崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「先生の日」

2015年05月16日 04時55分40秒 | 旅行
昨日、韓国では「先生の日」。私の恩師は皆すでにこの世の人ではない。折に触れて思い出すが、日本で長く生活しているうちに「先生の日」を意識することもなかったが、朝、韓国からの電話で知った。卒業生・学生から電話やメール、プレゼントに感謝である。1964年から教壇に立って今に至っているので50年が過ぎた。いつも若い新鮮な学生たちと過ごしてきたことに、私と関わってきた多くの人に感謝している。私の教育観は一貫しているわけではない。授業の内容や方式もかなり変わってきた。常に良い方法を模索している。それが楽しみでもある。昨日のNHKクローズアップ現代の時間に93歳の瀬戸内寂聴氏が出演して、小説を書き続けるのが楽しみであると言った言葉に励まされた。私も最近は書くのが楽しみである。
 昨日の授業では日本が「軍艦島」などを世界遺産に登録申請していることについて、韓国と中国が反対することをもって考える時間であった。負の遺産を破壊するのか、保存するのか。原爆ドームの保存、朝鮮総督府庁舎の破壊などを例にしてなぜ保存するのか、なぜ破壊するのか。古いものは捨てて新しく発展するのか、古いものを生かして発展するのか、基本的な問題点を提示して考えるようにした。書くこと、教育することは考えることである。これかれも考え続けたい。

居眠りで銃殺されたという話

2015年05月15日 05時34分28秒 | 旅行
 私が北朝鮮訪問した時の映像を学生たちに見せた。韓国の学生たちの反応は大きかった。今から10年ほどの前の状況ではあるが、そのように発展したとは思わなかったという。学生たちによれば北朝鮮は全く近代以前の農村のように想像していたという。韓国のメディアは北朝鮮の情報を多く出していてよく知っていると想像した私がショックであった。昼のTBS番組では北朝鮮の玄永哲人民武力相(国防相)(66)が4月30日頃、粛清されたという韓国情報院の情報を持ってお笑い番組のように討論しているのを視聴した。北朝鮮がおかしい情報源を出しているが、韓国のメディアも北朝鮮の情報を楽しんでいるようである。この話の中でもっともおかしいことは玄氏は4月24、25日の朝鮮人民軍第5回訓練指導官大会で、居眠りをしているところを金第1書記に見つかったことが一つの理由とみられるという。射撃場で、数百人の将校が見守る中、高射機関砲で公開処刑されたという。こんな悲惨な出来事は事実なのか、冗談なのか笑い話であろうか。韓国の報道では粛清以降もTVに映像として登場している。まるで白昼の幽霊のようである。
 居眠りで銃殺されたという話は事実であろうか。本欄で以前、文化人類学者のベネディクトの文を引用しながら日本人の居眠りの危険性について触れた。留学生たちは日本人の学生たちが授業中居眠りすることが異様に感ずると言う。居眠りは緊張感が弛緩していることを指す。軍隊では居眠り中に首を斬られた歩哨の話を時々聞いたことがある。今、日中戦争の日記を読んでいるがやはり居眠りで首を切られるという話が出る。私は後期高齢者になったが人の講演などを聞きながら居眠りは絶対しないようにしている。しかし先週初めて説教中居眠りしたことに自ら驚いた。永眠が近いということであろうか。

