アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

春にして君を離れ

2011-07-21 23:15:36 | 
『春にして君を離れ』 アガサ・クリスティー   ☆☆☆☆

 再読。アガサ・クリスティーがメアリ・ウェストマコット名義で発表した普通小説の一作目である。つまり、これはいわゆるミステリではなく、殺人事件は起きない。とはいってもそこはミステリの女王クリスティー、きわめてミステリ的な作品である。広義のミステリと言っていいと思う。非常にユニークな小説で、これに似た小説はちょっと他に思いつかない。

 主人公のジョーン・スカダモア夫人は娘夫婦が住むバグダードからロンドンに帰る途中、交通機関の支障のため砂漠の町で足止めをくらい、ありあまる時間をもてあまし、砂漠を散策しながらこれまでの自分の人生をとりとめもなく振り返る。夫、子供たち、友人たち、彼らとのやりとり、交わされた言葉、態度。自分は何を恐れているのか、何が自分を不安にさせるのか。自分をよき妻、よき母と信じるジョーンの自己イメージは揺らぎ始め、やがてがらがらと音を立てて崩れ始める…。

 という風に、ストーリーの大部分は、ジョーン・スカダモア夫人が砂漠の町であれこれ思いをめぐらすだけである。他の人物達はすべて彼女の追想の中で、それも一貫したストーリーを時系列に回想するのではなく、あの時はこうだった、この時はこうだった、という断片的な連想になっている。それがこの小説に、物語というより思索小説と呼ぶにふさわしい趣きを与え、またこの緩やかな形式が叙述に自在さをもたらしている。

 そんな小説は退屈なんじゃないかという心配は無用である。きちんと伏線があり、謎解きがあり、意外な真相もある。たとえば、ジョーンの惑いは古い学友と偶然出会うことから始まる。彼女はかつては美人で、恋人と駆け落ちしたりロマンティックで冒険的な人生を送っていた。それが今では自分よりはるかに老け込み、みすぼらしい身なりをし、惨めな境遇にある。ジョーンは、慎重で手堅い自分の人生がやはり正解だったと自画自賛するが、別れ際に友人がもらした「娘さんはもう心配いらないわ」という一言の意味が分からない。自分の知らない何かがあるのだろうか? そういえば確かに、自分の滞在中、娘夫婦の様子は変だった…。

 それからまた、夫のこと。なぜ夫はああも老け込んでしまったのか。駅で自分を見送ったあと、不思議と若返ったように見えたのはなぜなのか。続けてジョーンは回想する、夫が農場をやりたいと言い出した時のこと、若い女に言い寄られていた時のこと、配偶者が横領で逮捕された不幸な女友達のこと。あの時、彼女のとった行動を自分は自分勝手と非難したが、夫は同意しなかった。どういうことなのか。自分のまわりで、自分の知らないことが起きていたような気がする。それは何だったのか?

 こうして過去の断片がつながっていき、やがて思いもよらなかった真実が明らかになる。この場合の真実とは殺人事件の犯人やトリックではなく、本当の自分の姿であり、自分に近しい人々に本当はどう思われているか、である。これは怖い、怖いぞ。

 人間はみんな、自分という存在を中心に世界観を構築してその中で生きている。したがって自分は常に他人より正しく、重要で、倫理的に優れていると感じている。が、他人の目から見た時もそうとは限らない、というか、間違いなく違っているはずだ。自分が他人の目にどう映っているか、これ以上のミステリーはなく、これ以上に不愉快な真実もまたないだろう。だから意識的にせよ無意識的にせよ、人はそれから目をそむけて生きている。そうでなければ自我が崩壊する危険すらあるからだ。これはそのミステリーをとことんまで追求した小説である。

 ジョーン・スカダモアは自らの思索に追い込まれ、まさに自我崩壊の淵に立たされる。その後にやってくる結末は非常にアイロニックなものだ。アガサ・クリスティーという作家の透徹した視線を感じる。エピローグだけが夫ロドニー視点になっているのがまた、残酷さに拍車をかけている。
 
 それにしても、慎重第一で、冒険を避け、極力リスクをとらないジョーンの考え方は、非常に日本人的と言っていいように感じた。彼女が家族に言うセリフは日本人の妻や母なら誰でも言いそうなセリフである。本書では、それがロドニーをはじめとする家族を疲弊させることになるが、ある意味日本のストレス社会の構造を言い当てているようで興味深い。もちろん欧米でも寄らば大樹の陰的考え方はあるものの、日本より冒険やチャレンジに価値を見出す精神的風土がある。つまり、ある程度心のままに生きることも人生には必要で、多少の浮き沈みがあるのが人生だ、いやむしろそれが人生の醍醐味だ、という考え方である。これは個人の人生観から会社の経営方針まで色んな局面で感じることができる。その良し悪しは一概には言えないが、少なくともまったくリスクをとらないという態度からは、決して大きな飛躍やイノベーションは生まれない、ということは言えるように思う。まあ、そんなことまで考えさせられた読書でありました。


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