アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

すべての終わりの始まり

2016-10-26 22:16:35 | 
『すべての終わりの始まり』 キャロル・エムシュウィラー   ☆☆☆★

 国書刊行会「短篇小説の快楽」シリーズの一冊、キャロル・エムシュウィラーの『すべての終わりの始まり』を読了。知る人ぞ知る作家ということだが、確かにこれまでは名前すら知らなかった。アメリカの女流作家で、ネヴュラ賞を受賞していることからもSF畑の人といっていいと思うが、内容的にはカルヴィーノやボルヘスやグレイス・ペイリーと比較されるような、きわめて特異な文学性を持った作家である。正直、初めて読んだ時は途中で投げ出してしまった。今回二度目のチャレンジでようやく読み通すことができた。

 何が読みづらいかというと、まず作品世界の設定が分からない。基本はSFなので、私たちが住むこの世界とはかけ離れた架空の世界が舞台になっている。それは地球上だったり別の惑星だったりするが、地球上の場合も何かしら異様なひねりが加えてあるために、私たちの常識が通用しないわけのわからない世界へと変貌している。普通のSFだとその設定を読者に呑み込んでもらうための説明があるのだが、エムシュウィラーはそんなことはしない。まったく説明抜きで、どんどん異様な出来事が起きる。だから分からない。

 おまけに、本書収録の短編は一人称で書かれているものが多いが、この語り手=「私」が人間であるのかどうかも分からない。というか、人間ではない、何か奇怪な生き物である場合が多い。が、その説明もない。だから語り手の常識や世界観どころか、生態すら分からない。読者は今、一体どういう生物の語りを聞いているのかはっきりしないのである。

 本書の短編は大体こういう、奇怪な世界に住む奇怪な生き物が自分たちの営みを説明抜きに記述していくというスタイルで書かれている。かつ、その記述は断片的である。だから読者は手探りで、想像力をマックスに働かせながら進む以外にすべがない。今何が起きているのかすらよく分からない。どの短編も大体において、奇怪で不条理な世界の中で、「私」が奇怪で不条理な行動をとる話になっている。

 この作家の特異性を多少はイメージしていただけただろうか。この、世界とそこに棲む者たちとその営みのすべてが作者の妄想から生まれ出てきたような、世界創造者の感覚がボルヘスや山尾悠子と共通するところだが、ただし作品の雰囲気や文体はまるで違う。ボルヘスのようなバロック的、または硬質な文体ではまったくなく、最先端アメリカ文学らしいカジュアルな、くだけた、茶目っ気たっぷりの、女性的な文体である。

 それにしても、エムシュウィラーはこのユニークな創作手法を一体どうやって会得したのだろうか。きわめてオリジナルである。読者は突然わけのわからない世界に放り込まれ、そこに棲む得体の知れない生物の不親切で身勝手な語りを延々聞かされる。何もかもが不確実であり、謎めいている。必死に想像力を働かせてついていく努力をしなければ、結局さっぱりわけが分からないまま、「なんだったのこれ?」という途方に暮れる感覚だけが読後に残される。

 たとえば、自分とそっくりの容貌をしているらしい女の家に勝手に隠れ住んでいる女。女は家の持ち主の暮らしを影から観察し、時には干渉する。家の持ち主のふりをして男を呼び込んだりもする。何のために、何を思ってこんなことをしているのかさっぱり分からない。それからたとえば、ひとつの家に暮らすオールドミスの姉と妹の物語。ある時家の外に、人間の老人に似た不思議な生き物が出現すると、妹はその生き物をこっそり家に連れてきて世話をし、自分の夫にしようとする。生き物の外見を整え、姉に対しては結婚したふりをする。結構不気味な話だが、これはこの作家にしてはかなり分かりやすい部類の作品である。

 こんなものを書くにはよほど強靭で、かつ奔放な想像力が必要である。わけが分からないといってもメチャクチャではないし、ちゃんと世界観は一貫していなければならず、とても書くのが難しい小説だと思う。それに、時々わけが分からない中にも妙に想像力を刺激されるところがあり、まるで何が描いてあるのかよく分からないが目を離すことができないシュルレアリスム絵画を眺めているような気分になる。

 そんなわけで、きっとすごい作家なんだと思う。が、正直言ってわけが分からなさ過ぎてちゃんと愉しめたとは言いがたい。私の読解力が未熟なせいかも知れない。いつかまた読み返してみたいと思う。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