アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

リップヴァンウィンクルの花嫁

2016-10-29 20:35:34 | 映画
『リップヴァンウィンクルの花嫁』 岩井俊二監督   ☆☆★

 岩井俊二監督のこれまでの集大成、大傑作、という高評価を見て日本版ブルーレイを取り寄せワクワクしながら鑑賞した。が、鑑賞の途中から「これは失敗作なんじゃ?」と思い始め、観終えた感想もかなり微妙である。岩井監督らしさがよくも悪くもはっきり出ているので、岩井監督のスタイルが好きなファンと黒木華ファン、そして綾野剛ファンは満足できるだろう。黒木華はとても美しく撮られているし、綾野剛はミステリアスでおいしい役どころである。
 
 まあ一言で言えば、少女マンガの世界だ。浮世離れしていてキレイな反面、自己陶酔的で、センチメンタルで、救いがたいほどに青臭い。ネットスラングでいえば「中二病」である。「中二病」をWikipediaで引くと具体例として「因数分解が何の役に立つのか?」と言い出す、本当の親友を探そうとする、が挙げられているが、たまたまこの二つともこの映画の中に出てくる(前者は「一次関数が実社会で何の役に立つのか」とのセリフ、後者は七海と真白の関係性そのもの)。

 その後じっくりネットで検索すると実は賛否両論入り乱れていることが分かったが、「傑作」と称賛する意見の中に、「映画を観終えた後も分からないことが多く、議論をしたくなるし、さまざまな解釈ができるので傑作」というのがあった。これにはちょっと違和感があるので書いておきたい。確かにいい映画は色々な解釈ができるものだが、逆に、色々な解釈ができれば即ちいい映画ということにはならない。もしそうなら、プロットが穴だらけだったり不整合や辻褄が合わないところがある映画がいい映画、ということになってしまう。こういう話で思い出すのは森田芳光監督の世紀の大駄作『模倣犯』で、あれも「ストーリーに秘められた22の謎!」などと言ってDVDで宣伝していたのを思い出すが、いくら記号のようにわざとらしい「謎」をストーリーに埋め込んでも、それで傑作にはならないのである。映画はクロスワードパズルではない。映画の力はそんな理屈っぽい「解釈」にではなく、観客の無意識をどこまで呪縛できるかにかかっている。

 私がこの映画を弱いと感じた理由はいくつかある。問題その1。前半のリアリズム部分と後半のファンタジー部分の混合がうまくいっていないため、映画全体のトーンが混乱している。トーンが混乱すると、当然作品の力は弱くなる。ミラン・クンデラが言うようにフィクションではどんな非現実的な設定をしてもいいが、冒頭で作者と観客はリアリズムの扱いについて(意識的にせよ無意識的にせよ)契約を結ぶ。あとで作者がその契約にそむくと、観客は裏切られた気分になり、夢から醒めたような「興ざめ」の感覚がもたらされる。だからトーンの統一は重要なのだ。

 問題その2。主人公の七海(黒木華)は非常に自主性と意思に欠ける女性で、ほとんど痴呆者である。言われるがままに「はい」「そうですか」と誰の言いなりにでもなる。知らない男に呼ばれてホテルの一室に入り、レイプされそうな危機的状況で自らシャワーを浴びる。結婚相手の母親に離婚させられて泣くが、両親の離婚を隠したりニセ親族を使ったのは誰でもない自分であり、義母が「あなたのことが気持ち悪い」というのも、部分的にはうなずける。嘘つき女と言われてもしかたがない。

 これは彼女が卑劣な人間だからではなく、ただ内向的だから、ということのようだが、あまりに行き過ぎている。携帯電話の向こうにいる安室(綾野剛)に「ここどこですか?」と尋ねるに至り、ほぼ私の感情移入は不可能になった。そこで、きっとこれはアイロニーなのだろうと思って観続けたが、どうやらこのキャラ設定はアイロニーではない。七海は特に自分の愚かさの対価を払わないまま、現実復帰する(洋館で真白と遊んでいればひと月100万円もらえるという楽ちんな仕事を得た七海は日々楽しく暮らし、真白の死をきっかけに社会復帰するが、あれで何かが変わるほど現実は甘くないだろう)。七海の愚かさは何ら批評の対象になることなく、ただなし崩しに容認される、あるいは忘れ去られる。だからドラマの展開が、表面的にはどうあれ、心理面でぐだぐだに感じられる。

