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飯田龍太

木曜日、。久しぶりに晴れたので、洗濯物がよく乾いた。午前中に、仕事を終らせて、午後、昼寝。その後、飯田龍太の特集を組んだ「俳句」5月号を読む。編集部が選んだ龍太200句を読むと、明朗な伝統系と見られることの多い龍太だが、同時代の憂愁の色彩も混じり、ときに前衛のような顔も見せる。意外に、観念性といった資質もあわせもっていたのではないか。

その200句から選をしてみた。

春の鳶寄りわかれては高みつつ

野に住めば流人のおもひ初つばめ

抱く吾子も梅雨の重みといふべしや

わが息のわが身に通ひ渡り鳥

露の村墓域とおもふばかりなり

花栗のちからのかぎり夜もにほふ

ひややかに夜は地をおくり鰯雲

露草も露のちからの花ひらく

鰯雲日かげは水の音迅く

いきいきと三月生る雲の奥

百姓のいのちの水のひややかに

山河はや冬かがやきて位に即けり

新米といふよろこびのかすかなり

大寒の一戸もかくれなき故郷

月の道子の言葉掌に置くごとし

湯の少女臍すこやかに山ざくら

雪山のどこも動かず花にほふ

春の雲人に行方を聴くごとし

ねむるまで冬瀧ひびく水の上

落葉踏む足音いずこにもあらず

生前も死後もつめたき箒の柄

父母の亡き裏口開いて枯木山

子の皿に塩ふる音もみどりの夜

一月の川一月の谷の中

かたつむり甲斐も信濃も雨のなか

白梅のあと紅梅の深空あり

たのしさとさびしさ隣る瀧の音

葱抜くや春の不思議な夢のあと

なつかしや秋の仏は髯のまま

花スミレこの世身を守るひとばかり

こころいま世になきごとく涼みゐる

闇よりも山大いなる晩夏かな

白雲のうしろはるけき小春かな

仕事よりいのちおもへと春の山

露の夜は山が隣家のごとくあり

百千鳥魚にも笑顔ありぬべし

涼風の一塊として男来る

蟷螂の六腑に枯れのおよびたる

春ときに緋鯉の狎れのうとましき

遠くまで海揺れてゐる大暑かな

編集部は選んでいない句で、追悼文の中にある句から

春すでに高嶺未婚のつばくらめ

雨音にまぎれず鳴いて寒雀

外風呂へ月下の肌ひるがへす

どの子にも涼しく風の吹く日かな

あるときはおたまじゃくしが雲の中

春の夜の氷の国の手鞠歌

花桃に泛いて快楽の一寺院

山青し骸見せざる獣にも

夏羽織侠に指断つ掟あり

月の夜の海なき国を柳絮とぶ


■追悼文では、金子兜太の文章と正木ゆう子の文章が面白かった。兜太は、俳句の「深み」について、正木ゆう子は「高み」について、一つのアプローチを示している。とくに正木の言っていることは、芭蕉の軽みそのものと思われた。
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芭蕉の俳句(138)

木曜日、

漱石日記(岩波文庫)読了。この中では、「ロンドン留学日記」が一番面白かった。大正3年家族日記になると、ほとんど病気だと思う。被害妄想が膨らんで、女中や奥さんの言動のいちいちを悪意に取っている。これでは、統合失調症になってしまうだろう。頭の良すぎる人は、運動したり、世界を複数持つことで、心身のバランスを取った方がいいのだろう。大正5年最終日記に書かれた言葉;

倫理的にして始めて芸術的なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり。



五月雨や色紙へぎたる壁の跡  嵯峨日記

「へぐ」ははがすの意。ある意味、往時と現在を比較して、現在のうらびれた侘しさに趣を感じているのだろう。こういうところに注目する感性は、廃墟に魅力を見出す感受性と近い。過去と現在の比較という意味では、時間の二重性が見られる。五月雨との取り合わせの妙と時間の感覚に惹かれた。
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