「戦後70周年」が怖い。

2015年05月14日 05時00分01秒 | 旅行
毎日が何かの記念日である。生死にかかわらず個人の誕生日記念日などを含めて無限に多いと思われる。生きること自体が記念すべきことであることを意味する。記念とは何だろう。戦前日本は多くの記念日を通して聖戦、決戦を高めてきた。その記念日は戦後平和な記念日に変わっている。その記念日意識も希釈になりただの休日化し、「連休」がゴールド(GW)になっている。今年世界大戦の「戦後70周年」と叫んで騒いでいる。それはただの「記念」ではなくロシアでは大規模な勝戦記念(写真)をはじめ多くの国が戦争意識を高調させているのではないかと憂うほどである。日本の靖国参拝に刺激された中国や韓国の軍国化、更に日本の軍国化さえ憂う現象が起きている。戦争をリマインドして平和を追求する。しかし戦争を記念しながら勝戦意識を高めることは悪い。
 ある韓国系アメリカ人の有名な学者から電話を受けた。彼は韓国から財政的に支援を受けて「安倍の奴」に対抗する研究書をアメリカで英語で出版したいという。慰安婦問題について反日的な出版物によって日本政府に対抗するというので私は彼に学問の客観性のことを指摘したら「そんなものは関係ない」という。大変困った。韓国人としてアメリカに留学して住みつき、大学教授をしても韓国の反日思想から抜けていない。そこで私は考えた。アメリカは少数民族の人種のるつぼメルチングポット(混合)と言われているが、韓国系の反日感情には驚いて数日間気分が重い。民族意識は永遠に超えられないサラダボウルであると失望している。「戦後70周年」を契機にもう一回戦争が始まるような雰囲気である。私は戦争を語ったが、それは恨むものではなく、ハン(恨)に過ぎないと思う。「戦後70周年」が怖い。

ソ連軍のレイプ

2015年05月13日 05時25分40秒 | 旅行
 ソ連軍のレイプに関する資料は多いが、世界的に大きい問題になっていなかった。戦後70周年を期してBBCが日記を通してソ連軍がドイツでレイプした事例を紹介した。慰安婦問題は韓国だけのことではなく、戦争と性を考える問題に広げるべきであろう。私は準備中の拙著でソ連軍が行った日本の女性への性暴行を引用した。ソ連軍の横暴をどう考えるべきであろうか。大阪府大阪市在住の中谷藤市氏の証言を一例として挙げてみよう。

