幸子が勤め先である雑誌社を自信満々で辞め、フリーのライターになった途端周囲の人々に掌を返されて困惑する部分がある。メインプロットとは関係ないけれども、非常に面白かった。もっと引っ張ってもらいたかったくらいだ。あてが外れるだけでなく、それまで下手だと思って軽蔑していた他人の原稿がにわかに上手に思えてくるのである。実はこういう経験が私にもある。

 それからこれも本筋と直接関係はないが、デザイナーの岡野のエピソードで、ようやく芽が出始めてプレッシャーを感じ、追い詰められてノイローゼになっていくあたりの描写も凄みがある。いい仕事をしなくちゃと思えば思うほどアイデアが浮かばず、何も手につかず、眠れず、焦燥ばかりがつのり、しまいにはいっそ自殺したいと思うようになる。耳から脳みそが出そうになる。こういう登場人物を追い詰めていく手際は本当にうまい。

 こうした寄り道部分が多いことや視点が切り替わる手法などで、ピカレスクものとしては統一感に欠けるきらいがあり、また終盤の収束のさせ方がいまひとつの感があるけれども、ディテールは十分面白い。松本清張のピカレスクものが好きな人は、読んで損はしないはずだ。



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