崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

家内の登壇

2009年03月16日 05時38分40秒 | エッセイ
 家内が教会の司会をはじめて担当した。教会でも初登壇が斬新であった。家内は大学で教鞭も取ったし、社会活動をしているので心配することはなく、完璧であった。嬉しい反面私は家内に逆転された感がないわけでもない。今まで数多く私の講演や司会を家内から見られてコメントを聞いてきたのにそれが逆転されたのである。実は逆転はこれだけではない。収入の面でもそうであろう。
 「逆転感」には男性、夫、戸主などへの挑戦という感情も含まれているのではないだろうか。男女平等を心底から考えてきているし、男尊女卑的なことには非難していたのにその私が逆転感を持つのはなぜであろうか。私だけではない。多くの人が後輩に、弟子など様々なところで逆転される。それは競争感とは異なる交代と譲り合うことでもあり、社会変化の根本であると認識しなければならない。高齢化現象も普遍的であり、これを乗り越えていくのも成熟の段階であろう。
 

冷麺とウニ

2009年03月15日 06時02分41秒 | エッセイ
 短い韓国旅行の中でビビン冷麺を3回も食べた。日本ではなかなか食べられないものであるから特に美味しく感じるのかもしれない。韓国の食品コーナーを回ると美味しそうなものが溢れているが、日本のスーパーを回っても特に視線を引くものはウニくらいである。ウニは一般的に韓国人は好きではない。私が好きになったのは異例なことである。韓国で現地調査中に海から取ってきた生ウニを味わったことがあり、とても美味しく感じて以来のことである。それがインプットされたので舌が覚えている。
 珍しく日本的な好物のウニ、そのウニが名産である下関に住んでいることは偶然であろう。しかしウニは高価なものであり、滅多に買うことはない。家内から勧められても遠慮するのが普通である。海岸村の豊浦湯玉にお住まいの方で、戦後韓国巨文島から引き揚げてきた堀麗子氏から数個いただいてとても嬉しかった。
 韓国では古くは王様へ進上する品目であったともいわれるウニを食べることこそ幸せではないか。それは私だけではない。今は昔、想像もつかない高級な音楽やオペラなどをおラジオやテレビで身近に接することができるのは贅沢であり、すごいことであることに気がつく。もっと文化を大事にすべきであろう。

教養ある人とは

2009年03月14日 06時06分20秒 | エッセイ
 近代化すなわち都市化によって全国が都市化していく中でむしろ「田舎」は都会と対照的に田園風景を保つ自然環境の魅力がクーローズアップされる。下関の壇ノ浦から源平合戦の海を眺めて生活するのは幸せである。しかし長くなるにつれて鈍感になるようである。むしろ風の強い朝鮮海峡の荒海に怖さを感ずる。
 私は拙宅へお客を迎える時、花を生けるのが常である。しかしそれに目を向ける人は少ない。しかも芸術専門の学者がきてもそれに関しては鈍感なような方が多い。研究室に専門の学者が来ても本に目を向ける人も少ない。ある博士候補者に研究書を見せても関心を示さないこともある。その関心の程度をもって私は教養人か、良い学者か判断する癖がある。
 先日拙著出版記念会で著書を配った時私の友人の印君が一番関心を持っていた。彼は朝鮮日報の編集局長を二期、傍系の社長をした人で、目下ニューデイーリの社長である。なるほど。韓国の有名な心理学者の崔臣海氏は食器を奇麗に飾った応接間を観察して食べ物に関心が高い人だと分析している。日常の行動からその人のお人柄もキャッチできるのである。

