アブソリュート・エゴ・レビュー

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ラスト、コーション

2015-01-04 18:56:13 | 映画
『ラスト、コーション』 アン・リー監督   ☆☆☆☆★

 『いつか晴れた日に』『恋人たちの食卓』に続いてアン・リー監督の『ラスト、コーション』を日本版ブルーレイで鑑賞。タイトルは「最後の警告」の意味かと思っていたらそうではなく、ラストは色欲のlustで、原題は「色、戒」だという。つまり色欲と戒め、という二つを並列したタイトルなのであり、だから間に入っているのが中黒でなく読点なのだった。

 そういうわけで、結構大胆なセックス・シーンがフィーチャーされた映画だと評判にもなり宣伝もされ、また、実際にちょっと驚くぐらい大胆なセックス描写を含んでいる。主演女優のタン・ウェイの可憐さからは想像できないぐらい、下手するとちょっとしたAV並みで、だから一緒に観る相手には気をつけないといけないが、しかし本作は決してエロを売り物にした安直な恋愛映画ではない。さすがアン・リー監督、と唸らされる充実したフィルムだ。実際に、本作はヴェネツィア映画祭で金獅子賞と金オゼッラ賞を受賞している。

 本作は160分とかなり長く、主人公ワン・チアチー(タン・ウェイ)が演劇を始める女学生時代から、抗日組織のスパイとなって働く3年後に至る大河ドラマ的構成になっているが、実のところ、これは非常にシンプルな愛の物語という印象を受ける。これは群像劇でもなく、「女の一生」的な伝記物語でもなく、ただチアチーとイー、この二人の「愛」の物語であり、それ以外の何物でもない。しかもその「愛」とは、歳月とともに育っていっていつか花を咲かせるようなものではなく、ほんの一瞬魂が触れ合い、そしてそのあとは宿命的に散っていくだけという、あまりにもはかない線香花火のような「愛」である。このはかなさの描写において、アン・リー監督はこの映画の中で見事な達成を見せてくれる。このはかなさこそが、この映画の美しさの核心であり、ポエジーの源泉である。

 冒頭、チアチーがカフェから電話を一本かけ、抗日組織の仲間が受ける。イー暗殺計画の実行フェーズが起動したのである。そこからチアチーの回想という形で、物語は数年前、彼女が素朴な女学生だった頃に遡る。演劇の経験もなかったチアチーは友達と一緒に劇団に入る。抗日の芝居を打って喝采を浴び、仲間と乾杯する。劇団のリーダーは親戚つながりで特務機関の重要人物イーに近づけることを知り、学生らしい熱狂から、イー暗殺計画を練る。チアチーは上流階級の夫人のふりをしてイーに近づき、いいところまで行くが、結果的に学生の甘さで頓挫する。数年後、今度は国民党の抗日組織が彼女にコンタクトし、再びイー暗殺計画が始動する。今度は本物のスパイとして、そして暗殺者として、チアチーはイーに再会する。「自分は誰も信じることができないが、君だけは信じられる」と、かつて彼女に告げた男に。
 
 いつもの通り、アン・リー監督の映像は見事だ。戦時中の魔都・上海の、西洋と東洋が掛け合わさった仇花のような華やぎは素晴らしい。上流階級の夫人を演じるチアチーの装いや、イーと彼女が出入りする豪奢な邸宅のインテリアも眼福である。オーディエンスは観る快感を存分に味わうことができるだろう。そしてリー監督の十八番、表情と視線、仕草の細やかな演出もやはり冴えている。

 そのリー監督の妙技が頂点に達するのが、あのクライマックス・シーンである。長い回想が終わり、観客はチアチーとともに再びイー暗殺の日に戻ってくる。電話を終えたあと、チアチーはイーと会い、車に乗り、宝石店へ向かう。そこでイーは、チアチーに宝石をプレゼントする。すると、チアチーの様子がおかしい。「どうしたんだい?」とイーは尋ねる。

 普通、これだけ長い物語を引っ張ってきたら、しかも要人の暗殺計画という派手なプロットの映画なら、劇的なクライマックスを準備したくなるものだ。劇的なクライマックスとはつまり劇的なアクションである。この映画でもその気になれば、いくらでもそうできたはずだ。ところが、リー監督はそれをしない。この映画のクライマックスはなんと、宝石店におけるチアチーの表情と彼女が漏らすたった一言、それだけである。この場面におけるチアチーとイーの表情のやりとり、それがこの長い映画全体を支えるクライマックスなのだ。その後のすべては、単なる付け足しに過ぎない。

 ここに至って気づくのは、映画全体にわたって観客はチアチーの心理をつぶさに見せられてきたようでいて(なぜならすべてはチアチー視点で語られるから)、実はもっとも肝心な一点が、巧みに隠蔽されていたということである。それは、チアチーのイーに対する思いである。私はこの映画におけるもっとも見事な技巧は、この隠蔽だと思う。もちろん、チアチーがイーを愛してしまうというプロットの展開は誰にでも予想できることで、そこに驚きがあるわけではない。しかしたとえ観客全員がこの結末を予想したとしても、隠蔽されていた感情が露わになる瞬間に魔法が宿る。チアチーのあの一瞬の表情、極限の葛藤に置かれた人間の表情を見よ。本作のクライマックスでリー監督が解き放つのは、その圧倒的な力である。

 凡庸な監督ならこうはしないだろう。チアチーがイーを愛しているのはもう分かっているから、と言わんばかりに彼女の心理描写をするだろう。彼女がひとり涙する姿を見せ、使命と愛の間で引き裂かれて苦悩する姿を、映画全編にわたってだらだらと入れ続けるだろう。そして、すべてがメロドラマと化してしまうだろう。しかしこの映画はそうではない。私たち観客はすべてを見せられながら、それこそチアチーとイーの寝室の中の営みまで見せられながら、チアチーの本当の思いだけは知らされない。少なくとも、明示されることはない。すべては私たちの想像なのだ。そしてそれが、私たちの目に見える形で画面上に迸るのは、あのクライマックスの数秒間だけなのである。

 過激なセックス・シーンが喧伝されているにもかかわらず、私が本作を奥ゆかしく、気品に溢れた、凛然たるラヴ・ストーリーだと思うのはこれが理由だ。チアチーとイーの愛の物語、もしかしたらそれは愛の錯覚の物語、愛の幻の物語なのかも知れない。チアチーがイーに真実の自分を見せることができたのは、ただあの数秒間だけだった。そしてそれがかなうと同時に、避けがたい破滅がやってくる。この目もくらむような儚さにおいて、このフィルムは間違いなく、古典的な意味での悲劇の名に値するラヴ・ストーリーだと思う。



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