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解酲子飲食

日曜日、のち

午前中、図書館で雑誌のコピーをして、午後、句会の選をしたのだが、なかなか決まらず困った。その後、掃除、散歩。図書館に行く途中の橡の木の街路樹が黄緑の新緑で、光が優しい。

昨日、詩人の倉田良成さんに『解酲子飲食』(倉田良成著 開扇堂 2003年)をいただいて、昨日、今日で一気に読んでしまった。一気読みするほど、面白かった。倉田さんの博学にも驚くが、自らの舌を使った経験の数々は、広範囲におよび、しかも面白く、飲食の思想を感じさせる。正直言って、その経験には、妬ましささえ感じる。ぼくは、どちらかと言えば、下戸で、飲食の経験はかなり限定される。句会などの帰りに飲むのが関の山で、一月に1回、多くて2回程度しか、飲まない。そういう人間からすると、飲食の世界は奥深いなあ、とつくづく思う。

それでも、読んでいると、不思議に上機嫌になっていく。これは、たぶん、ここに語られている事柄が、上質な快楽の経験であるからだろう。俳句をやるようになって、上質な快楽の世界が人を自由にすることに気がついたが、『解酲子飲食』は、その意味で、散文で書かれた俳句という趣がある。

他方、散文ならではの批評もあって、飲食から観た、社会のありようも浮き彫りになっている。

ふりさけみれば、肉がご馳走でなくなったのはいつのころよりか。マグロの刺身に心ときなかなくなったのはいつからか。すべてハレとケの境目が曖昧になってきているからである。成人戒(イニシエーション)の本来の意味が失われて、「大人」のカラーコピーみたいな子供や子供みたいな大人が世を席巻するようになってきたのもこのことと関連があるだろう。そのいっぽうで、ほんものの野菜や魚の味わいに驚嘆するようなことがあるが、これも本来われわれが拠って立つべきケの領域が文明という名の野蛮さに侵食されつつあることを意味している。日々の辛苦の果てに爆発的に訪れるのがハレであり、毎日ディズニーランドへ行っていたらおかしくならないほうがおかしい。(『同書』pp.188-189)


同感である。この本で、いろいろ、旨いものを知った。すぐにでも作れそうな料理もあって、なんだか、旨いものをたくさん食べた感じである。

旨きもの数へて春のよき日かな   冬月
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