アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

七人の侍(その2)

2007-11-18 13:49:16 | 映画
(昨日の続き)

 そして三船敏郎演じる菊千代が登場する。この菊千代は他の6人とはまったく違うキャラクターで、百姓でもない、野武士でもない、正確には侍でもない、しかしそのどれもの要素を持ち合わせているような、この物語の中で唯一無二の存在である。彼は登場したその瞬間から常に、侍というものに対するアンチテーゼであり続ける。この映画が侍という存在の素晴らしさを描きつつ、決して能天気な侍賛美映画になっていないのは彼のおかげだ。彼のキャラクターの重要性は他の6人の侍全員に匹敵するし、菊千代がいなかったらこの映画の魅力は大幅にダウンしてしまうだろう。
 
 侍が村に到着してからの第二部、重大な危機が訪れる。落ち武者狩りの獲物(槍とか鎧とか)が見つかるのだ。つまりこの村の連中は、いくさで疲弊した侍を殺して身ぐるみをはぐという行為を行っていたわけだ。侍は全員が憮然とし、久蔵は「おれはこの村の奴らが斬りたくなった」と呟く。なんと、可哀想な被害者とそれを助ける侍、という、この映画がよって立つところの基本図式が崩壊してしまうのである。ところがこの時、菊千代が侍達に向かって狂ったように笑い、わめき始める。「お前達、百姓を何だと思ってたんだ。仏サマだとでも思ってたか!」そして彼は百姓ほど残酷でずる賢い生き物はない、でも百姓をそうしたのは侍だ、そうしなければ百姓は生きていけないのだ、百姓は一体どうしたらいいんだ、と叫ぶ。侍達はその非難を無言のうちに受け入れ、その問題はそれ以降口にされることはない。

 しかしこれは物語の重大な転換である。それまでは確かに可哀想な百姓、それを助けようとする英雄的な侍、という図式だったが、百姓達が侍を殺していたことが分かり、彼らは状況次第で侍の敵、加害者になる存在であることが分かった。この時点でもう、侍達が百姓を救おうとする意味は失われている。モチベーションの喪失である。久蔵のセリフがそれを表している。侍達が「もうやーめた」と言って村を引き上げても全然おかしくない。が、侍達はそうせず、引き続き百姓達を救うために命をかける。つまり彼らはこれ以降、理由もなく百姓を助けるのである。

 この映画の重要なテーマの一つとして「英雄的行為とは何か」という問いがあると思われるが、侍達の行為が真にヒロイックなものとなるのはここからだ。つまり、単に「地位や恩賞と縁がない」だけでなく、「可哀想な百姓達を救う」という自己満足すらなくなってしまう。それどころか、百姓たちは落ち武者狩りで侍を殺したことがあり、6人の侍達がほぼ全員落ち武者狩りで百姓に追われた経験があることが暗示されているので、つまり、彼らはいわば自分を殺そうとした百姓達を命をかけて救う、という行為に携わることになる。まるでイエス・キリスト的な自己犠牲行為だが、しかし彼らは「汝の敵を愛せ」的道徳感でこれを行うのではない。自分の中にある「サムライ」の倫理にしたがっているのだ。自分で自分に課した「使命」をあくまでやりぬく矜持である。彼らの行為はもはや恩賞のためでも名誉のためでも百姓への同情のためでもない、いってみれば彼ら自身の実存的理由のためになるのであって、そこのところは『生きる』の主人公と似ている。この映画はそこに真のヒロイックな行為、つまり人間の行為の崇高さを見出しているように思える。

 さて、この第二部では他にも引き払うことを命じられた離れ屋の住民が侍達に叛旗を翻したり、さまざまな問題が提起される。黒澤明は都合の良い要素だけ抜き出して物語を構成したりせず、いくさというものの持つあらゆる側面に真摯に向き合っていく。この映画の豊穣さ、壮大さの基本はそこにある。それから村の四方がそれぞれ検討され、野武士をどう防ぐかが具体的に論じられる。それは柵を作ったり田に水を引いたりという技術論から、百姓にどう戦わせるかという精神論までカヴァーされている。この戦略的アプローチはもちろん『姿三四郎』以来の黒澤映画の特徴だが、そういう意味での知的な面白さもたっぷり味わえる。

