診療報酬は、前にも述べた通り出来高払い制となっており、この他に病院ごとに機能別に加算点などがあります。また、小泉首相の指示で、混合診療の解禁に向けて変化が出てきています。混合診療については医療機関側が主に反対の姿勢をとっており、これは医療を受ける患者側の条件(お金がある人とない人という)によって、受けられる医療内容に差ができてしまうことを危惧しているようです。
(私は他の記事でも触れているように、医師ではありませんので正確な実情を全て知っているわけではありません。概ね知人の医師や本、報道などから知りえる情報をもとに考えていますから、間違った点とかがあるかもしれません。明らかな誤りがあればご指摘をお願いします。)
また、今後の流れとして混合診療を容認するということになれば、政府は財源不足を理由に診療報酬のキャップ性を導入しやすくなるということも考えていると思います。超過分は全て患者負担に回そうとするという意味です。
現在の個人における健康志向や健康・医療にかける費用は最も優先的に考えられており、読売新聞の調査でも(今正確な資料がないので記憶のみです、ごめんなさい)娯楽より、健康関係に費用を配分する傾向が見られます。そして今後の趨勢としては、患者の意志を尊重した医療の選択性が高くなることが確実であり、その意味においては混合診療の導入は必ずしも非難されるべきものではないでしょう。
このような背景があることを念頭に、診療報酬の抜本的改革をどうするか考えてみたいと思います。
私は、報酬を大きく2つに分けて考えるべきであると思います。一つは医師個人にかかる人件費部分、もう一つは手術、治療行為や薬剤にかかる費用です。
分けて考える理由について説明します。
現在各医療機関には医師が存在していますが、それぞれの力量が全員一様であるとは誰も信じていないでしょう。しかしながら、行政の考え方は国家資格を許可する以上全員同じ条件でなければならないのです。実際には医療過誤などで実力不足による過失が問題になったりしますね。経験豊富ではない先生が下手に手術を行えば過失認定がなされる可能性があるのです。通常は大きな病院や特別な専門病院、大学病院などで実力をつけるためにトレーニングします。指導するベテランの先生がいて、その下で早く言えば修行するということです。そのような中に置かれて実力がついたら、徐々に自分で出来るようになり、今度は自分が下の先生たちに教える立場となっていきます。どこの世界でも似たようなところがあると思いますが、医師においてはこの修行が長きにわたり必要で、ある意味永久修行状態ですね。そうでないと医療の進歩に取り残されるからです。これを怠ったり、実力十分ではないのに無理なことをやろうとすると、問題が起こってしまいます。インターンとか研修医のような実力の乏しい医師なども同様にひたすら修行しなければ、1人である程度できるようにはなりません。
このような研鑽システムであっても、診療報酬には教育に関する費用は含まれません(研修医の無給や過酷な労働環境について問題になり、国から費用が少し貰えるようになったかもしれません)。
例で考えてみましょう。ある病院で手術をするとします。何でもいいのですが、仮に心臓手術としましょう。この手術を執刀医(一番手の先生)と助手(2番手の先生)が行うとします。これでも手術ができますが、修行の為にもう1人助手(3番手の先生)を入れることにしました。3人体制ですね。このうち、実力的に2番手の先生はそこそこ手術経験もあり執刀医も経験しているとしますと、3番手は必要ないのですが、腕を磨くには上手な先生の手術を何度もよく見て(初めは見て覚える必要があります。教科書でいくら勉強しても実践は違うということです)自分ができるように訓練しなければなりません。これを何度も繰り返し経験を積むと2番手のチャンスが巡ってきます。どんな名医であっても、「初めて」の経験や手術であることには違いがないのです。国家試験に合格したからといって最初から手術ができる人はいません。また2番手で修行して、経験を積んだら、最後に晴れて執刀医となる時がやってきます。執刀医となっても必ず一番手ができるような先生が助手として一緒に入り、常にフォローが可能な状態にしておくのです。このように何かの手術が出来るような先生を1人作り上げるには非常に長い時間と多くのトレーニングが必要なのです(ある種の徒弟制度のようですね)。