 ソ連兵六名に囲まれているではないか、その中の一名は拳銃の銃口を私の胸に当てて、引き金に指が掛かっている。強烈な「ウォッカ」の臭いがする。銃弾が飛び出しかねない。恐怖の余り、どうしようもないまま突っ立っていると、盛んにロシア語で何かを口走っている。どうやら雰囲気から「女はいないか」と言っているらしい。そのうち彼ら六名は土足のまま、裏木戸から部屋にどやどやと、なだれ込んでしまい、結果としてソ連兵六名を私が案内して連れてきた形となってしまった。部屋に上がり込んだ彼らソ連兵も、男ばかりのわたしども十八人には驚いたらしく、盛んに部屋の隅にかたまって「座れ、立ったら射つ」と拳銃で威嚇している。
 中略
その内一名のソ連兵が、この家の家族の寝ている四畳半の襖をあけてしまった。部屋には親子五人が声を殺して、布団を頭から被って、兵隊が部屋に入ってくるのを今か今かと恐怖におののきながら震えていた。襖を開けた兵隊は、土足の軍靴のまま布団の上に突つ立ち、部屋の家族の様子をうかがっている。じっとたっていても、ウォッカの影響か足元がかなりぐらついている。予期していたとはいえ、親子は恐怖の余り顔をひきつらせて震えている。長女の娘さんは、前日に黒髪をはさみで切り落として「虎がり」ながら坊主となって男性の服を着て寝ていた。
 男性の服をまとっていても虎がりの坊主頭髪の地肌は、同士が見た場合どう見ても、男性と見間違うことはないが、彼らには判別できないらしい。幸いにも彼女は見破られることなく難を逃げることができた。しかし、この家族の母親は、「私みたいなお婆さんにそんな心配はいりません」と頭髪を落とさなかったため、残酷な結果を招くこととなった。部屋に踏み込んだ兵隊は、恐怖に震え、布団にくるまっている子供たちに、四畳半から出るよう手真似をしている。長女には幸い女性と気付いていないらしい。
私共は娘さんに「早くこっちに来て、真ん中に入って座りなさい」と、一団なっている中に彼女を入れ、膝を組ませて座らせた。長男は、恐怖に顔を引きつらせて母親にしがみついている四歳の弟を、ひったくるようにして抱きかかえ、姉と同様私共の中に座らせた。
ことの成り行きを、固唾を飲んで見守っていた私どもは、拳銃を構えたソ連兵の監視を受けていては、手を下す術もなくただ見守るのであった。やがて部屋に踏み込んだ兵隊は、頭髪の長いこの子供たちの母親を女性と判断したらしく母親の着物の襟首を掴んで立たせ、部屋から一旦出てきた。普通の人より小柄なこの母親は、大柄なソ連兵の半分程度の背たけしかない。母親はこの後何が起こるのか。完全に抵抗を失って不安と恐怖顔を引きつらせている。どうやら部屋から連れ出して、襟首を掴んで便所の方に引きずっていく様子だ。「どこにつれていくんやろ!」と私共が不安がっている空気を察して、監視役の別の兵隊が、ロシヤ語で、手真似で何か説明している。言葉では理解できないがどうやら便所に連れて行って身体検査をすると言う意味らしい。
中略
 この時母親は、悲痛な叫び声で「皆さん助けてください」と二度も三度もしきりに、私どもに哀願するけれども、私はあの時ほど敗戦国の惨めさを感じたことはない。私はあの部屋の一番近く座っておりながら、どうにも手の施しようがなかった。自分の子供たちと我々の見ている前で、兵隊の毒牙にかからんとしている。組み伏せられた、母親を救ってやりたいという。義侠心のような義憤にかられながらもほんの少し前に、偶発的な拳銃の発射であったとしても、至近距離での轟音に完全に度胆を抜かれていた。
あの場合、部屋に飛び込めば射殺されるかもしれないという、自分の身の危険を考えると、母親を救う勇気を持てなかったことをただ恥じ入るのみである。当時十八歳を過ぎたばかりの私には、それはあまりにも悲惨で残酷な光景であった。拳を握り締め目をつむって、その残酷な現実から「視線を反らす」だけが、自分の母親が皆の眼前で犠牲となっているのを、じっと唇を噛み締めて耐えている、子供達に対する、せめてもの申し訳的な心情だった。
この母親の側には、まだ一番末っ子の一才になったばかりの男の子がもう一人残っていたのである。兵隊の腕力に、ついに観念したのか母親は最後に「皆さん、私はどうなってもかましませんが、この子だけは助けてください。兵隊に踏み殺されそうです」幼児を抱きすくめて悲痛な叫びをあげた。この時、今まで私どもの間に座って、両耳を両手で覆うようにして、下をうつむいて、じっと耐えていた十五歳の長男が母親の悲痛な叫び声を聞いた途端、憤然と立ち上がるなり部屋に飛び込み、組み敷かれて必死にもがく母親の上に馬乗りになった兵隊の一瞬の隙を見計って、母親の手から幼児をひったくるようにして弟を救った。
長男の行動は、肉親愛から出た。咄嗟の勇気なのであろうが、この少年の行動にじっと座って成り行きを見守っていた私共の一同は只々唖然とするのみで、大人の自分たちの不甲斐なさを、お互い顔を見合わせて心の中でひたすら恥じ入るのみであった。母親は、犠牲になったが、この少年が父親不在の時、長男としての自覚で咄嗟の機転により、兵隊に踏み殺されるかもしれなかった弟の命を救ったことが、せめてもの「不幸中の幸い」であった。
 あれから五十年の歳月が流れ去ったがあの時、あの少年の勇気を持ちえなかった私共は、さぞかし苦難道を乗り越えられた親子のこと、堅実に生き抜いていられることを心より願うしかない 。(長門市編『歴史の証言―海外引上げ50周年記念手記集』1995:234-240)