 そしてついに野武士が現れ、いくさに突入する。ここでも勘兵衛は緻密な戦略を展開する。まず柵や堀で村の三方は厳重に防御し、裏山の森に敵を集めて勝負する。しかも槍ぶすまを利用して一騎ずつ村に通し、敵の数を減らしていく。作戦は図に当たり、野武士の油断もあっていくさは村有利で進むが、持ち場を離れた菊千代のせいで野武士に攻め込まれ、結果的に五郎兵衛を失ったりして戦局は混乱していく。百姓にも疲れが出てくるし、野武士も必死になってくる。そして土砂降りの中、最後の決戦となる。

 この最後の決戦の迫力はもう言語を絶している。黒澤監督が土砂降りの迫力を増すために雨に墨汁をまぜたとか、役者達は半裸だが実際は雪が降る厳寒の中で凍えながら撮影したとか色んな伝説があるが、もうこのモノクロ画面の迫力は圧倒的というしかない。地面に突き刺した刀をとっかえひっかえしながら馬上の野武士に斬りつける菊千代。土砂降りの中斬られて落馬し、地面を引きずられていく野武士。野武士を斬って疲労のあまり膝をつき、それでもよろけながら走り出す勝四郎と利吉。

 世の傑作と言われる映画でも、クライマックスが物足りないというものは多い。というか映画全体が面白い傑作ほど、そこまでの展開の面白さをクライマックスが超えきれず、ちょっと拍子抜けに思えるものは結構ある。しかしこの『七人の侍』は違う。ここまでの重厚長大、雄渾壮麗な一大叙事詩を締めくくるにふさわしい、真のクライマックスが訪れる。

 熾烈な戦闘のさなか、野武士の頭領が鉄砲を持って女たちの小屋に侵入するが、侍たちはそれに気づかない。戦闘に一段落つき、「よくやった!」と勘兵衛が声をかける。そこで銃声一つ。久蔵が倒れる。7人の侍たちの中でもっとも優れた剣客であった久蔵が。勝四郎が悲鳴のような泣き声を上げながら駆けつける。彼はそれまで平八や五郎兵衛がやられても取り乱すことはなかったのに、久蔵の遺体に取りすがり、まるで赤ん坊のような泣き声をあげて泣く。これまでの物語で、彼はこの厳しくも優しい剣客に心から敬愛の情を抱いていたからだ(そしてそれはおそらく観客も同じだ)。「ひけひけっ!」と必死に叫ぶ勘兵衛。ところが菊千代が頭領の潜む小屋に突進していく。そしてもう一発の銃声。菊千代が膝をつく。凍りついたような沈黙の中に、雨音だけが響く。菊千代は最期の力を振り絞って立ち上がり、頭領を斬り、橋の上に倒れる。そして、二度と動かない。勝四郎は刀を振り回しながら狂ったように叫ぶ「野武士は! 野武士はー!」そこへ勘兵衛の一言。「野武士はもうおらん!」もうみんな死んでしまったのである。勝四郎は膝をつき、激しく慟哭する。おそらくは生まれて初めて、いくさにおける死の非情さを知った少年剣士は自分の中に荒れ狂う激情をどうすることもできない。激情にまかせて敵を斬りたくなった時には、もう敵はいないのである。彼の慟哭はまさに血を吐くような慟哭であり、いくさの無常さ、無意味さ、残酷さ、そして崇高さのすべてが込められた、まさにクライマックスを締めくくるにふさわしい重さを持った慟哭である。

 というわけで、この映画の結末で二人の重要なキャラクターが死ぬ。久蔵と菊千代である。久蔵はもっとも侍らしいストイックな剣客だったし、菊千代はもっとも愛すべきキャラクターだった。この二人の死は、観客を激しく動揺させずにはおかない。けれどもそれらの死はなんとあっけないことだろう。銃声一つ。倒れる。そしてもう二度と動かない。勝四郎と同じく、観客も一瞬「ええっ、嘘だろう!?」と思う。自分が愛している人間がこんなにあっけなく失われてしまうことが信じられないからだ。だから凡百の感傷的な映画の中で、重要な人物はなかなか死なない。撃たれて倒れた後、愛する人が駆け寄って抱き起こすと、彼は何か心のこもった言葉を口にする。それまでのすべての誤解を解き、すべてのいさかいを水に流し、人生を完結させるような感動的な言葉を。言いたいことは全部言い、すべての問題が解決されたあとで、ようやく彼はがくりを首を落として絶命する。なぜならば、そうでもしないと死が耐え難くなってしまうからである。私達は、人が死ぬときはこうであって欲しいと願っている。しかし現実の死はそんな都合の良いものじゃない。言われなかった言葉は言われないまま、別れの言葉を交わすこともできない。あまりにも不条理に、非情に、ある人生がある一瞬で断ち切られてしまう。この映画の中では、人はまさにそのように死ぬのである。