話を戻しましょう。このような状況では、3番手の先生は手術に必要ないが、将来の医療のためには出来るようにさせなければならないのですが、このコストは誰も払ってくれません。2人で手術しようが、3人で手術しようが、診療報酬は1つの手術に対して同じ費用が払われるので、収入には違いがないのです。そこで、効率的に経営しようと思ったらベテランだけを集めて、他の先生を全て排除した方がとても効率よく、また初めての手術など経験させる必要のありませんから手間も時間もかからないので、他の先生も楽です。でも、これを続けると日本の医療は崩壊するでしょう。ベテランが引退したあと、だれも出来る人がいなくなります。経験を積んだことがなければ、実力不足で医療過誤だらけになってしまうでしょう。これは診療科によらず、外科系でも内科系でも大体同じような感じでしょう。
ですから、誰かが面倒でも教育し経験を積ませ、一人前の先生(どのレベルか分りませんが)になるようにしてあげることが必要なのです。この下っ端の先生が多くいる病院(主に大学病院とかですね)ほど、経営的に苦しくなってしまうでしょう。お金がなければ、みんな教育することを避けるようになります。だって効率が悪い上に、人数が増えると1人あたりの取り分が減ってしまうでしょ?これをどのように考えるかです。国民としては、医療水準がある程度高くて、安心できる先生を望むと思うんですが、そのような先生は国家試験だけ合格しても養成することができないのです。
そこで、診療報酬について部分的に分けておくのです。医師一人あたりにかかるコストを医療機関ごとに支払うこととします。最低賃金くらいでもいいと思いますが、仮に年俸3百万としておきましょう(金額が妥当かどうかについては、もっと検討が必要でしょうが、考え方の理解のためと思って下さい)。
一つの診療科に5人いるとすると、合計千五百万を年俸分として医療機関に払います(異動とか辞めたりとかしたら、その月数分返してもらうこととします)。大学病院のような診療以外の業務(主に研究とか授業担当とか)に従事している人の分は払わないこととし、実際の診療に携わっている人だけを対象に払うことにします。教育機関としての役割が最初から備わっていますから、人数の区分を設けて(例えば10人以上ならそれを超えた人数分は1人2百万円に減額とかですね)調整が必要かもしれません。
これにより、各医療機関は先の例で見た「第3の先生」の存在を許容できるようになります。一応コストが部分的にでも支払われていると考えられるからです。
以前腹腔鏡手術で某医大付属病院の医師が3人逮捕が報道されていましたが、この時の手術は誰も経験がなく行ったとして過失が問われました。十分なトレーニングを積むことと、教育・指導体制や手術時のベテランのフォロー体制(何かトラブルがあった時の)が整っていなければ、このような事件が起こってしまうと言えましょう。
残りの部分のついての報酬は次に書きたいと思います。
(私は他の記事でも触れているように、医師ではありませんので正確な実情を全て知っているわけではありません。概ね知人の医師や本、報道などから知りえる情報をもとに考えていますから、間違った点とかがあるかもしれません。明らかな誤りがあればご指摘をお願いします。)
また、今後の流れとして混合診療を容認するということになれば、政府は財源不足を理由に診療報酬のキャップ性を導入しやすくなるということも考えていると思います。超過分は全て患者負担に回そうとするという意味です。
現在の個人における健康志向や健康・医療にかける費用は最も優先的に考えられており、読売新聞の調査でも(今正確な資料がないので記憶のみです、ごめんなさい)娯楽より、健康関係に費用を配分する傾向が見られます。そして今後の趨勢としては、患者の意志を尊重した医療の選択性が高くなることが確実であり、その意味においては混合診療の導入は必ずしも非難されるべきものではないでしょう。
このような背景があることを念頭に、診療報酬の抜本的改革をどうするか考えてみたいと思います。
私は、報酬を大きく2つに分けて考えるべきであると思います。一つは医師個人にかかる人件費部分、もう一つは手術、治療行為や薬剤にかかる費用です。
分けて考える理由について説明します。
現在各医療機関には医師が存在していますが、それぞれの力量が全員一様であるとは誰も信じていないでしょう。しかしながら、行政の考え方は国家資格を許可する以上全員同じ条件でなければならないのです。実際には医療過誤などで実力不足による過失が問題になったりしますね。経験豊富ではない先生が下手に手術を行えば過失認定がなされる可能性があるのです。通常は大きな病院や特別な専門病院、大学病院などで実力をつけるためにトレーニングします。指導するベテランの先生がいて、その下で早く言えば修行するということです。そのような中に置かれて実力がついたら、徐々に自分で出来るようになり、今度は自分が下の先生たちに教える立場となっていきます。どこの世界でも似たようなところがあると思いますが、医師においてはこの修行が長きにわたり必要で、ある意味永久修行状態ですね。そうでないと医療の進歩に取り残されるからです。これを怠ったり、実力十分ではないのに無理なことをやろうとすると、問題が起こってしまいます。インターンとか研修医のような実力の乏しい医師なども同様にひたすら修行しなければ、1人である程度できるようにはなりません。