「元老に聞く」

2015年05月12日 04時32分05秒 | 旅行
定期健診の時、来週、池田先生がアメリカのデンバーで開かれる国際学会で発表されることを応援、お祝いの言葉を述べ、「お元気で、、、」と言うと傍に立っている看護師などが「行っていらっしゃい」という前に声を出して笑った。なぜだろうか。「お気をつけて」と言うべきだったらしい。しかし先生は私が外人であることを知っているからか平然としていた。このように私の日本語は永遠に完璧になれないことを悟った。日本語は失敗してもよいという、放心があるからであろう。英語もそうである。外人だから多少間違ってもよいという安心感があるからであろう。それは外国語を使う人の多くが持っている普遍的な欠点かもしれない。丁寧語など注意を払って「お」を付けてもお箸、お林檎、おマンゴ、おナイフ…など。それでもまだ失礼になりそうである。韓国のドラマで母親の悪口は日本語で訳せず黙音マーク、放送倫理基準も異なるようである。
 日韓の橋渡し役に努力していると言われることがあるが、場合によって両側に迷惑をかけているのではないかと反省することがある。私の研究が韓国にプラスなるのだろうかと憂い中、メールが届いた。韓国民俗総合学術大会で「元老に聞く」という題で講演の依頼が来た。趣旨から考えてみると、おそらく学会初期に関わった者としての招待であろうと思う。先輩、恩師らが高齢、亡くなられたことから私の順番になったような空虚感はあるが嬉しき招待に応じることとした。韓国語の講演では言葉で笑われることはないが、新造語は知らない、さらに新しい研究成果を知らない話になるかも知れないと懸念する。ただ老人の昔話ではなく新鮮な衝撃を与えたい。多くの友人、知人、後輩たちに会えることもうれしい。

母の織物

2015年05月11日 05時59分04秒 | 旅行

 寒さから一気に初夏になったような昨日は母の日であった。以前,他の教会では年配の方にカーネーションをあげたり特別な行事があったりしたが今はクリスマスやイースター以外の世俗的年中行事などは一切しない。それはそれでよいが、「和」が形成できない。今は小人数になっている職場が多い。それは「和」を作れるチャンスにもなる。日本文化の長所として「和の文化」と言われながら場合によっては和を壊す人もいる。多様性を強調するべきなのか、どうすべきか悩むところである。多様性こそ「和」の基本である。ただのトラブルメーカーは和ではない。母の日、留学生の林さんから家内にカーネーションが贈られてきた。部屋が和んでいる。
 中国嘉興大学から副校長の費氏一行4人がわが家で2時間ほどお茶の時間を持った。去年我が夫婦がその大学を訪問した時の写真を見せ、またそちらの大学が用意して来た写真をテレビに映しながらの楽しい時間であった。上海近い浙江省は世界的にシルク生産地として有名である。家内にシルクのスカーフがプレゼントされた。私の母もシルクの織物をしていた。夏には桑の葉を蚕に餌としてあげてシルクを織っている母の姿は幼い私にとっては日常的なことだった。昨日の「母の日」にシルクをみて、母の織物を思い出した。

高齢者の将来計画

2015年05月10日 05時10分50秒 | 旅行
突然の国際電話、韓国の友人の姜信杓氏からの大きい、大きい提案に一瞬戸惑った。彼は韓国の世界的な文化人類学者、日本ですぐ英語で一学期特別講義をしたいという。まず私より年配であり、一時病気で大部弱くなっていたが元気を取り戻したことで安心した。昔国際日本文化研究センターに推薦して1年間研究をした経歴もあって日本語もできる方である。彼の大きい業績の一つであるソウルオリンピックの研究を生かして2020年東京オリンピックに関する研究を提案した。彼は声調を高め、すぐFBにその意思を書いてくれた。「東アジアのオリンピック研究」という講義の題まで提案してくれた。私は彼の計画や夢に讃嘆しながらも、今すぐ準備することは難しいと言った。それについて彼はさらに大きい、大きい話を書いた。私は彼との通話と文章を通して高齢者が夢をもって未来世代のために提案していることが宗教的な人生観を聞くようであり、勇気づけられた。
 私はの最新著の否定的な反響を、憂いているのとは逆に韓国やアメリカなどで好評を得て嬉しい。姜氏は私の研究が言及されたニューヨークで出版された著書を引用してくれた。Kim, Kwang-ok 2004, "The Making and Indigenization of Anthropology in Korea" In <<The Making of Anthropology in East amd Southeast Asia>> ed. Shinji Yamashita, Joseph Bosco, and J.S> Eades. New York: Berhahn.昨夜中国嘉興大学副校長一行と夕食を共にした(写真右側)。副校長の費建文氏は私を「我過的橋比你走過的路多(私が渡って橋があなたが走った道より多い)」と褒めてくれた。広島大学時代の教え子の李月順氏が通訳と案内に努めてくれた。中国語ができずコミュニケーションが十分ではなかった。第二外国ではなく母語として使われている言葉としては中国語が世界で一蕃多いのではないだろうか。常に言葉はハンディになる。音声言葉以外の言語non verbal languageの体験時間であった。

