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芭蕉の俳句(133)

金曜日、。春疾風

昨夜の深夜に、どこぞの馬鹿が、駐車場で車のトランクの開け閉めを爆音立てて行うものだから、目が覚めてしまい、それきり眠れなくなった。構造上、よく響くような建物の造りになっているのだ。こういう人間の馬鹿は、動植物にはいないですな。同じ馬鹿でも偉大なる馬鹿はこうしたことはしませんな。次回の理事会で、問題にして、対策を講じようと思っている。



柚の花や昔しのばん料理の間   (嵯峨日記)

元禄4年作。「料理の間」とは料理を調える部屋。古今集に五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞするがある。「花橘」が「柚の花」に、「袖」が「料理の間」に転じられている。比較してみると、和歌の美意識が俗の中の美に変化していて、やはりくすっとした笑いが洩れる。この花橘の歌に出てくる「昔の人」というのは、一般に昔の貴人を指すと思っていたが、調べてみると、作者にとっての特定の昔の人のことらしい。そうなると、演歌的な叙情という気もしてくる。俳句で「むかしの人」と言うと、やはり昔関係のあった愛人や恋人と言った意味になるのだろうか。

浅蜊鳴くむかしの人は胸に栖む 石原八束 『仮幻』

これなどは、恋人・愛人という気もするし、一般にあるいは特定の古人という気もする。

白川結城氏城址
すヾしさやむかしの人の汗のあと  正岡子規

これは、古人を偲んだ句で、恋人ではないだろう。

芭蕉のこの句、嵯峨日記4月20日の行に、「落柿舎は昔のあるじの作れるまゝにして、處々頽破ス。中々に作みがゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とヾまれ。彫せし梁、畫ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ、竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ、」とあって提出される。芭蕉の場合も、料理部屋で偲んでいるのは、古人の生活であって、恋人ではない。

ところで、芭蕉が滞在していた去来の別荘・落柿舎には、柿が40本ほどあり、完全に実ることなく、落ちてしまうので、落柿舎と名づけたと言われている。しかし、昔何度か行った実物の落柿舎は、かなり狭かった印象がある。昔は違ったのか、それともぼくの見当違いなのか。いつか、もう一度、確かめてみたいと思う。


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