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『予告された殺人の記録』 ガブリエル・ガルシア=マルケス ☆☆☆☆☆
再読。疑問の余地なく、マルケス作品中最良のものの一つである。マルケスはこれを自身の最高傑作と呼んでいるらしいが、そう言われてもまったく違和感はない。不朽の名作である。
『百年の孤独』のあのめくるめく神話的な語り、途方もない幻想的な事件が頻出するマジックリアリズムとは明らかに異質な、ジャーナリスティックで端正な語り口が採用されている。もともとマルケスはジャーナリストとして出発した作家なので別におかしくはないのだが、あのとめどもない饒舌体の印象が強いと最初は戸惑うかも知れない。超現実的な事件がどんどん起きるということもない。全体に、ぐっと抑制されている。が、だからいわゆる普通のリアリズム小説かというとそうでもない。ここで描かれる事件は実に奇怪で、物理的に可能とはいえ実際は超現実的というにふさわしい、現実離れした出来事だ。魔術的であり、儀式的である。暗合や象徴、前兆、不条理に満ちている。ところがこれは実際に起きた事件がモデルになっているのだ。その戦慄が読者を呪縛する。
また、代表作の『百年の孤独』や『族長の秋』に比べればいかにも短いが、それはノーベル賞作家であり、20世紀文学に豊穣な物語を復権させた文学的巨人マルケスがもてる技量を凝縮し、結晶させた結果の短さなのである。どんな長編よりも濃厚で、しかもアクロバティックなまでの技巧が凝らされている。時間、空間がモザイクのように自在に組み合わされ、ジャーナリスティックな語り口と神話的な語り口が融合する。
さらに、文学的な仕掛け云々以前に話が面白い。マルケスの圧倒的ストーリーテリングを堪能できる。特に、それまで悠然と進んできた語りが一気に加速する終盤がすごい。それまでの構成から、サンティアゴ・ナサールの殺害場面がクライマックスに来ることは予想できるのだが、この決定的瞬間に向かって突き進むストーリーテリングが加速を始めたが最後、読者はもう本を置くことができなくなる。
それにしても、最後の章でマルケスが読者をハラハラさせる巧みさはスティーヴン・キング並みだ。サンティアゴ・ナサールの親族たちは何とかして彼を救おうと色んな行動をとるのだが、それらの行動の一つ一つが見事に裏目に出て、この青年を避けがたい死の方へと押し流していく。特に、母親がわが子を救おうとしてとった行動がとどめとなってしまうのがなんとも皮肉だ。思わず「ああー!」と声を上げそうになる。
訳者のあとがきにあるように、この物語は外からやってきた客(花婿)、共同体の生贄(花嫁)、面目の失墜(花嫁が家へ戻される)、そして名誉の回復(殺人)、という象徴的儀式としても読める。冠婚葬祭の華やかさや法王の到来がもたらす祝祭的雰囲気が横溢し、物語に無意識に浸透していくような夢幻的色彩を与える。訳者は他にも、サンティアゴ・ナサールの二重言語者としてのアイデンティティの問題、共同体の中の差別や憎悪、民族的対立、あるいは母権的社会などさまざまなテーマが盛り込まれていることを指摘している。これらのテーマがモザイクのように組み合わさり、このシンプルな物語に、万華鏡のような素晴らしい複合性を与えている。どの角度からどのような切り口で入っても、重層的で奥が深い。
またこの短い物語の中に、さまざまな物語の萌芽がたくさん含まれている。それはたとえば、外からやってきた男バヤルド・サン・ロマンのミステリアスな過去、あるいは花嫁アンヘラ・ビカリオの陵辱の真相、数十年後に再会する二人のそれからの物語、殺人者である人兄弟の物語、ナサール家で働く母娘の物語、「わたし」自身の物語、などである。それはどこまでも膨らんでいきそうな予感をはらみながら、最低限にしか触れられていないか、あるいは謎のままにとどまっている。こうした物語の萌芽が惜しげもなくちりばめらていることが、この短い物語の驚くべき豊穣さにつながっているのは間違いない。
あまりにもドラマティック、そして緊密な物語。その端正さに涙する、20世紀文学の結晶である。読まずには死ねない。
再読。疑問の余地なく、マルケス作品中最良のものの一つである。マルケスはこれを自身の最高傑作と呼んでいるらしいが、そう言われてもまったく違和感はない。不朽の名作である。
『百年の孤独』のあのめくるめく神話的な語り、途方もない幻想的な事件が頻出するマジックリアリズムとは明らかに異質な、ジャーナリスティックで端正な語り口が採用されている。もともとマルケスはジャーナリストとして出発した作家なので別におかしくはないのだが、あのとめどもない饒舌体の印象が強いと最初は戸惑うかも知れない。超現実的な事件がどんどん起きるということもない。全体に、ぐっと抑制されている。が、だからいわゆる普通のリアリズム小説かというとそうでもない。ここで描かれる事件は実に奇怪で、物理的に可能とはいえ実際は超現実的というにふさわしい、現実離れした出来事だ。魔術的であり、儀式的である。暗合や象徴、前兆、不条理に満ちている。ところがこれは実際に起きた事件がモデルになっているのだ。その戦慄が読者を呪縛する。