 問題その3。後半のファンタジー部分でリアリズムの扱いが杜撰になるのは先に書いた通りだが、加えてストーリーから内容がなくなり、プロモーションビデオをつないだだけのように薄っぺらな場面の連続になる。確かに映像はとても美しい。ヨーロッパ風の広壮な洋館にメイド服を着た七海と真白が住み、水槽には透明がクラゲが泳ぎ、庭に水を撒き、花火をし、最後に二人はウェディングドレスを着てダンスをする。岩井監督のコスプレ趣味全開で、黒木華ファンはハッピーだろうし、この映像に陶酔する人の気持ちも分からないじゃないが、やっぱり映画であるからにはビジュアルがきれいなだけではつまらない。私を含む多くの観客は、このパートで退屈することになるだろう。

 この映画のクライマックスは七海と真白がウェディングドレスを着てワインを飲んだり踊ったりするシーンと、それに続く二人の「結婚式」のシーンで、美術から音楽から映像から岩井監督が力を入れていることがよく分かるが、ここまでの物語が弱い(というか、七海と真白の関係性についての物語はないに等しい)ために空回りしている。二人がダンスするシーンは『花とアリス』のクライマックスでアリスが踊るシーンを思い出させるが、それまでの数々のエピソードのポエジーがその一点に集中して溢れ出す『花とアリス』に比べ、その内容の薄さ、弱さは歴然である。

 そして問題その4。これが最大の問題だが、物語の根底に横たわる感性と世界観が致命的に青臭い。ダンスシーンのあと、二人はウェディングドレスを着たままベッドに横たわり、真白は自分の胸中を七海に打ち明ける。いわく、自分の幸福のリミットは他の人より小さい、私なんかのためにコンビニで商品を袋に詰めたり、宅配便を運んでくれるのを見ると申し訳なくなる、人の真心を直視すると壊れてしまう、だからお金を払ってやってもらった方が楽だ。彼女はコンビニや宅配便ではお金を払わないんだろうか、という意地悪なツッコミはさて置き、この独白はまさに最初に書いたような少女マンガ的自己陶酔と感傷癖の凝固物である。観客の多くは聞いていて恥ずかしくなるんじゃないかと思うが、どうだろうか。

 これは感受性が強いとか敏感とかいうより、未熟であり不健全というものである。その証拠に、そんなことを言っていた真白がいきなり七海に「一緒に死んでくれる?」なんてあまりにも図々しいお願いをする。まともなおとななら「んなわけねーだろこのタコ!」と返すべきところ、真白は「いいよ」なんて答え、それが特別な友情の証になったということで真白は幸福に死んでいき、七海は殺されずにすむ。まさに、親友が失恋したと言って連れ添い自殺をする女子中学生のメンタルである。正直、一緒に死んであげられるのが麗しい友情の証、なんて価値観にはついていけない。これで完全に白けてしまった。

 その他、ネットで恋人探し、披露宴の親族代行業、別れさせ屋、AV女優、などというトピックが色々盛り込まれているのが「現代の空気」を切り取っている、ということらしいが、そんな「あるある感」は日本に住んでない私には分からないし、そもそも映画にとっては飾りでしかないことだ。映画の骨格を作る物語とキャラクターと世界観が浅く、幼かったら、いくら細かいところで飾り立てても力が弱くなるのは当然である。

 全体的には、岩井俊二の趣味性がよくも悪くも全開になった映画であり、青臭い感傷癖とプロモーションビデオ的映像がミックスされたような、脆弱な作品だと言わざるを得ない。ただしもちろん、良いところがまるでないというわけではなく、先に書いたように映像は美しいし、素材としての役者の魅力はかなり引き出していて、部分的には岩井監督らしいヒリヒリした空気感も感じられる。岩井監督自身はインタビューで「やんちゃな映画を作ったという感じがする」と言っているが、あまり考えずに好きに作ったら、なんかデコボコした作品ができちゃったということじゃないかと思う。



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