アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

オデッサ・ファイル

2018-11-19 21:36:29 | 
『オデッサ・ファイル』 フレデリック・フォーサイス   ☆☆☆☆

 再読。『ジャッカルの日』で有名なフォーサイズのもう一つの代表作である。「オデッサ」とは何か。ナチス親衛隊メンバーをはじめとする旧ナチス党員の逃亡支援のために結成された組織、とウィキペディアにある。諸説あるようだが、一応、実在の組織のようだ。この小説はそのオデッサが一人のジャーナリストに煮え湯を飲まされたエピソードにして、その歴史上最大の失敗の一つである「オデッサ・ファイル」事件の紹介、との体裁をとっている。もちろん、この事件はフォーサイスの創作である。

 しかしながら、『ジャッカルの日』と同じくジャーナリスティックで冷徹な筆致で描かれる「オデッサ・ファイル」事件は、まるでルポルタージュさながらの迫真性に満ちている。フォーサイスは緻密な取材をもとに第二次大戦当時のナチスの活動や収容所で起きたことの記録、戦後のオデッサの活動や元ナチス党員の去就、ナチス問題に対するドイツ国内の世論や警察組織の対応状況などのドキュメンタリー要素を、この小説の中に大量に盛り込んだ。おそらくこの小説に書かれていることの半分ぐらいはフィクションでなく事実だろう。しかも題材はナチスの戦争犯罪というヘヴィーなもの。一流のエンタメでありつつも、これは軽佻浮薄とは無縁のきわめて骨太な社会派小説なのだった。

 物語は1963年、一人のドイツ人ルポライターが自殺した老ユダヤ人の日記を入手するところから始まる。老人はかつてリガの収容所にいて、所長のエドゥアルト・ロシュマンが残虐にユダヤ人たちを殺戮した模様を詳細に書き記していたが、戦後20年近くたった現在(1963年)、ロシュマンが裕福な人々にまじってオペラ座から出てくるのを目撃し、絶望して自殺する。ルポライターは戦争犯罪者ロシュマンを探し出そうとするが雑誌社や母親からは強く反対され、警察はきわめて非協力的、加えてオデッサらしき組織から不穏な警告を受ける。しかし彼はついにナチス狩りを目的とする団体と接触することで、オデッサに潜入することに成功する…。

 前半は、自殺したユダヤ人の日記に書かれている収容所の模様や、主人公が会いにいく人々から聞く元ナチス親衛隊、つまり元SS隊員の捜査の実態や、オデッサという組織に関する説明などで多くのページが費やされる。主人公の調査はなかなか進まず、かつ周囲の人々はすべてそんな調査は止めろと助言してくる。早くハラハラドキドキしたい人には不満かも知れないが、この部分で戦後のドイツの難しい状況が丁寧に説明されるので、大変興味深い。つまり戦犯となっている元SSに対してちゃんとした捜査が行われておらず、それは元SSが警察幹部に多く存在するためであり、また死んだユダヤ人は投票しないが生き延びた元SS関係者は投票するためであること、要するにこうした社会的矛盾がドイツに存在すること、が詳しく説明される。加えて、ユダヤ人たちの受難を傍観していたという罪悪感が一般のドイツ人たちの間にもあり、そのためドイツ国民全体が元ナチスの罪悪を暴いたり罰したりすることに消極的であることも指摘される。

 しかし後半に入り、主人公がオデッサに潜入するあたりからストーリーはジェットコースター的に加速していく。彼が標的であるロシュマンに肉迫していくと同時に、オデッサの処刑人の魔の手が彼に伸びるのである。果たして彼はロシュマンの居所を突き止めることができるのか、あるいは処刑人に「処理」されてしまうのか。ハラハラドキドキの連続となるが、フォーサイスの筆は一貫してジャーナリスティックで簡潔、かつ冷静である。あくまで硬派なルポルタージュ風を崩さない。
 
 もう一つの本書の重要な仕掛けは、主人公がロシュマンを追う動機の謎である。最初は死んだ老ユダヤ人の日記に触発され、ルポライターとしての血が騒いだというだけに見える。しかし何人もの人間が彼に「君の動機は一体なんだ? ライターとして興味だけとは思えない」と問いかけるので、読者の胸中にもだんだん疑念が育っていく。彼は何かを隠しているのだろうか? このミステリーがクライマックスであかされる意外な真相へとつながり、物語を更に盛り上げる。

 結末は読者をすっきりさせるというより割り切れなさを残すもので、エンタメ小説としては地味だが、この小説の場合はかえってリアルさを醸し出していると思う。ナチスという重い主題を扱った骨太な社会派スリラーである本書は、ナチスの悪行を告発するだけでなく、戦後のドイツ国民の心理や法システムの問題なども正面から取り上げているところが啓発的であり、誠実でもある。個人的に印象に残ったのはある登場人物が主人公に言うセリフで、全体の罪というようなものはなく、罪は常に個人にある、ドイツ人全体に罪があるという考え方は元SSをむしろ助けているのだ、という言葉だった。



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