アブソリュート・エゴ・レビュー

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国盗り物語

2014-12-27 20:20:59 | 
『国盗り物語(一・二・三・四)』 司馬遼太郎   ☆☆☆☆☆


 『関ヶ原』『城塞』と来て、今度は『国盗り物語』である。時間を遡って織田信長の時代に行ったわけだ。正確に言うと、この『国盗り物語』は斉藤道三篇、織田信長篇の二部に分かれている。斉藤道三はマムシと呼ばれ、油商人でありながら美濃の支配者となった風変わりな人物で、物語はまず彼が乞食同然の身から立身するまでを描き、次に、いわば彼の志を継ぐものとして織田信長、明智光秀の二人を描く。この二人は天下統一という同じ夢を見、それぞれに傑出した資質を持ち、しかしながら対照的な人生を歩み、最後にはもちろん誰もが知っているように本能寺でぶつかり合い、その結果二人とも滅んでしまう。なんという因果か、そして宿命か。

 ある意味、日本の歴史上もっともドラマティックな事件ともいえる「本能寺の変」をクライマックスに持ち、司馬遼太郎の周到な構想に支えられた本書は、傑作となることがあらかじめ定められていた小説と言っていいかも知れない。事実、本書は司馬遼太郎の代表作の一つとなった。読者は壮大な物語絵巻と人間ドラマを堪能できるだろう。

 司馬遼太郎が人間の「器量」というものをいかに巧みに描き出すかは『関ヶ原』『城塞』の項でさんざん書いたので、もう繰り返さない。本書を読んで感じたのはそれに加え、家康その他『関ヶ原』『城塞』に登場する数々の天下人たちとはまったく異なるタイプのヒーロー像を、次々と、融通無碍に造り出す司馬遼太郎の筆力の冴えである。斉藤道三はすさまじい知略と人間力で美濃一国を盗ってしまった桁外れの男だが、これまで読んできた司馬遼太郎作品のどんなキャラにも似ていない。人間は一人一人違うのだから当たり前だと言われるかも知れないが、それが出来る作家がどれだけいるだろうか。似たようなポジションのキャラはみんな似てしまっていないだろうか。それからまた、歴史上実在した人物を題材にしているのだから当然だと言う人には、それらを血肉をもった人間像として読者の眼前に描き出してみせるのは、これまた並大抵の技ではないと反論しておこう。

 道三篇の読みどころはもちろん道三がどうやってのし上がっていくかだが、この男の奇妙な、あるいは奇怪とすら言える性格、そしてことをなすに当たっての尋常ならざるアプローチにはまったくぎょっとさせられる。女一人落とすにもとんでもない策略と演技と機動力を駆使するのである。それに乞食から豪商、そして一国の主にのし上がっていくという立身出世のすごさだけでなく、なぜ商人になるのか、なぜ武士になるのか、というディシジョン・メイキングが並外れている。ある意味とことん合理的で、慣習や世間体や先入観にまったくとらわれない性格のようだ。作者はこの男を「いくつもの人生を生きた男」という見方で捉えているが、本当にこんな奴がいたのだろうかと驚嘆するような人物である。

 とにかく知略に秀でている道三だが、それ以上に優れているのはおそらく他人への影響力、説得力ではないだろうか。作者も何度か言及しているが、他の誰かがやったら顰蹙を買うようなことでも彼がやるとなぜか許される、という局面があちこちで出来する。これは何なのだろう。いつも腹の中に企みがあるが、にもかかわらず陰湿でない。これが人間力というものかも知れない。

 それにしても凄い人生である。サムライと商人という二つの人生を生きた(文字通り、家も妻も二つある)道三がついに人生の終わりに差し掛かり、天下統一の夢を諦め、油商人であった人生を捨て、自分を長年支えてきた愛するおまあの方と決別する場面は、圧巻の一言だ。彼が山の上から町を見下ろす場面では、読者も彼につられて万感の思いがこみ上げてくる。

 そして、信長の登場。若き日の信長は「たわけ殿」と呼ばれ、あれは馬鹿だ、あれが継いだら家は滅びると誰もが言うが、道三だけは彼の資質を見抜く。そして「今にみんなあの男の門前に馬をつなぐことになるだろう」と予言する。これが実話かどうか知らないが、信長が道三の危機に駆けつけようとしたり、二人の間に何か特別な交感があったというのはおそらく本当だろう。