山口大学時間学研究所

2009年03月13日 05時30分00秒 | エッセイ
 山口大学時間学研究所々長の辻正二先生が萩の福祉大学の李文相氏と一緒に私の研究室に来られ、シンポジウム「東アジアと近代化」に関する打ち合わせを行った。時間観念は国家・社会のシステムによって異なる。私の関心は植民地の開発におけるカレンダーの導入に関するものである。11月21日の山口大時間学研究所主催の国際シンポで詳しく討論できることを期待している。
 時間観念は国家に限らず個人の人生観と強くかかわっている。個人の時間の設定と生活パターン、約束時間の守り方などはその人の生き方、つまり成功と失敗まで決定する要因にもなる。教授会などに習慣的に遅れる人は若い人に多い。その意味で時間の管理も年をとることによって成熟していくものと思われる。
 私は二十数年前に韓国の時間観念を分析した論文を書いた。それを発展させて東アジアにおける新暦、旧暦の使い方について拙著『韓国民俗への招待』(風響社)の中に書いた。その拙著を広島大学院の留学生であった張愛花氏が中国語に訳して出版した。その際、台湾のカレンダー部分について中国の行政から削られて本体が薄くなってしまってとても残念と思っている。中国では田舎の同好会のニュースレターまで行政がチェックするということを聞いたのでこのよう検閲は普通といえよう。

金賢姫

2009年03月12日 06時21分51秒 | エッセイ
 田口八重子さんの長男飯塚耕一郎さん(32)が、韓国釜山コンベンションセンターで金賢姫さんと初の対面をした。その中継画像を見ていて私は涙が出た。なぜこのように感動したのだろうか。解説を入れた繰り返しの映像を見ては感動しない。韓国のニュースでは感動できなかった。彼女は日本語で「抱いてみていいですか」と言い、耕一郎さんと抱き合い、涙をぬぐった。記者会見では韓国語で話したのは硬く感じて、日本語の方がより感動的であった。
 金さんは元工作員であり、大韓機爆破犯人であったが特赦で許され、韓国人と結婚し、クリスチャンとなっている。私は朴・全大統領時代は政治的デッチアゲ事件が多かったのでこの事件も本気で信じていない。この事件に関しては韓国のカソリック神父115人がデッチアゲ説を発表したことが問題になっている。その事実はまだ明らかにはなっていない。
 私が感動したのは息子が母親との縁の深かった人に会う場面である。私は自分の母が亡くなって暫らく後に母の友人に会って泣き崩れたことを思いだした。耕一郎さんが金さんに会う場面が私にとっては自分の母へ感情を投影して泣いてしまったのである。 

花粉症

2009年03月11日 06時08分00秒 | エッセイ
 この季節には風邪が流行する。その「風邪」を例にしてみると日本語では風の「邪」と病的現象として韓国人より強く感じているが、韓国語では 風邪は「感気」といい、気候の変化を軽く感ずる「換節期」の現象と思われる。言葉で文化を説明することは理屈ぽっく思われがちではあるが、花粉症は日本的な環境からの病的現象ではなかろうか。
 どの事務室にもマスクをした人が多いと思ったら花粉症のためであるという。花粉といえば花と蝶や蜂の世界と思ったが日本では環境病のような、文化病のようにも思われる。花粉とは森林が豊富な自然環境をさすが、無菌状況で育ったアレルギー体質ではなかろうか。私からみると贅沢な病的現象のように感ずる。花粉症に苦しんでいる割合は都市圏で高く、花粉症が“都市型の現代病”であることがうかがえる。花粉とは対照的な現象が黄砂である。黄砂の長い中国では痰を吐く唾器を置くのが普通である。それは病的現象とは思われない、自然な生理現象と思われるのである。自然に対処、順応するのが文化であろう。花粉症で苦しい人も頑張ってほしい。
 


野球韓国に負け

2009年03月10日 05時32分33秒 | エッセイ
 私はスポーツが全くできない。好きでもなく、むしろ否定的であり相撲の中継以外は視聴することは少ない。しかし昨夜の野球視聴は最後まで緊張して心から韓国を応援した。この事実は自分自身も思議に感じてる。まず私がなぜ韓国を応援したかが分からない。通例私はどちらでもよい、面白さでゲームを見る感じであった。しかし今度は違う。韓国側を決めて応援したのである。それはおそらく野球などのスポーツが文化一般で圧倒的に優位であり、特に野球一色のような日本のスポーツに反感を持っているからであろうと自己分析している。「サムライジャパン」がWBCで韓国に負けた。
 これを契機に私はスポーツへの理解に努めようと思う。野球は長い時間、ゆっくり進行するゲームと思ったが、秒のゲーム、カメラのシャッターのゲームのように感じ、技術は作戦までびりびり心理的に伝わる。面白さを実感した。ゲームは敵対から成り立つが相手を憎まない。むしろ相手を理解する。ゲームオーバーから日韓関係に関する感情を体験したような感さえある。その観戦のさなかソウルの恩師から珍しく私の新著を褒める電話があって緊張はさらに高ぶる瞬間瞬間であった。

