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芭蕉の俳句(131)

日曜日、。麗日。

今日は、銀行に午後行っただけで、自宅で仕事に専念。食事のときも、口調が「分類枠組」などと、ドイツ語っぽくなって苦笑。こんな日本語にしているようじゃアカンのだが。



うきふしや竹の子となる人の果   (嵯峨日記)

謡曲「小督」を踏まえた句。元禄4年作。「嵯峨日記」4月19日の条に、「松尾の竹の中に小督屋敷と云ふ有り。…墓は三間屋の隣、藪の中にあり。しるしに桜を植ゑたり。かしこくも錦繍綾羅の上に起臥して、終に藪中の塵芥となれり。昭君村の柳、巫女廟の花の昔もおもひやらるる」とあって、この句が出る。「うきふし」憂き節で竹の節と掛けている。

一読したときには、感興は湧かなかったが、「小督」の物語を知った上で、再度、読み返すと、哀感が迫ってきた。佳人の果てが竹の子になるというところに俳諧味があり、貞門談林とは違った蕉風の笑いがあると楸邨は言うけれど、小督の話は、とても笑いを取るような話しじゃない。笑うとしても、息を抜くように、「クスっ」としたものだろう。哀しさが柳や花のような美的なものに昇華されるのではなく、竹の子という身近で庶民的な、かわいらしいものに昇華されたことで、小督が俗の中に救済されたように感じた。
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