アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

アムステルダム

2015-03-22 22:45:52 | 
『アムステルダム』 イアン・マキューアン   ☆☆☆☆★

 再読。私が最初に読んだマキューアンの小説がこれだった。ブッカー賞受賞作品である。非常に奇妙な感触の小説で、私はこれに似た小説をちょっと他に思いつかない。一読、マキューアンという作家に大注目するに至ったし、またこんな小説を選ぶブッカー賞もなかなかやるなと思ったものだが、どうやらこの小説は(特に日本では)評価が割れているらしい。「愛」がテーマで文芸の香り濃厚な『贖罪』こそマキューアンの代表作にふさわしいのに、なんで『アムステルダム』みたいなヘンな小説が賞を獲るのか分からん、という意見を時々見かける。

 『贖罪』もいい小説なのでどっちをとるかは好みの問題だろうし、もっというと何に着目するかという視点の問題だと思うが、私はマキューアンらしさがより強烈に発揮されているという意味で、そしてまた小説芸術におけるアイロニーのありようを精緻に、そして洒脱に具現しているという意味で、あえて比較するならば『アムステルダム』に軍配を上げたい。

 最初に断っておくが、おそらくマキューアン自身にとっても『アムステルダム』より『贖罪』の方が労作だろう。長いし、力がこもっているし、気合いが入っている。『アムステルダム』はマキューアンにしてはリラックスした軽い筆致だし、本人もインタビューで答えているように、もともと冗談から始まった小説であることは明らかだ。なんといっても不マジメである。マジメに読みすぎると馬鹿にされた気分になる。しかし冗談から生まれた小説だから、力が抜けているから、半分シャレだから、作品として劣ることにはならないのが小説芸術の面白いところだ。むしろ私は、それらの理由によってこそ『アムステルダム』は実は優れた小説だと思うのである。

 小説は抒情の芸術であるよりむしろアイロニーの芸術だと看破したのはミラン・クンデラである。小説の命は(一般にそう信じられているように)感情ではなく、アイロニーなのである。もちろんそれは、小説が頭でっかちな芸術であることを意味しない。小説においてポエジーはアイロニーから生まれてくるからだ。そしてまたミラン・クンデラは、ある自作の作中人物の口を借りて「真面目な言葉が一つとしてないような小説を書きたい」とも言っている。

 不マジメが必ずしもアイロニーに直結するわけではないが、優れたアイロニーを湛えた小説は不マジメだと思われがちである。初期の筒井康隆を思い出してみればいい。「いくらなんでも、世の中には茶化してはいけないことがあるのではないか」というのが彼に対する批判の常套句だった。マキューアンは筒井康隆に似たタイプの作家である。特に初期は、タブー破り、残酷や暴力やグロテスクへの志向など共通点が多かったが、『時間のなかの子供』あたりから直接的な攻撃性は薄れ始め、その代わり社会的コンテキストの中に潜むよりデリケートなアイロニーへと形を変えていった。そしてそれが「アムステルダム」というジョークの軽やかさと結びついて、精緻な分析力だけでなく遊戯的なナンセンス性を取り込むことで見事な「不マジメさ」として結実した。私は『アムステルダム』という作品を、そのように考えている。

 従って、本書はアイロニーと遊戯性のカタマリである。ある意味、ミラン・クンデラがいう「真面目な言葉が一つとしてないような小説」に近い。いや、ストーリーはどうあれ個々の文章はマジメではないか、という人がいるかも知れないが、そのマジメなフリがもう不マジメなのである。このばかばかしい話を精緻な心理分析と的確な文体でやること自体ばかばかしいではないか。これは筋金入りの「不マジメ」小説であって、ここまでアイロニーの罠が強靭に機能している小説も珍しい。

 といってももちろん、アイロニーとは単にばかばかしいことを意味しない。『アムステルダム』は基本的にばかばかしいプロットの小説だが、ディテールの精緻さと辛辣さ、そして心理解剖の鋭さは類を見ない。本書では主に作曲家クライヴと新聞紙の編集長ヴァーノンの二人が心理解剖の対象だが、この二人の心理を分析するマキューアンの手捌きは的確きわまりない。二人は親友同士なのだが、二人が自分の仕事に賭ける情熱と互いへの関心、そして意見の相違がどのように我を忘れるほどの怒りをもたらし、理性を失わせていくか。それらが社会的コンテキストを踏まえ、クールに精緻に描かれていく。

 2人の性格設定は複合的かつリアルで、会話の切れ味はこの上なくシャープだ。ヴァーノンの特ダネ話とその顛末も実にアイロニカルで、ヴァーノン自身のみならず新聞社内部の人々、外務大臣、そしてうわべのイメージで思想を操られる大衆そのものまで皮肉っている。一見崇高な存在のように描かれている外務大臣の妻でさえ、実は皮肉られているのである。

 要するに、世論とはキッチュな映像とキャッチフレーズだけで、抒情的に決まるものなのだ。クンデラのいう「ホモ・センチメンタリス」がどのように社会のコンセンサスを形成していくか、その緻密な分析がここにある。そこに新聞社内の権謀術数までエンタメ的に絡んでくるのだからこたえられない。

 そして、世間的な成功者であり親友同士であるクライヴとヴァーノンが殺し合いに至るというこのブラックなコメディにおいて、すべての登場人物を結びつけるという意味で小説の中心点に位置しながら、最初から最後まで不在である神秘の女モリーは、まるで神のメタファーのようだ。葬式に始まり葬式に終わるという不吉なシンメトリーを含め、この小説の冷ややかな美しさを形作っている。

 辛辣なアイロニーとさまざまなレベルの遊戯性が融合し、洗練のきわみともいうべきビターな小説に結実した。『アムステルダム』は現代文学が産み落とした奇妙な果実である。



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