「烏飛梨落」

2009年03月09日 06時29分43秒 | エッセイ
 民主主義の根幹は政権交代と思われるが、北朝鮮では3代も相続しようとしている。日本では戦後自民党が一時を除いて連続している。政権交代の期待へと国民の世論も向いている中、小沢氏の秘書が不正疑惑で逮捕された。とても残念である。中学校の時、韓国で民主主義を勉強した私は、李承晩大統領との対立候補である申翼煕氏を熱烈に支持したが選挙運動中に死亡してしまい、とても残念だった。朴大統領の時は金大中氏を弾圧して独裁政権が続いたのはご存じのとおりである。
 日本の検察と政権とはどのような関係であるから知らなくとも韓国での経験を持っている私にとっては何らかの政権維持手段としてのでっちあげのように思われ、古い韓国の悪い政治の再販ではないかと思ったりする。もしそれが若干の事実を火種にした政治劇だとしたら日本の政治は韓国よりはるかに遅れていることになる。しかし「烏飛梨落」という言葉のように偶然の偶然であるかもしれない。検察が政治を動かすのはその存在感のためではないのだろうか、単に仕事を忠実にしているに過ぎないのだろうか。国民は綺麗な政治を期待している。

ツアー客への落とし穴

2009年03月08日 06時18分25秒 | エッセイ
 今、円高で韓国への旅客が多い。韓国は日本人客によって商売繁盛している。家内は日本人同行者たちを案内し、通訳してあげた。この韓国ツアーの最後の帰りに旅行社の送迎バスに乗った。仁川空港の近い所にキムチセンターがあり、案内された。地下のスーパーには既に日本人客がショッピングをしていた。全店日本の円で定価が表示されていた。その価格は日本の商店やスーパーなどの値段と同様であった。空港の値段よりもはるかに高い。そのキムチセンターというところは値段感覚の鈍い初旅行者を騙す落とし穴であった。
 海外旅行のツアーに参加すると旅行会社が決めた食堂、商店のなどに案内され、買わされた経験が多い。初めて旅行する人はその観光地の事情に詳しくないから旅行社に託して、効果的な旅行ができると思う。しかし後から騙されたことが分かったことも多い。観光とは文化産業としているはずであるが悪い商魂が知らされるとその事業は危機に直面することもあるだろう。いかに日本人が急増するとはいえ、無理に落とし穴を設置することは良くない。心からもてなし、よき文化を見せる観光を維持してほしい。

定年した人の話

2009年03月07日 05時54分36秒 | エッセイ
 ホテルで久しぶりに友人や知人に会うために4組の客を迎えて談話を交わした。定年して悠々と生活をしている人はより若帰り、元気な生活の話が多かった。他の人には話せないといいながらいろいろな人の話が続いた。昔同僚であった郭氏の話である。彼は人生観を変えたという。昔良い弟子と思った人から何の音信もないことに背信感を感じていると言う。私の恩師は「木も古木になると普段はよく飛んできた鳥も来なくなる」という民謡のエッセイを書いたことを思わせる話が多かった。それを返すように私の広島大学の女弟子で韓国の大学で日本語の教師をしている中村八重氏が遠くから来て、夕食を共にして夜遅く夜間高速バスで帰った。また遠くから夜遅く出発して今朝の食事をどもにする予定の弟子も来る。私は幸せな者と思う。
 郭氏は山登りから感じた話を登る時は腰を曲げながら歩くことの意味を解釈した。謙遜な人が頂上まで登れることも今になって悟ったと言う。私はその「謙遜」ということを自問してみる。単に出世の計略として謙遜ぶる人は神様から罰されるのではないだろうか。一行の一人の村岡氏が八〇歳の誕生日を向かえ、祝ってあげた。彼女は純粋な心から祝されたことに感動して祈った。先の背信感の話とは対照的な時間であった。