 ともあれ、こうして主役が交代し「信長篇」が始まるが、「信長篇」の実質的な主役は信長というより明智光秀である。信長は天才肌であり、常に他人の目に映る信長として描写される。彼自身の心理に分け入っていくような描き方はされない。さすがの司馬遼太郎にとってもこの天才の心理解剖は荷が重かったのか、あるいはその天才性を際立たせるためにあえてこういう手法を採ったのかは分からないが、これによって信長は常にミステリアスな存在として現れる。何を考えているのか分からない。一方、光秀の心理は精密に描写される。光秀は優秀な人間で、一面では信長に匹敵する能力も持ちながら、内面は(少なくとも本書においては)普通人であり、だから読者は彼には容易に感情移入できる。彼は、最初は自分の方が信長より上、と自負しているが、だんだんと信長の、過去の慣習や先入観にまったく捉われない斬新な発想力に圧倒されるようになっていく。

 そして信長の家来になってからは、ますます鬱屈する。かつては内心ライバルと目していた人物に仕える身となり、しかも、その人物から人を人とも思わない粗雑な扱いを受ける。プライドは傷つく。悩む。そのうち主人を怖れるようになる。この頃になるともう人間の器の違いは明らかで、劣等感は更に亢進する。これはつらい。企業や何らかの組織で働いている人ならば、このつらさはよく分かるはずだ。

 この信長と光秀が、道三が天下統一の夢を託した後継者という因縁で結ばれているというのが作者の構想だけれども、それを感情の面からも裏付けるのが、お濃の方の存在である。お濃の方は道三の娘だが、光秀とは幼馴染で、なんとなくお互いに想いあっている仲だった。しかしお濃の方は「たわけ殿」と言われる信長に嫁がされる。光秀はこのことを決して忘れないし、信長も薄々それを知っている。因縁である。どこまで事実でどこまで創作か知らないが、こういうディテールが物語を膨らませ、情感を増していくんだなあ。

 こうして物語は道三の後継者二人、いうなれば二人の精神的な「息子」の宿命的な対立を深めていくのだが、終盤の、光秀の精神的な追い詰められ方はもう本当にかわいそうである。煎じ詰めれば、これは信長の怪物性と普通人の光秀のギャップが招いた悲劇といっていいだろう。光秀の悩みはまるでブラック企業で働く社員のようで、マジメに考えれば考えるほど追い詰められていく。しかも同僚には、秀吉みたいにうまいこと身を処しながら上司の無理難題をヘラヘラはぐらかしつつ生きていける奴がいるから、余計つらい。そして物語は運命の本能寺へと、押しとどめようもなく収斂してゆく。

 しかしこれを読むと、明智光秀は天下人の器じゃなかった、ということに尽きる。このレベルになると、もう優秀だとか頭が良いとか、そういうことではないのだ。最終的には精神的なタフさである。細かい事は気にしない、人の感情も踏みにじって平気、そういう人間でないとダメなようだ。それと強運。天下人となるには本人の能力や器量だけではダメで、絶対に強運が必要だと司馬遼太郎は書いている。実際、信長の尋常でない強運を示すエピソードとして、近くから銃の名手に狙撃されたが数センチの差で助かったというものから有名な武田信玄の病死まで、いくつか出てくる。光秀も最終的には、信長の強運を見て彼の家来になることを決心するのである。

 しかしその強運の持ち主、織田信長も、本能寺で思わぬ最期を遂げる。人の世は無常である。

 それにしても、道三の二つの分身たる信長と光秀が潰しあう宿命にあったことは、歴史の皮肉と悲劇を感じさせてなんとも哀れだ。道三に始まり、信長と光秀に分岐し、互いに潰しあい、成就する直前で消えていった戦国の夢、天下統一。もちろん、秀吉がその後を引き継ぐのである。そうした絢爛たる物語の面白さに加え、矛盾をはらんだ人間というものを縦横に描いて圧巻の、この『国盗り物語』。やはり大傑作である。
 


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