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芭蕉の俳句(136)

木曜日、。終日、仕事。最近、フルトヴェングラーの1951年のライブ録音で第九を聴いた。この録音は、以前から知ってはいたが、どうも古くて躊躇してきた。今回、聴いてみて、現代の指揮者の演奏と根本的に違うと感じた。音楽を聴いて、泣くことはある。けれど、その場合、音楽に触発された回想やイメージに泣くのであって、音楽そのものに涙するのではない。そこには時間差が生まれる。フルトヴェングラーのこの演奏は違う。音楽と同時に泣くのである。気がついたら、涙が出ているのだ。第九は、何人かの指揮者の録音で聴いてきたが、ここにこそベートーヴェンがいる、そんな感じを受けた。



一日一日麦あからみて啼く雲雀   嵯峨日記

元禄4年作。一日一日と時間の経過を詠んでいるところに面白みを感じた。これは、リアリズムの句であろう。麦が一日一日あからんでいく状態を言った句なので、麦秋で夏。芭蕉は、季重ねを縦横に駆使する句が多い。
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