アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

午後四時の男

2010-03-09 19:16:55 | 
『午後四時の男』 アメリー・ノートン   ☆☆☆☆

 一気読み読了。かなり奇妙な小説だ。不条理小説のようでもあり、ダーク・ファンタジーのようでもあり、ブラックなコメディのようでもあるが、どれとも微妙に違う。いわくいいがたい。アクが強くて好みは分かれると思うが、好みのタイプの小説だった。

 主人公の老夫婦は平和な隠居生活を送るため田舎に引っ越す。家も環境も申し分ない。ある日、午後四時に隣人が訪ねてくる。隣人は無口で、話しかけても最小限の答えしか返さず、あとは黙って座っているだけだ。礼儀として挨拶に来たんだろう、と「わたし」は考える。これでもう二度とやってこないだろう、と。ところが隣人は翌日もやってくる。そしてまったく同じようにむっつりと椅子に座り続ける。「わたし」は戸惑いながらも礼儀正しく応対する。さらに翌日、四時になるとまた隣人はやってくる。こうして毎日、四時になるとこの隣人はやってきて「わたし」たち夫婦の居間のソファーを占有するのである。用事もなく、ろくすっぽ喋りもしないのに。

 奇怪な状況である。本書はこの隣人が何の目的でこういう行動を取っているかという謎がだんだん解き明かされていくミステリ、などでは全然ない。そもそもこの隣人の行動は想像を絶していて、何かの誤解だったとか思い違いだったとか、そういうレベルの話ではない。「わたし」は隣人を避けようとして、当然誰もが考えるであろう方法をとる。たとえばその時間外出するとか、居留守を使うとか。その都度、この隣人はありえないリアクションをする。私はこの小説を読んでいて筒井康隆の短篇『走る取的』を思い出した。

 やがて、あるきっかけで隣人は夫人を連れてやってくる。この場面でまたしても小説は別の次元へワープする。完全な非現実の世界になるのである。彼女はほとんど異生物だ。この夫人の描写からは私はとり・みきのマンガに出てくる粘菌状の生物を思い出した。グロテスクであり、滑稽でもあり、まったく読んでいてあっけにとられてしまう。「わたし」は後に隣人の行動を理解した気になり、妻に説明するが、あの解釈が当たっているかどうか不明だし、どっちかというと外れているように思える。この隣人夫婦はまるで不可知性の塊のようだ。

 結局、自分のことは分からない、というのが本書のテーマなのだろうか。そうするとこの不可解な隣人夫婦は、自分の中の不可知性が外界に投影された存在なのか?

 かなり不思議で、さまざまなニュアンスに富んだ小説である。グロテスクで残酷だが、冒頭の「わたし」たち夫婦の描写などはおとぎ話的な、しみじみした優しさに満ちている。それにシェークスピアからボルヘス、キケロまで縦横無尽に引用してストーリーに奥行きを与えていく腕前は見事だ。物語の展開もユニークで先が読めない。ただ、そのせいか読後感は軽い。それともこれは私が一気読みをしたせいだろうか。
 


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