また、代表作の『百年の孤独』や『族長の秋』に比べればいかにも短いが、それはノーベル賞作家であり、20世紀文学に豊穣な物語を復権させた文学的巨人マルケスがもてる技量を凝縮し、結晶させた結果の短さなのである。どんな長編よりも濃厚で、しかもアクロバティックなまでの技巧が凝らされている。時間、空間がモザイクのように自在に組み合わされ、ジャーナリスティックな語り口と神話的な語り口が融合する。
さらに、文学的な仕掛け云々以前に話が面白い。マルケスの圧倒的ストーリーテリングを堪能できる。特に、それまで悠然と進んできた語りが一気に加速する終盤がすごい。それまでの構成から、サンティアゴ・ナサールの殺害場面がクライマックスに来ることは予想できるのだが、この決定的瞬間に向かって突き進むストーリーテリングが加速を始めたが最後、読者はもう本を置くことができなくなる。
それにしても、最後の章でマルケスが読者をハラハラさせる巧みさはスティーヴン・キング並みだ。サンティアゴ・ナサールの親族たちは何とかして彼を救おうと色んな行動をとるのだが、それらの行動の一つ一つが見事に裏目に出て、この青年を避けがたい死の方へと押し流していく。特に、母親がわが子を救おうとしてとった行動がとどめとなってしまうのがなんとも皮肉だ。思わず「ああー!」と声を上げそうになる。
訳者のあとがきにあるように、この物語は外からやってきた客(花婿)、共同体の生贄(花嫁)、面目の失墜(花嫁が家へ戻される)、そして名誉の回復(殺人)、という象徴的儀式としても読める。冠婚葬祭の華やかさや法王の到来がもたらす祝祭的雰囲気が横溢し、物語に無意識に浸透していくような夢幻的色彩を与える。訳者は他にも、サンティアゴ・ナサールの二重言語者としてのアイデンティティの問題、共同体の中の差別や憎悪、民族的対立、あるいは母権的社会などさまざまなテーマが盛り込まれていることを指摘している。これらのテーマがモザイクのように組み合わさり、このシンプルな物語に、万華鏡のような素晴らしい複合性を与えている。どの角度からどのような切り口で入っても、重層的で奥が深い。
またこの短い物語の中に、さまざまな物語の萌芽がたくさん含まれている。それはたとえば、外からやってきた男バヤルド・サン・ロマンのミステリアスな過去、あるいは花嫁アンヘラ・ビカリオの陵辱の真相、数十年後に再会する二人のそれからの物語、殺人者である人兄弟の物語、ナサール家で働く母娘の物語、「わたし」自身の物語、などである。それはどこまでも膨らんでいきそうな予感をはらみながら、最低限にしか触れられていないか、あるいは謎のままにとどまっている。こうした物語の萌芽が惜しげもなくちりばめらていることが、この短い物語の驚くべき豊穣さにつながっているのは間違いない。
あまりにもドラマティック、そして緊密な物語。その端正さに涙する、20世紀文学の結晶である。読まずには死ねない。
初読時は時制の変転&中南米独特の聞き慣れない人名の嵐にやや混乱しつつ(誰が誰だっけ?)とりあえず話を読み終えただけ。
再読で全体の構成を把握しつつ味読。この時点ではサンティアゴ・ナサールが本当にアンヘラ・ビカリオと関係を持ったのか?そして惨劇の証言の中で唯一事実と矛盾した発言をするディビナ・フロールの真偽と意図(彼女がナサールは部屋にいると言った為にプラシダ・リネロは正面扉を閉ざすことになる)など、主に「謎」的部分に焦点を当てて読む。それらが決して解明されないのでやや不満を持ちつつ。
再々読。初読・再読時とは全く違った印象を持つ。(しばしば優れた小説はこういうことが起きる)前回気になった「謎」はむしろ「謎」のままで良いのだと。今回はバヤルド・サン・ロマンとアンヘラの物語として読む。
過去二回ではサン・ロマンは単に「鼻持ちならない金持ちで滑稽に退場する奴」としか読めなかったが(要するにナサール惨殺までの一つのきっかけとしか読まず)、今回はたとえば札束を積んでやもめのシウスから家を無理矢理買うところなど、好きな人の気を引く為に悪気無くやっている事として見ると何やら可愛らしい奴と思えてくる。ただ「金にものを言わす」やり方しか知らない不器用な男だと。
そういう意味では歳をとった二人が再会する劇的なシーンでこの物語は実質的に終わっているような感じ。事件の顛末はまあ、書かないとやっぱり落ち着かないので書いておいたくらいの最後の種明かし(もう分かってるんだけど)。
ちなみにこの「名誉の殺人(Honor Killing)」(この訳だとよく分かんなくて「家族の面目を守る殺人」と言いたい所だけど)は特にイスラム諸国でかなり日常的に(現代でも!)見られる殺人で、結婚前に「姦通した」女をその父親や男兄弟が(しばしばこの小説のように公衆の面前で)殺害するのが通例です。
この小説(と元になった事件)は姦通相手の男を殺す、というスジになっているのでまだ受け入れられるのですが、これが女を親族が殺すという内容だったらもはや読んでいるのがつらい陰惨極まりない話になるでしょうね。
これは既に僕(ら)が欧米的フェミニズムの隠然たる影響下にあるからかもしれません。イスラム圏の読者がこの本を読んだら「なんで姦通した女を殺さないんだ?」となる可能性は大いにあります。それが間違っているということではなく。
イスラム世界のことは良く知りませんが、女の方を殺す話だと確かにずっと陰惨になるでしょうね。