出版記念会で「感謝牌」をいただく

2009年03月06日 05時46分53秒 | エッセイ
 ソウル仁川空港に着き、出版社の社長の運転で出版社へ向う車内で新著『映像が語る植民地朝鮮』をはじめてみた。感動した。編集者などに感謝、激励してから和食を御馳走になった。夕方、フグ料理の食堂で行われた晩餐会は出版記念会で韓国国立国樂院から伝統音楽発展へ寄与したということで「感謝牌」をいただいた。日本から6人が参加したのに本意ではなく、和食になってしまって韓国料理を期待していたであろうと思い、申し訳なく思ったが本人たちは豊かな食事と日本で食べる和食とは一味ちがう和食を楽しんでいるようで内心ホッとした。韓国では和食が高級な方であり、日本人に合う日本式の方が良いと思って準備をして下さったようである。
 出版記念会は自祝会にしようとしたのが韓国国立国樂院と出版社の主催になってしまってご迷惑をかけてしまったがとても嬉しかった。参加者の中には下関教育院長を長く勤めて二月の末に帰国した李永松氏夫婦が参加して嬉しかった。本を書いたり仕事をするのも「愛情活動」と思うと言ってしまったがうまく表現できなかった。つまり、利害関係を超えて仕事が好きでやってきたことを言いたかったのである。

留守と愛犬ミミ

2009年03月05日 05時35分11秒 | エッセイ
 今日我が夫婦は二泊の予定でソウルへ向う。2人の教友の村岡、野口の両氏と同行、家内の姉夫婦は東京から出発し、ホテルで会うことになっている。仁川空港には出版社の社長や弟子などが迎えにくる。拙著出版祝賀晩餐会に参加するためのソウル行きである。愛犬ミミちゃんが留守をするようになるが、それが問題である。毎晩一緒に散歩をする隣家の友人の園田氏と教会の犬好きさんの堀氏からミミの面倒を見てもらうことにした。犬の食べ物、散歩の時はどうするか、昼と夜はどうするか昨夜遅くまでその打ち合わせが行われた。今月いっぱいで愛犬保険が切れると電話があった。ミミちゃんに関することがこんなに多く複雑であると気がついた。
 犬は好きでも旅行の時犬の留守が大変とか犬が死ぬ時を考えると犬を飼うのができないという人は多い。その話を聞く度に「だから飼うべきだ」と言葉を返す。愛するということは複合的である。愛は若い時とか健康な時とか、美しい一面だけではない。愛には悲しみや病弱、悩みと恥、闇の生活も含まれている。それが愛する者と生を共にする運命ともいえる。しかし愛の行動は圧倒的に幸せが多いであろう。

古物か 文化財か

2009年03月04日 05時16分18秒 | エッセイ
 東京駅前の東京中央郵便局の保存をめぐり、鳩山邦夫総務相が保存を主張している。一方日本郵政の西川善文社長は再開発計画を予定通り進める考えを明らかにした。総務相が文化庁や文化人を代表するような発言をしているのは違和感がある。
 開発と保護の対立問題は常にある。これは文化財の破壊問題にもなりかねない。基本的な思考は古物か文化財かという価値観の問題である。郵政民営の商業精神を優先して国が手放した資産運営に干渉する形になってしまった。韓国では国宝一号の南大門の下に地下鉄を作ろうとしたときのソウル市と文化財管理局の対立に似ている。韓国は朝鮮総督府の庁舎も壊した。それは開発のためと言うよりは反日感情によるものであった。私は当時の韓国人の判断は間違ったと強く思っている。
 鳩山氏の「金で買えない文化財の価値」云々と言うことを聞いても半信半疑になる。文化cultureとは広義では「生活様式」全般を指すので、新しく建てる建造物も文化財にもなりうる。「古物」か「文化財」かをよく考える機会になった。
  