「留学生が語る日本」

2015年05月09日 05時12分40秒 | 旅行
昨日私の授業「日本文化論」を公開録画した。二つの授業を合併して関連教員にも参加を呼びかけ、学生たちに撮影の承諾を得て実行した。朝から撮影チーム権藤、藤中、濱西の諸氏と教室を整え、名札などを準備してスタート時間を待った。しかし学生たちの姿が少なく、勢いがない雰囲気を感じた。韓国(5交換留学生を含む人)、中国(5人、修士・博士課程の院生を含む)モンゴル(1人)の構成で授業をした。「留学生が語る日本」、前回の学生コメントを要約して紹介し、安重根が暗殺される場面を映画から見せて、5分ほどコメントを書かせた。それを基に発表する形式で全員に意見を求めることとした。中国の学生の反日が韓国の学生より強く感じた。それは前回の授業では韓国の学生たちの反日感情が強かったが授業を通して考え方、見方に影響があったかと思われる。
 インタネットのメディアを通して地方の大学から国際化の状況を発信紹介することに学生たちが積極的に参加しなかったことは残念であった。ハーバード大学のサンダル教授の熱血教室のようなことはできなかった。ただ参加した学生たちは協力し、発信の意思があって議論できた。考えながら聞き、話し、読み、書きの講義の現場を撮影したものであり、私の授業公開になる。撮影が終了してから早速撮影チームと協議し、講義のサンプルとして編集に入ることになった。もう一つ東京のインターネットTVの収録の話があるが、今度のことを参考にしたい。*写真は藤中氏 

日本国の「国」

2015年05月08日 04時44分44秒 | 旅行
私が住んでいる山口県は日本の中国地方といわれ、中国人に日本は中国より大きい国だと思われるという皮肉も聞かれる。また日本の国の中で生まれ故郷を「くに(国)」という。別にこのような現象は問題にすることでもないが、昨日実際それを問題にした研究発表を聞いた。地理学者礒永和貴氏の国絵図の分析の話で、日本は藩と藩の境界意識に関して説明を聞いた。それは伝統的な文化や社会組織による境界意識を持っている「領」を基盤としているという。韓国では道との行政区分はあっても地方性にすぎないこととは対照的に思えた。日本の封建制や地方分権性の強い歴史が理解できた。地方の藩から幕府への挑戦する構造、今見ている「花燃ゆ」が理解できそうである。
 アメリカ合衆国と中華人民共和国の2大国の対象まで対照して考えた。前者は地方分権主義であり、後者は中央集権である。イギリスでは選挙でスコットランドの独立がまた話題になる。大英帝国の分裂が繰り返されている。人権、自由、福祉は国のサイズではないことを意味する。大国化していこうとする領土主義は排撃されるべきであろう。

遅すぎた藤の花見

2015年05月07日 05時22分02秒 | 旅行
 長い連休の最終日、西ノ市の藤の花見に約束時間より余裕をもって出発した。新車のナビによって順調に約束地の「道の駅」に着いてそこで会うことになっている方に電話で確認したら、そこは約束地ではないと言われ、またナビでより近い「道の駅」へ、22キロ逆もどり。それでもまだ時間的に余裕があり、1車線の細道の森林の中を通って行く途中彼から連絡があり最初に行ったところでよかったと知った。森林の細道、Sコースばかりで50分くらいで先の到着地に戻り、権藤氏夫妻と河波茅子氏に合流、早速名所の藤棚に上った。藤の花は完全に終わった後だった。そこから山間の農業試験場へ走り、蕎麦料理の昼食、さらに山奥へ走り、河波氏宅に着いた。森林の聳え立の中に120余坪での一人暮らし、贅沢な自然環境に感動の連発であった。絹代塾などの計画について談論している内に帰り道が気になった。彼女の先導によってまた森林の細道で対向車とはお互いに譲りあいながら走って帰宅、本当に連休が終わった。
 その大きい一軒家(写真)。太陽発電、自然の水、格式のある庭園、豪華な家具などがそろっていた。その家に女性一人暮らし、嵐丘を連想させられる。自然健康環境、医療施設もちょっと車で走ればあるという。映画祭や絹代塾の相談より、彼女の小説風の話に興味がわいてきた。往復は家内の新車の運転訓練のようの苦労ではあったが、私は5月の新緑と森林の鑑賞の時間であった。帰宅後、さすがに疲れて居眠り中、2か所から講演依頼があった。よく考えることなく「うれしい、うれしい」と答えていた。今年の後半も忙しくなりそうである。

