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芭蕉の俳句(137)

月曜日、。春寒。

週の前半、子どもが、朝早く出るので、夕食をぼくが担当している。なるべく早く寝かせる必要があるからだ。若鶏の味噌漬けを焼いて、春キャベツをチンしたものとマヨネーズで和えた。味噌汁は、煮干を20分漬けてだしを出し、化学調味料で、味を調えて、えのきと、豆腐と、葱を具に使った。この2品は、かなり評判良し。後は、ホウレン草のおひたし。これは家人に応援を頼んだ。

某俳人(あえて名を伏す)は、皿などはみんな白いもんであるから、「真白なる皿」というのは、言葉の重複だとかつて語ったが、実は、こういう発想しか出てこないのは、料理を家族のために作ったためしがないからなのである。皿は、その料理をどう旨そうに見せるか、重要なポイントで、色も形状もさまざまある。盛り付けと皿は、料理の重要な要素なのである。



能なしのねぶたし我を行々子  嵯峨日記

「ねぶたし」は「ねむたい」。行々子は葭切(ヨシキリ)のこと。夏の季語。文法的には、あるいは意味の上では、能なしのねぶたき我を行々子となるはずである。切れると切れないのでは、どんな違いが出てくるのだろうか。新編古典文学全集 松尾芭蕉①では、能なしの「し」、ねぶたしの「し」、行々子の「し」で韻を踏むためと、言い切りで語勢を強めていると理解している。一方、楸邨は、「能なしのねぶたし」我を行々子と独創的な解釈である。つまり、「」内は、芭蕉の独り言だと言うのだ。能なしの上に眠いときている。そんな俺の眠りを妨げるなよ、行々子よ。

後の一茶に繋がるような感覚を感じた。ぼくも、ある意味、能なしで、眠るのが趣味なので、共感しましたな。
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