アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

族長の秋

2005-06-14 09:45:34 | 
『族長の秋』ガルシア・マルケス   ☆☆☆☆☆

 再読。昨日読了。もう4、5回は読んでいる。
 マルケスといえば『百年の孤独』。しかしこの『族長』は『百年』に比べてあまりにマイナー。Amazonではすでにハードカバー・文庫ともども中古でしか手に入らない状態にある。しかし私はこちらの方が好きだ。愛しているといってもいい。これまでの人生で読んできたすべての小説のベストテンに確実にランクインする。マルケスは私の中で別格の作家だが、そのマルケスで最も好きな作品はと聞かれたら迷った末にこれを一位に上げるだろう。二位は『予告された殺人の記録』である。三位は『百年の孤独』かも知れないが短篇集『エレンディラ』も捨てがたいので流動的となる。

 それにしても、なぜ『百年』があれほどポピュラーなのに『族長』はこんなにマイナーなのだろう。やはりノーベル文学賞受賞が大きいのだろうか。分からないのは『族長』の方が難解だという噂があるらしいことだ。本書あとがきにはこうある。

[・・・『百年の孤独』も挿話の盛りだくさんな作品であるが、それらはおおむね、直線的な時間の軸に沿って物語られており、専門的でない読者も困惑せずに済む。この点が『百年の孤独』の「ソーセージ並みに売れる」大衆的人気の一つの理由だった。それに対して、『族長の秋』は時間の進行がいわば螺旋的であって、少なくとも最初のうちは、カリブ的な放恣な想像力がとめどなく繰り出してくる異常な挿話のめまぐるしさもあって、少々とまどいを読者に感じさせるのではないかという危惧がある。・・・]

 専門的な読者というのは一体どんな読者なのかちょっと気になるが、それは置いておくとして、確かに時間軸が平気で前後したりするのはその通りだ。しかしこの小説はイメージのるつぼであって、エピソードの前後がどうかなんて気にする必要はまったくないのだ。考えながら読まないと分からなくなるややこしいミステリではない。主人公である独裁者はとてつもない高齢であり、過去のエピソードのすべては昔のそのまた昔、という長い時を隔てて語られる、あるいはそのように感じられる。だから話が前後して、あれ、これはあの話の前なんだなとか、おやここであの話の頃にまた戻ってきたのか、とか、そんな風に迷宮じみた回想の中を引きずり回され、少々混乱をきたすことで余計に迷宮性を感じつつこの世界に没入する、というのが正解なのだ。だから時間軸なんて一切気にする必要はない。少なくとも私にとって、こんなに前後のストーリーを気にする必要のない楽な読書はない。似たような名前の登場人物がたくさん出てくる『百年』の方がよっぽど読みにくかった。

 また時間の中を自在に行き来する『族長』の語りの柔軟性は快感以外の何物でもない。退屈な細部や小説上の手続きなどばっさり省略し、濃密なイメージとドラマだけがひたすら溢れ出して来る。まるで自分の頭の中で過去を回想している時のとめどなさを、そのまま言語化したような饒舌な文体である。この本を読んだあとでは、普通に視覚的な描写で話をつないでいこうとする小説がまどろっこしく感じる。

 『族長』のストーリーは単純明快、カリブのある国の独裁者が死に、人々が大統領府に押し入って信じられないほど高齢の大統領の死体を見つける。そこから過去に遡り、正体の判然としない数人の語り手が歴史とも神話ともつかない大統領の過去を物語る。物語られるのはたとえば大統領の影武者の話、クーデターと殺戮の話、大統領の恋の話、裏切り者の話、大統領の母の列聖の話、大統領が唯一妻とした女と息子の話、などなどである。いずれも途方もなく、美しく、残酷で、神話的なエピソードばかりだ。
 『百年』のエピソード群の超現実的な美しさに惹かれた人には、『族長』も勝るとも劣らない魅惑的なエピソードの数々を提供してくれることをお約束する。日蝕のさなかに消えていった美女、子供達を満載して海を行く船から漂ってくる歌声、丸焼きになって人々の食卓に供される裏切り者の将軍、無数のドーベルマンに襲われ噛み殺されるレティシアと幼い息子、独裁者の最期を見届けにやってくる死神。

 マルケスの他の小説も好きだが、ここまで濃密ではじけた小説はこれ以降書いていない。『百年』『族長』に次ぐ第三の神話大作を書いてくれないものだろうか。

 ところで、『コレラの時代の恋』は一体いつになったら訳が出るんだ……。


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