迎客準備

2015年05月06日 04時42分03秒 | 旅行
昨年櫛田学長と一緒に中国・嘉興学院を訪問して大学間の提携を結んだが、その大学の代表団Fei Jianwen副総長、Yang Guoyong教授、Lu Hengxin教授、李月順氏が今週末から東亜大学を訪問することになった。李氏は広島大学の教え子である。そのスケジュールの中で拙宅でお茶の時間を入れていただいた。昨日は迎客のために大掃除と模様変えをした。いつもの生活空間であるリビングを会議室の雰囲気に変え、まず7人分の席の椅子を配置した。海の展望のために窓のカーテンはなし、観葉鉢物と絵を掛けた。難関の作業が床の掃除であった。家内が床を磨いた上に私がニースを塗った。
 リビングの家内の作業用のテーブルを家内の部屋に移したが、この配置も家内はそれほど長く続かないだろうという。それは模様変えが私の趣味のようなものであることを意味する。しかし、最近は模様変えの頻度が少なくなった。以前90キロのテレビを2階から下ろした時、危険だったことを思い出す。今は無理である。模様替えの時は家内が不在の時間にしたが今では物を移動するのに手伝ってもらうようになった。私の荒っぽい仕草に家内の小言は韓国のドラマの影響ではないか、否いつも大概的な私の仕事を家内に仕上げてもらう習慣から生じたものであると思う。

サクランボ狩り

2015年05月05日 05時36分48秒 | 旅行
桜の花見の騒ぎが過ぎても色々な花は続いて咲いている。道端や坂道にツツジなどが満ちている市街、藤が見頃になっている。昨日はサクランボ狩りに行った。明日は藤を見にいく。病院の駐車場にある3本の桜の木にサクランボ、食べ放題だった。我が家のベランダの鉢ものに実った数個のサクランボは宝石を食べるような気分であったが、昨日は倉光氏の好意で美しくおいしいさくらんぼを満腹状態であった。花を鑑賞して実を食べるというのは幸せである。花の香りと美しさから実を食べる幸せである。ナイフで肉を切りながら食べる肉食文化とは対照的である。
 食べたサクランボは果物とは感じなかった。童心に戻り、また聖餐のようであった。それは美しい花見の感情がまだ冷めていないところの花の味でもあったからである。花の実が豊富な楽園は南の方である。その楽園は聖書によれば「太初」(太古)にあって、仏教では極楽にあるという。その楽園はこの世から想像した理想郷であろう。 