東洋経済日報にエッセイ連載

2009年03月03日 06時01分13秒 | エッセイ
 東洋経済日報にエッセイを連載するようになった。第1信として「黒人大統領」と題して次のように書いた。
                                  
 私は最近『差別を生きる在日朝鮮人』という本を上梓した。私もニューカマーのひとりとして在日の生き方に関心をもって深く考えて書いたものである。差別意識をもって隠れたり抵抗したりするような「差別に生きる」という意味ではない。私が題とした「差別を生きる」というのは差別者に焦点を当てず被差別者、つまり在日の自我egoが差別を越えて超然とし、自然な人間として肯定的、積極的な生き方をすることを意味する。しかし在日からは理解してもらえず反響も良くはなさそうである。
 私は世俗社会を悲観的に見ているが、アメリカのオバマ大統領の出現を見てそこに正義があるという大きなメッセージを受け取っている。アメリカの黒人は奴隷制や悲惨な移民の子孫である。その差別はいまだにきれいに清算されてはいない。西洋人により新大陸の発見、植民地化、奴隷制度、独立戦争の歴史の流れに、リンカーン大統領の奴隷解放、黒人差別に対するキング牧師の非暴力抵抗運動、そして黒人のオバマ氏が大統領になった。その世俗から黒人大統領が雨後の筍のように聳えて出た。私は選挙演説を聞きながら大いに拍手をした。
 私はアメリカの大統領の選挙に関して強く関心をもって演説やスピーチをゲームのように楽しんだ。今度の選挙は特に女性と黒人の候補の対決から始まった。私はそれを政策の次元を超えた大革命のような社会運動として見ていた。最終的に黒人のオバマ氏が勝利した。「私には夢がある。かつて奴隷であった者たちの子孫と、かつて奴隷主であった者たちの子孫が、兄弟として同じテーブルにつく時がくるという夢が。もしアメリカが偉大な国であるのなら、これは実現されなければならない」というキング牧師の夢"I have a dream" が叶えられたのである。私はキング牧師の演説とオバマ氏の演説をオーバーラップしていた。私はこの夢を在日朝鮮人に持たせたい。その夢は過去や祖国ではなく、未来と正義である。
 それは単に「黒人」の勝利と誤解されやすい。それは黒人が白人に勝ったという意味での勝利ではない。黒人自身との戦いの勝利であり、人種や性別を超えたアメリカ国民の勝利であろう。キング牧師は黒人自ら劣等感を問題としたことに注目すべきであろう。彼は黒人自身の意識の変化を訴えたのである。
 オバマは就任演説で次のように語った。「なぜあらゆる人種や信条の男女、子どもたちが、この立派なモールの至る所で祝典のため集えるのか。そして、なぜ60年足らず前には地元の食堂で食事することを許されなかったかもしれない父親を持つ男が今、最も神聖な宣誓を行うためにあなた方の前に立つことができるのか」
 ここで父は差別の象徴的な世俗的な存在、子はそれを乗り越えた聖なる存在としている。父子は単純な対置ではなく、父から子への変化、アメリカ社会の変化、まさにチェンジを意味する。



宝石

2009年03月02日 06時13分54秒 | エッセイ
 百貨店に行って高価な宝石陳列台に目が届くことはない。私は宝石には全く関心がない。それは私の無知である。文化財の仏像に宝石が光っていてもその評価もできないかもしれない。宝石の中に額に打ち込められたものや指輪などが光る。当然視線が届く。社会的にも指輪は婚約や結婚の約束など意味を持つ。韓国では富や社会的地位を象徴するものであり、富家の老婆のものに高価なものである。
 しかし指輪に関する関心は男と女の差が激しいと思う。一般的に多くの男性(?)は女性の指輪までには視線が届きにくく思われる。女性の化粧は人に見せるという意識が強いと言えるならば、指輪は女性自身が日常的に自分の目で見ることができるから執着しやすいと思う。私は指輪には価値評価が粗末であり、家内にも高価なダイアの指輪をあげたことがない。それは残念と思われるかもしれないが、私はファッション以外の意味合いを納得していないからである。これは家内の心の宝石を見ても、女性としての心を十分理解していないことになるだろう。