アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

怪奇な話

2007-05-17 20:40:23 | 
『怪奇な話』 吉田健一   ☆☆☆☆☆

 前から読みたかったがどうしても入手できなかった吉田健一の『怪奇な話』を、ようやく古本で入手して読了。あー面白かった。がんばって探した甲斐があった。

 九つの短編が収録されていて、どれも怪異譚、幻想譚と呼べる類のテーマを扱っている。たとえば『山運び』は、魔法使いと召使が山を入れ替え、またそれを元に戻すという話。『お化け』では宝くじ売りの婆さんが若い女になったり馬になったりして主人公の男をもてなしてくれる。『酒の精』では自分の家で酒を飲んでいる男が酒の力で他の町や村に移動する。『幽霊』は男が旅先で会った幽霊の女を連れ帰って妻とする話。『老人』はある時から常に自分の周りにいるようになった老人の話(芝居を見に行くと老人は宙に浮いていたりする)。

 という具合に怪異譚であることは間違いないが、やはり達人・吉田健一の描く怪異譚は普通じゃない。まず、全然怖くない。作中人物が全然怖がっていないのである。たとえば化け物に色々ともてなされる『化け物』では、その代償として何かを取られる、とかいうことが起こっても良さそうなものだが、そういう可能性は「その位の悪意はお化けが相手でも感じ取れる筈である」とあっさり退けられてしまう。基本的に願望充足的というか、こういうことがあったらなんとなく楽しいだろうな、と思わせる話ばかりだ。それに作中人物は怖がっていないだけでなくあまり驚いてもいないのであって、これらの怪異との交流は自然と親しむということに限りなく近い。そういう意味ではこれらは怪異ではなく自然であるといってもいいが、するとこれらの小説はむしろアンチ怪異譚ということになってくる。そもそも、これだけ不思議で突拍子もない虚構でありながら、文体は妙に私小説的であるのも怪しい。

 そういう怪異譚=アンチ怪異譚であるので、プロットも変わっている。ある怪異について語られるのだが、起承転結というか、ドラマティックな展開はほぼまったくない。何かが起き、それについて淡々と対処し、淡々と考察がなされ、やがてなんとなくケリがつく、という話ばかりだ。幽霊の女を女房にするというのもすごい話だが、幽霊の女と淡々と連れ立っているうちにやがて幽霊が人間らしくなってきて、自分だけしか見えなかったのが他の人間にも見えるようになり、そのうち連れて帰ることにするという、それだけである。『老人』なんて老人が見えるようになり、どこへ行っても老人が見えるという現象とその気分が淡々と綴られるだけで、最後は老人がまた見えなくなって終わり。しかしうまいのは、その淡々とした作中人物の心情の中にも微妙な動きがあり、その動きに呼応してちゃんとケリがつくので、話を読み終えてストンと腑に落ちる感覚がある。ここらへんの匙加減が実に見事だ。やはり達人である。

 しまいには『流転』なんて短編もあり、これは神田を歩いていると英国の田舎に移ったりロンドンに移ったりするという話。「その男」は神田から英国の田舎、ロンドン、ビスケー湾の船の上、インド洋、港の酒場、うどん屋、支那の平原、パリの美術館、などになんとなく移動していき、時間も戻ったり進んだりし、月明かりの船の上で女の幽霊にあったりする。そしてまた神田に戻って終わる。そして最後、「それがどういうことによってかというのは難しい問題で初めから手掛かりが掴めないのが解っていることにはなるべく触れないで置くのに限る」で終わり。うーん、すごすぎる。

 吉田健一は『金沢』あたりでもこういうアニミズム的世界観に支えられた幻想を繰り広げているが、本書もやはりその延長線上にある小説集だといえるだろう。けれどもここでは(文体には多少そういうトーンが残っているけれども)『金沢』に見られた私小説的要素はほぼ姿を消し、虚構の運動力を純粋に抽出したような自在さが横溢している。これは作者最晩年の短編集らしいが、それも納得の洗練ぶりである。

 ところでこの短編集の文体で、吉田健一はほとんど句点がない文体を使っている。文章は例によって結構長たらしい、曲がりくねった文章なのだが、ほとんど句点を打たない。もともと句点が少ない人だが、さらに磨きがかかっている。この文体もまた練達の技というべきもので、これを堪能できるのも本書の大きな愉しみの一つであります。


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