アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

暗闇のスキャナー

2010-12-25 23:26:05 | 
『暗闇のスキャナー』 フィリップ・K・ディック   ☆☆☆☆☆

 再読。これはディックの傑作の一つで、内容的には文句なく五つ星なのだが、サンリオSF文庫版は翻訳がひどい。今はこれ以外にも二種類翻訳が出ているので、これから読もうという人はそっちを読んだ方がいい。私も次に読む時は別のを買おうと思う。サンリオ文庫版は貴重なんだけれどもなあ。

 本書は映画化もされたので観ている人もいると思うが、麻薬捜査官ボブ・アークターと彼を取り巻く人々の物語である。アークターは身分を隠してジャンキー達と一緒に生活しているうちに、やがて自分自身を監視する羽目になり、物質Dのせいでだんだんと脳を破壊されていく。捜査官は自分の身を守るため上司にも自分の本名、素顔を伏せているので、自分自身を監視するよう命じられてしまうのだが、このパラノイアックかつ不条理な状況が非常にディック的だ。

 とはいえ、これは映画のレビューでも書いたが、この物語は犯罪捜査ものでもアクションものでもない。前半は主にジャンキーたちの破天荒な生活、メタメタな会話、調子はずれの言動の数々の羅列になっていて、後半はぼろぼろになったアークターが矯正施設ニュー・パースに送られ、麻薬の供給元についての意外な真相や、アークターの中毒が計画的なものだったというディック的欺瞞が暴かれる。前半はおかしく、後半は痛々しい。

 ディック自身の言葉によれば、この小説は麻薬で身を滅ぼした人々へのレクイエムとして書かれた。「作者のノート」にはこう書かれている。「これは、自分が行った行為のためにあまりにも厳しく罰せられた人びとについての小説です」「ここに哀悼の意を表します。かれらは私の同志でした。これほどすばらしい同志はいません。かれらは私の心に残っています。そして私は敵を決して許しはしません。<敵>とは遊び方を誤ったことです。なにか別の遊び方でかれらみんなをふたたび遊ばせ、楽しい思いを味わわせてあげたい」

 そういうわけで、全体的に他のディック作品よりも痛々しさ、哀切のトーンが顕著だ。ただしひたすら悲しい小説ではなく、先に書いたように前半部分のジャンキーたちの言動はかなりおかしく、笑える部分も多い。こうした独特のスラップスティックな感覚が、この作品をディックならではの傑作にしている。またSF色は薄く、普通小説に近い。SF的な仕掛けとしては、麻薬捜査官が装着して正体を隠蔽するスクランブル・スーツが出てくるぐらいだ。舞台はいつもの通りカリフォルニア。ディックらしい、虚無的な青空が広がるカリフォルニアである。

 主要な登場人物はアークターと彼を取り巻くジャンキーたちだが、アークターのルームメイトであるバリスのキャラクターが秀逸だ。とにかく得体の知れない、何を考えているのか分からない男で、しばしば滑稽でもある。映画ではロバート・ダウニー・ジュニアが例によって思う存分エキセントリックに演じていた。私的には原作のイメージと微妙に違うが、あれはあれで面白かった。

 映画はこの原作の雰囲気をよく映像化していてやはり傑作だが、当然ながら原作の方がエピソードがきめ細かく、たくさん詰め込まれている。映画にはないけれども私が好きなエピソードは、たとえばジャンキーの恋人に殺されそうになる女のエピソード。男がわめきながら女の車のタイヤを全部切り裂いている時、女は同じアパートの老夫婦に電話を借りて警察に電話するのだが、なぜか男のブーツは自分がプレゼントしたものだから自分のものだ、みたいな話ばかりする。また、やってきた警官が電話を取り付けろ、またトラブルが起きたら呼んでくれ、とだけ言って帰ろうとするので、アークターが車を調べたかと尋ねると、警官は黙ってじっと彼の顔を見るだけで何も言わない。ヘンである。この小説にはこういうヘンなエピソードがたくさんつまっている。

 こういうのを面白いと思えるかどうかが本書の評価の分かれ目だろう。麻薬捜査官の話ということでスリラー的な面白さ、あるいはSF的なギミックを期待したりすると、何が面白いのかさっぱり分からないということになる。しかし奇妙なジャンキーたちのトラジコメディ、スラップスティックとディック流パラドックスの結びつきにえもいえぬ快感を覚えるディックの読者なら、この小説の魅惑に抗うことは到底できないだろう。自転車のギアが何段変速かの議論、家に侵入者があったかどうかの議論など、面白い場面がいっぱいある。冒頭、チャールズ・フレックが体中のアブラムシを落とそうとするエピソードからして強烈で、たちまち引き込まれてしまう。本書はディックの持ち味の一つであるB級スリラー的奔放さこそ希薄だが、この作家の異様な現実感覚と幻視力が見事に結晶化したマスターピースである。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
今年のSF (ぽぉ~)
2010-12-28 11:59:28
こんにちは。
お久しぶりです。
ディックのレビューを待ってました!
ディックはやはり笑えるところがいいですね。
後期の作品はあまり好きになれないのですが、これや流れよ我が涙とかいいですね。
今年はSFのレビューではアシモフなんかもありましたね。アシモフはほとんど読んでないので読んでみたくなりました。
ピンチョン全集も出始めて「逆光」もSFっぽくてエンタメみたいに読めて面白いですよ。
ピンチョン (ego_dance)
2010-12-30 10:05:53
お久しぶりです。
アシモフも好きなんです。ただディックみたいな異様な感じは全然なくて、健全で明るいエンタメですが。

「逆光」面白いですか? やたら長そうなのと高いのとで、躊躇してるんですが…

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