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芭蕉の俳句(135)

水曜日、。大枚をはたいて、『飴山実俳文集』の購入手続きを済ませる。これまで、芭蕉を中心に検討してきたが、主宰やその系譜の俳人たちの俳句と文章も本格的に検討していきたいと考えている。午後、久しぶりに、泳いできた。雨でガラガラだった。すっきりしますな、体を動かすと。



憂き我をさびしがらせよ閑古鳥  嵯峨日記


■元禄4年作。この句は、憂鬱な自分をさびしがらせてくれ、閑古鳥。という理解で、どうもよくわからなかった。つまり、<憂愁×寂しさ>で、余計、ひどいことになるじゃないか、と思っていたのだ。調べてみると、どうも違うらしい。「憂し」という言葉と「さびし」という言葉は、マイナス同士の言葉じゃないらしい。マイナスはマイナスなのだが、「さびし」に芭蕉は、プラスの契機を見ていると言った方がいい。それは、嵯峨日記の前文を読むと、「さびし」の用例がプラスに使われていることからわかる。

二十二日 朝の間雨降。けふは人もなく、さびしきまゝにむだ書してあそぶ。其ことば、

 「喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飲ものは樂あるじとす。」「さびしさなくばうからまし」と西上人のよみ侍るは*、さびしさをあるじなるべし。 又よめる

山里にこは又誰をよぶこ鳥

   獨すまむとおもひしものを*

 獨住ほどおもしろきはなし。長嘯隠士*の曰、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と。素堂此言葉を常にあはれぶ*。予も又、
うき我をさびしがらせよかんこ鳥

(うきわれを さびしがらせよ かんこどり)

とは、ある寺に独居て云し句なり。

芭蕉や西行にとって、「さびし」とは自分としずかに対話できる充実した時間だったのかもしれない。閑居という言葉が似合いそうである。
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