このような研鑽システムであっても、診療報酬には教育に関する費用は含まれません(研修医の無給や過酷な労働環境について問題になり、国から費用が少し貰えるようになったかもしれません)。
例で考えてみましょう。ある病院で手術をするとします。何でもいいのですが、仮に心臓手術としましょう。この手術を執刀医(一番手の先生)と助手(2番手の先生)が行うとします。これでも手術ができますが、修行の為にもう1人助手(3番手の先生)を入れることにしました。3人体制ですね。このうち、実力的に2番手の先生はそこそこ手術経験もあり執刀医も経験しているとしますと、3番手は必要ないのですが、腕を磨くには上手な先生の手術を何度もよく見て(初めは見て覚える必要があります。教科書でいくら勉強しても実践は違うということです)自分ができるように訓練しなければなりません。これを何度も繰り返し経験を積むと2番手のチャンスが巡ってきます。どんな名医であっても、「初めて」の経験や手術であることには違いがないのです。国家試験に合格したからといって最初から手術ができる人はいません。また2番手で修行して、経験を積んだら、最後に晴れて執刀医となる時がやってきます。執刀医となっても必ず一番手ができるような先生が助手として一緒に入り、常にフォローが可能な状態にしておくのです。このように何かの手術が出来るような先生を1人作り上げるには非常に長い時間と多くのトレーニングが必要なのです(ある種の徒弟制度のようですね)。
話を戻しましょう。このような状況では、3番手の先生は手術に必要ないが、将来の医療のためには出来るようにさせなければならないのですが、このコストは誰も払ってくれません。2人で手術しようが、3人で手術しようが、診療報酬は1つの手術に対して同じ費用が払われるので、収入には違いがないのです。そこで、効率的に経営しようと思ったらベテランだけを集めて、他の先生を全て排除した方がとても効率よく、また初めての手術など経験させる必要のありませんから手間も時間もかからないので、他の先生も楽です。でも、これを続けると日本の医療は崩壊するでしょう。ベテランが引退したあと、だれも出来る人がいなくなります。経験を積んだことがなければ、実力不足で医療過誤だらけになってしまうでしょう。これは診療科によらず、外科系でも内科系でも大体同じような感じでしょう。
ですから、誰かが面倒でも教育し経験を積ませ、一人前の先生(どのレベルか分りませんが)になるようにしてあげることが必要なのです。この下っ端の先生が多くいる病院(主に大学病院とかですね)ほど、経営的に苦しくなってしまうでしょう。お金がなければ、みんな教育することを避けるようになります。だって効率が悪い上に、人数が増えると1人あたりの取り分が減ってしまうでしょ?これをどのように考えるかです。国民としては、医療水準がある程度高くて、安心できる先生を望むと思うんですが、そのような先生は国家試験だけ合格しても養成することができないのです。
そこで、診療報酬について部分的に分けておくのです。医師一人あたりにかかるコストを医療機関ごとに支払うこととします。最低賃金くらいでもいいと思いますが、仮に年俸3百万としておきましょう(金額が妥当かどうかについては、もっと検討が必要でしょうが、考え方の理解のためと思って下さい)。
一つの診療科に5人いるとすると、合計千五百万を年俸分として医療機関に払います(異動とか辞めたりとかしたら、その月数分返してもらうこととします)。大学病院のような診療以外の業務(主に研究とか授業担当とか)に従事している人の分は払わないこととし、実際の診療に携わっている人だけを対象に払うことにします。教育機関としての役割が最初から備わっていますから、人数の区分を設けて(例えば10人以上ならそれを超えた人数分は1人2百万円に減額とかですね)調整が必要かもしれません。
これにより、各医療機関は先の例で見た「第3の先生」の存在を許容できるようになります。一応コストが部分的にでも支払われていると考えられるからです。
以前腹腔鏡手術で某医大付属病院の医師が3人逮捕が報道されていましたが、この時の手術は誰も経験がなく行ったとして過失が問われました。十分なトレーニングを積むことと、教育・指導体制や手術時のベテランのフォロー体制(何かトラブルがあった時の)が整っていなければ、このような事件が起こってしまうと言えましょう。
残りの部分のついての報酬は次に書きたいと思います。