 エピローグ。春の陽気の中で、百姓達が田植えをしている。音楽が鳴り、みんな楽しそうだ。生き残った三人の侍はそれを離れたところから眺めている。侍たちが、なんとなく百姓たちから煙たがられているのが分かる。そこで勘兵衛が、例のあまりにも有名なセリフを言う。「今度もまた、負けいくさだったな」「え?」「勝ったのはあの百姓たちだ。わしたちではない」そして丘の上の四つの墓(死んだ侍達のもの)がアップになり、この一大叙事詩は幕を下ろす。

 このセリフには色々と論議があるようで、ない方が良かったという意見もあるようだ。表面的に考えると、侍は4人の戦死者を出して村を救った、けれども百姓はその侍に充分に感謝をせず、むしろ煙たがっている。死人まで出して何も得るところのなかった侍は負けで、侍を利用して村を守った百姓の勝ち、という風に解釈できる。公開当時、「この映画で黒澤は農民は救うに値しないと言った」という批評家もいたらしい。しかし本当にそうだろうか? だとしたら、死んだ四人は無駄死にだったことになる。感謝されると思ってがんばったのに、あてが外れてがっかりというしょぼい結末だ。しかし最後に四人の墓がアップになり、何かを讃えるような高らかな音楽とともに映画が終わっていくシーンでは、明らかに違う何かが訴えられている。この映画は違うことを言おうとしている。

 先に書いたように、落ち武者狩りがバレた時点でこの百姓達が「侍を殺す」連中であることは分かっている。この連中は、侍たちの観点からすれば「救うに値しない」のである。その瞬間から、勘兵衛達の行為は完全に無償のものとなった。彼らは何か違うもののために戦ったのである。その勘兵衛が百姓の感謝が不十分だったからといって落胆するとは思えない。私には、勘兵衛がどこか百姓たちを羨んでいるように聞こえる。百姓達にとっていくさは非日常である。戦いが終わり、これから彼らの本当の生活が始まるわけだ。田植えをし、歌を歌う百姓達はとても幸福そうだ。しかし勘兵衛達はどうか。彼らは戦士であり、いくさが本領だ。いくさが終わると厄介者でしかない。しかしいくさがもたらすのは死であり、喪失である。丘の上の墓がそれを示している。侍は戦士であり、気高く戦うが、戦いは空しい。戦いが意味を持つのは、守るもの(田植えや、収穫や、歌や、日常生活)、自分が根をはって生きる場所があればこそである。勘兵衛達にはそれがない。だからこそ、守りたいものを守りきった百姓たちの「勝ち」なのである。

 そういう意味では、浪人である彼らのいくさはいかなるいくさも「負けいくさ」なのかも知れない。けれども、だからこそ彼らの行為は気高い。最後の墓のアップから伝わってくるのはそれだ。彼らのヒロイズムの崇高さである。たとえば剣客・久蔵は己れをたたき上げることのみに心血を注ぎ、あそこまでの腕になった。しかしその剣技はどこの殿様に賞賛されるでもなく、武士たちに語り継がれるでもなく、百姓たちを守るためのいくさで失われてしまった。しかも、当の百姓たちでさえろくに感謝していない。しかし彼の死は無駄ではない。春になって百姓たちが歌を歌い、田植えを始める、その生活を守ったのは彼らであり、感謝されようがされまいがその事実に変わりはない。

 黒澤明は戦国時代に放浪しながら修行していた侍の生活を調べている時、ある農村を守って戦った侍がいたと聞き、そこからこの映画のアイデアを得たというが、彼が「農村を守って戦った侍」と聞いた時に感じただろうある種の驚きと感動が、この墓がアップになるラストシーンで私達に伝わってくるものなのだろうと思う。

