アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

ラピスラズリ

2006-12-02 15:18:48 | 
『ラピスラズリ』 山尾悠子   ☆☆☆☆☆

 知る人ぞ知る日本の幻想作家、山尾悠子の(今のところ)唯一の長編小説を再読。長編小説と言っても、共通のテーマを持ったいくつかの作品から構成された連作長編である。この人はもともと気質的に短篇作家のようで、それはこの作品からもよく分かる。

 日本のボルヘスと呼ばれたこともあるらしいが、私が見たところボルヘスとはまるで違う。完全にリアリズムと無縁の、ある種思考実験的な、自己完結した世界を構築してしまうところがそう思わせるのだろうが、幾何学的精神の権化の如きボルヘスの幻想は基本的にメタフィジクス幻想であって、彼の作品は幻想的ロジックの物語だ。ゼノンのパラドックスとか、ああいう世界である。世界と言葉が等価になり、原因と結果がくるりとひっくり返ったりする。円環宇宙とか迷宮図書館とかいう幻想的イメージは、その結果として現れる。一方、山尾悠子はイメージの幻視者であって、その世界は映像的なイメージの数々がモザイク状に組み合わされることで成り立っている。彼女の小説を読んでいると、幻想絵画の展覧会にいるような気分になる。個人的にはシュルレアリスムというよりファンタジーという方がしっくり来る。彼女の文章には即興性や自動書記性、ナンセンス性や痙攣性は微塵もない。緻密で生真面目な職人芸を感じさせる。

 本書のメインとなるイメージは、冬眠者、そして人形である。最初の『銅版』はプロローグになっていて、ここで六枚の銅版画が(もちろん文章で)紹介される。まず最初の三枚がセットで、タイトルは<人形狂いの奥方への使い><冬寝室><使用人の反乱>。どれも強い物語性を感じさせる絵だ。そして次の三枚セットが<痘瘡神><冬の花火><幼いラウダーデと姉>。次章『閑日』とその次の『竈の秋』で、この六枚の銅版画の物語が語られる。『閑日』は短くて比較的シンプルな<冬の花火>のエピソード、『竈の秋』は六枚全部を網羅した複雑な物語になっている。

 『閑日』が始まった途端に、常緑樹の幾何学庭園、尖塔の群れ、森の落ち葉、石像、雪、氷と詩的なイメージの数々が矢継ぎ早に繰り出される。とにかくこの人の文章は視覚的で、硬質だ。幻覚を隅々まで映し出すカメラ・アイのようだ。そのイメージはシュルレアリスムの「手術台の上のミシンと蝙蝠がさの出会い」式の「驚異的」なものというより、明確に「詩的」「抒情的」で、物語も少女とゴーストの出会いというファンタジー系である。

 『竈の秋』は本書中一番長い章で、複雑な物語が展開するが、ここまで読むと山尾悠子の重要な特色がはっきりしてくる。『銅版』『閑日』でも微妙に感じられるが、プロットが収束していかないのだ。それぞれが物語性を持った複数のプロットがあり、例えば「ゴーストを目撃した冬寝室準備の現場監督」「冬眠者の塔に忍び込む計画を立てる使用人の少年」「行方知れずになった人形の配達人」「ゴーストとの約束を守ろうとする少女」「屋敷に蔓延する痘瘡の病」などで、どれもこれも面白く広がっていきそうなネタでありながら、全然収束しない、起承転結がつかないのである。展開はするものの、はぐらかすようにあさっての方向に展開し、どんどん拡散していく。実際、ちゃんとケリがついたプロットは皆無といっていい。どんどん拡散したあげく、最後の降りしきる落ち葉のイメージの中にただ飲み込まれていく。

 劇的なシーンもたくさんあるが、展覧会で羅列されている絵のように相互の関連がゆるい。山尾悠子の物語性はおそらく視覚イメージや詩的イメージを展開するための口実、便宜なのである。プロットも、「物語イメージ」という一つのイメージとして呈示されているに過ぎない。だから、「この話どうなるの?」という興味で読み進める読者はケムに巻かれた気分になるだろう。想像力を働かせればなんとなく分かるようになっているが、明らかに「筋を追う」ことが目的の小説ではない。そしてそのせいで、つまり下手に辻褄合わせをしたり結構を整えていないせいで、山尾悠子のイメージはその濃度と鮮度、夢のような浮遊感を失わない。

 もちろんこれは山尾悠子のストーリーテリングが下手なわけではなく、意図的に、確信犯的にやってるのだ。完全に手法として確立されている。『トビアス』の章ではそれまでと打って変わって日本が舞台だが、やはり冬眠者と人形が登場し、主人公のいつきは唐突に山荘に放置される。そして、「どうしてわたしが山荘に春まで放置されることになったのか、今の私は無論すべてを知っているがそれをここで言ってみても仕方がないことのように思う」、ということで結局その経緯は語られないのである。ほとんどアクロバティックな物語の展開であり、その「ほのめかし」と「はぐらかし」のテクニックは相当なもんだ。巧緻きわまりない。

 最後の『青金石』はまたまた舞台がとんで1226年のアッシジ、聖フランチェスコの話となり、すばらしく天上的なイメージとともに、この冬眠者と人形にまつわる連作長編は幕を閉じる。本書はまれに見る純度の高い幻想小説であり、幻想絵画小説と呼びたくなるくらい、美しいビジュアル・イメージに溢れた小説である。
 


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