花魁の姿が寂しい

2015年05月04日 05時00分03秒 | 旅行
イギリスでは王女が生まれる前からの期待感が熱く大騒ぎ、誕生のニュースに世界が祝福。生老病死は公のこと、互いに祝い、慰め合うことである。しかしいつのまにかプライバシーが優先され、生老病死も孤人(個人)化されている。葬式さえ密葬が多い。もともと西洋では結婚や葬式などが神様との神事であり、神と伴うことで孤独にはならないということである。しかし東洋ではそれらは社会的関係によるものであり、社会的な関心事で儀式や儀礼が行われた。今出産などは大変なプライバシーとなっているが、もともと他人の関心を引くことである。日本では過剰は迷惑倫理があるように私には感じられる。先日ある新聞の読者投稿欄に携帯電話のバイブルが迷惑だと載った。迷惑をかけないということが過剰だと思った。隣家の水滴、隣り人のささやきも迷惑という人がいては社会は窒息し、社会は成り立たない。お互いに気をつけるが迷惑を強調するより、我慢する心が必要である。
 何にも「言わない、しない」という消極的な生活が強調されては静かな生活ができるかもしれないが、呼吸の音や人がそばにいることさえ迷惑になりそうな圧迫感の社会、幸福度の低い日本社会は住み難いと思われる。欝病者の多い社会になっている。安倍氏の演説では「言っていない」ことが非難されている。「言っていない」「話していない」のを非難するのは喧嘩の始まりである。山についての話を聞いて、海の話がないと非難するのと同じ。昨日は教会で礼拝後、赤間神宮へ、激しい雨で先帝祭はほぼ簡略していた。傘姿の芸者を観るチャンスだと思って雨の中、階段を上ったのにガラス越しに内側に立っている華麗なおいらんの姿が寂しい。壇ノ浦観光名所に住みながら毎年楽しんでいたが、初めての寂しい祭りになった。この日のために練習、準備した方々にとっては心に残念の雨、県外から来られた方は上臈参拝を見るために前日から隣に泊りがけだったのにと気を落としていた。昨日の激しい雨は大変な迷惑(?)であった。

華麗なトータルビュティ発表会、寂しい安徳帝正装参拝

2015年05月03日 05時18分25秒 | 旅行
大学のエレベーターの所の掲示板で知った、トータルビュティ学科の卒業制作発表会を見に行った。留学生の多い学年であり、世界の様々な国の文化や魅力をショーで表現したものであった。映像、音楽、ダンスも効果的ですばらしい。私は今回で6回目の観覧になる。中国、モンゴルと韓国からの3人の留学生の林、ドルバト、チェハラムの3人も同行した。今度のテーマはThe World、日本の伝統を生かした和、韓国の伝統結婚式、アメリカのハロウィン、中国の伝統文化を継承した現代のスタイル、イタリアのメンズファッションであり、すべてのヘア・メイクも素敵だった。まさに、美、ファッション、文化を表すものであった。もっと多くの市民に観に来てほしい。
 留学生たちと我が家でお茶の時間、ミミに大喜びで迎えられ、のどを潤して3時からの赤間神宮の安徳帝正装参拝を観に行った。毎年の観客の3分の1にも満たない、とても少ない。留学生たちを含む献花者も少ない。市長も登場しない。華麗なショーではなく、伝統的な祭りに戻った感じがした。今世界各地で行われる有名な祭りも実は小さな村や家などのものが大きく作り上げられてきたものである。それはホッブスバウムにより「伝統の創造」として知られている。今日は先帝祭の本番であるが、80%以上、雨という天気予報が出ている。室内の小規模な儀式になりそうである。少子高齢化により華麗な見世物が伝統的な粗末な祭りへ戻る傾向になっていくようである。伝統に戻ることは懐かしく、また寂しいことである。

「民族主義を越える」

2015年05月02日 05時22分21秒 | 旅行
 連休の前日、出席率は半分である。昨日は研究の基礎学習の時間であった。「安重根は殺人者か、英雄か」を問った。ケネーディ暗殺、朴正熙暗殺、伊藤博文暗殺と何が違うのか。「殺す」行為には戦争、テロ、死刑など様々な問題など複雑なものがあること、民族、国家という背景を脱して考えてみる時間であった。それぞれ民族教育を受けてきた留学生たちは安重根英雄説を主張した。民族主義色を脱色させる時間であった。来週は公開授業、録画もする。「民族主義を越える」をテーマに考えてみたい。
 大学キャンパスの中で国籍にかかわらず純粋に日本文化を好み称賛するような以前の授業とは違って留学生たちの民族主義が強く表れた時間であった。1980年代韓国で教鞭をとっている時私が所属している民俗学会では国粋主義者たちが「民族主義すなわち国際主義だ」といい、私と壇上で並んでシンポの際「日本に留学した人は韓国の民俗を研究する資格がない」と侮辱されたことがあった。私は彼自らが自分の学問を根底から否定していると思って返答もしなかったが彼は以降民族主義の本を出してベストセラーとなった。日本の吉田清治のような存在であろう。
写真の洋蘭は古希記念に教え子許点淑から送られたものである。今年も元気で優しい花が咲いてうれしい。