 というわけで、この映画についての話は尽きないがこのへんで止めておく。もしあなたがこの映画をまだ観たことがないとしたら、あなたは何と可哀想な人だろうか。これから観ることのできるあなたが羨ましい、とは言わない。なぜならこの映画は、観るたびに前と同じかそれ以上の感動を与えてくれる、類稀な映画の一つだからである。



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9 コメント

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Unknown (kos)
2012-08-14 19:11:51
すばらしいレビューでした。このレビューを胸にもう一度『七人の侍』を見返したいと思います
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me too! (sugar mom)
2012-08-16 10:04:12
黒澤作品のベストワンを選べと言われたら、僅差で「七人の侍」を抑えて「わが青春に悔いなし」を選んできました。
でも、このレビューを読んで、やっぱり「七人の侍」か、と思いなおしました。
ここまで深く解釈して書かれた批評は読んだことがありませんでした。

インターネットの普及で、北米に住む見も知らない人の孤高な批評を読めるようになったことは、幸甚の至りです。
昔なら、キネマ旬報読者にでもならないかぎり、この手の文章に出会うことはまずなかった。

私ももう一度、見返したいと思います。
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七人の侍 (ego_dance)
2012-08-17 10:29:13
過分なお褒めにあずかり恐縮です。それだけ思い入れが強いということでしょう。観るたびに圧倒される、というか叩きのめされたような気分になる映画です。このレビューが見返してもらうきっかけになれば嬉しいです。
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お願いがあります (sugar mom)
2012-08-18 05:48:42
このレビューに出会ったことは、「七人の侍」を見ることが出来たことと同じくらいラッキーなことでした。
佐藤忠雄の「黒澤明論」以上に、われわれ日本人がいかにすぐれた映画財産を持ち得ているか、それをこれほど丁寧にひも解いてくれる批評です。
私はお世辞は言わない人間です。

で、お願いがあります。
この一連の「七人の侍」レビューと「フリッカー あるいは映画の魔」のレビューに、私のブログとリンクさせていただいてもよろしいでしょうか?
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よろしくお願いします (ego_dance)
2012-08-19 09:52:26
ありがとうございます。
もちろん、リンクいただいて結構です。こちらこそよろしくお願いします。
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見ました (sugar mom.)
2012-08-20 21:22:25
十数年ぶりに見直しました。
侍集めのシーンの面白さは、他に類を見ない。
でも、五郎兵衛の登場からはじまり、勘兵衛の片腕となって活躍するシーンでは、涙が出てしまいます。
これほどの人物が、やがて戦死してしまうことを知っているからです。
「私は報償よりも、そなたの人柄に惚れて、ついていこうと思った次第である」
そういう台詞や感慨を、生涯のうちに何人に対して思えるか、一度でもそういう機会があれば、幸せなことだと思います。

ただ、これほどの名作を世に送り出した黒澤明に、映画製作がままならなかった時代や会社からの圧力があったこと、また自殺未遂のことを思うと、今の日本映画界のぬるま湯のような製作現場を黒澤が見たらなんというだろうと思います。

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稲葉義男 (ego_dance)
2012-08-25 11:45:17
五郎兵衛を演じた稲葉義男さんは実は結構気が小さい方で、撮影中はいつクビになるかとビクビクしながら演じていた、という話をどこかで読みました。映画を観ていると、とてもそうは思えませんが。
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無題 (iten)
2012-10-09 12:57:15
戦は麦刈りが終わった直後。
ラストシーンが田植えですから
勘兵衛達は戦が終わってすぐ村をたったわけではないようです。
彼らが煙たがれてたら、すぐ出立してたと思うのですが。
いかがでしょう。
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Unknown (ego_dance)
2012-10-11 11:49:15
勘兵衛達はしばらく村に滞在していると思います。恩人である彼らを村人は引き止めるでしょうし、勘兵衛達もそれを無下にするわけもいかず滞在する、というのは自然な流れです。一方で、侍たちと村人の間に微妙な距感感が生じるというのもまた、あり得ることだと思います。「煙たがる」といっても露骨なものではなく、あくまでグレーなものでしょう。
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