崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

朝鮮飴

2009年05月04日 05時38分53秒 | エッセイ
 福岡読売新聞に転勤された南氏から朝鮮飴をいただいた。日本の菓子などが甘すぎると不満が大きい私であるがこの甘物には特別な味を味わっている。それには私にとって特別な意味があるからである。飴は我が家には常にあったものである。父が胃腸病を持病としていた。母は飴を作って水飴を壺にいれて和紙の蓋をして棚の上の物入れの所に秘かにおいており、父に山奥の檀の花の乾燥したものを混ぜて食べさせていた。私は母に言わず、手が届かないので枕を足台にして秘かに食べてみたこともある。それは民間医療の薬であり母親の愛情の宝物であった。それにも関わらず父は朝鮮戦闘中52歳で亡くなった。
 母は毎年冬に高粱を使用した淡褐色の黒朝鮮飴を作った。それは私にも今でもすぐ作れそうな方法である。わが家には高粱畑があった。赤いキビ粉を麦麹と水に混ぜて溶かして大きい釜に入れて5,6時間煮詰める。固い飴の前に壺に入れたものが水飴である。母は例の水飴を取ってから焼き豆やゴマなどを混ぜて冷まして固める。やがて自家製が少なくなり大きい鋏を鳴らしながら飴売りが民家をまわることもあった。その風景は懐かしく、今は韓国で伝統芸として演じられている。終戦直後米国産のカンに入ったドロップ飴を食べてみてその美味しさに驚いた。韓国や日本はアメリカの飴玉に惚れてアメリカが好きになったのではないだろうか。西洋植民地の熱帯地方の砂糖やゴムはプランテーションの重要項目であった。今では我々がその甘い物を深く考えずに乱用している。