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「ゆとり教育」は何を教育したか

2004年12月15日 14時52分33秒 | 教育問題
かつて日本は世界的に見て教育水準が高いという評価を受けてきた。特に算数・数学、理科などは世界のトップクラスであったように思う。また、識字率の高さも日本の特徴であると思う。こうした、日本の優れていたところが失われつつある。経済分野での諸外国の追い上げだけではなく、教育分野においても世界の中での地位は低下しつつあるということである。




教育問題は非常に難しいと思っている。文部省(現文部科学省)が考え方を変えたら、現場はそれに合わせて変えていかねばならないが、あっちへいったりこっちへいったりされては、確かに混乱を招くだけである。おまけに教師の質の問題という面もあるため、教える側、教えられる側の両者が、何が何だかわからないまま時間が経過してきたような気がする。

教育の根源的な問題は、その時の社会全体というか大人たちの価値観に影響されることであると私は思う。教育現場の問題もあるが、それ以上に大人(親)たちが、学校教育にある種の幻想を持ち込んでいるような気がするのである。大人たちの価値観や社会の誤った認識(私はそう思っている)が、教育の混乱につながっているのではないだろうか。

親たちの一般的な願いは、よい学校にいき、競争に負けずよい大学に入り、よい会社に勤めるとか医者や弁護士になってほしいというようなものなのではないかと推測する。私も一人の親の立場として理解できなくもないが、そうした願いはごく限られた人々しか叶えられることがないということに気づくべきである(勿論私はこのような職業とは違います、残念)。その願いの根底には、拝金主義的な面が多いのではないかとも思っている。安定した生活をするにはお金は確かに重要な要素ではある。私もたくさんのお金を手に入れたいと思うし、成功を収めている人々は羨ましい対象ではあるが、そのことが何より重要とは考えていないし、人間として生きる上で全てを犠牲にしてまで達成すべきものとも考えていない。「負け犬の遠吠え」とか「負け惜しみにすぎない」と思われるむきもあろうかと思うが(笑)、自分の持てる能力についてはおよそ見当がつきますし、幸せに(私の価値観で)生活できればそれで十分満足が得られると思っている。

地位の高い人が犯罪者となっていくのは、誤った価値観が背景にあるのではないか。向上を求めるのか、更なるお金を求めるのか判りませんが、倫理や理性を超えて何かを求める結果であろうと思う。そんな結果を生じるならば、どんなにいい大学を出ようが、いい職業に就こうが、何の意味もなさないことは誰しも分かることであろう。多くの大人たちの心を支配しているのは、これと似たような欲望なのではないだろうか。

このような社会環境で子供達がそういう方向に進んでいくことを、本当に防ぐことができるのだろうか。親の立場としては子供の幸せを願うであろうが、もっと違った価値観を持てるように社会全体が変わっていく必要があると思う。世の中に「勝ち組」「負け組」なる言葉がよく使われるようになった。企業間の競争で主に使われていたが、今は個人レベルでも使用されており、リストラされる人は「負け組」とか大企業に就職すると「勝ち組」などと用いられている。これは大人たちが持つ価値観を如実に表わしていると思う。

若者達は自分が「負け組」に堕してしまうことに幻滅し、自分の価値を見出せないまま「負け組」に組み入れられることを拒否してしまう。周囲の大人たちは「勝ち組」に入れなかった若者に必然的に「負け組」のレッテルを貼り、あたかも人間そのものが「負け組」であるかのような評価を下してしまう。これに反発したい若者は「自分のやりたいこと」や「自分に合った仕事」という、大人たちの価値観に対抗する独自の価値観を掲げるのかもしれない。こんなことの繰り返しが今の状況を作り出したのではないか。

世の中はとてもよくできている。皆がデスクワークしかできないと家も建たない。漁師さんがいないと新鮮なお魚も食べられない。清掃してくれる人がいないと駅やデパートのトイレはひどく汚い。ゴミ回収の人がいないとゴミの山に埋もれて暮らさなければならない。農家の人がいないとおいしい果物やごはんも食べられない。今更こんなことを言うのも気が引けるが、こうしたごく当たり前の感覚が消失してきているのではないのか。皆が良い大学を出て、お医者さんになっても何の意味もない。そんな人々だけで社会が成り立つわけではないにもかかわらず、それ以外の価値を見出せないならあまりに愚かなことであると思う。

社会はその構成に多様性があることによって成り立っており、そのこと自体に価値があると思っている。人間の体でいえば、脳だけあっても生体としては機能を保てないし何も出来ないことは自明であり、手もあれば足もあり、髪の毛であったり睫毛であったり、心臓であったり血管であったり・・・・そういうものが総合的に作用して複雑な仕事やスポーツや勉強やさまざまなことができる一人の人間となりえるのである。爪を失った人は生きていける。でもいらないと思う人はほとんどいないであろう。人体において生命維持に絶対的に必要であるとは限らない部分もある。社会でもそうである。例えば演劇や歌謡曲(今は使わないか。古いですね)が無くても生きていけるが、あると豊かに生きていける。

こうした多様性に支えられている社会は、それぞれに意味や価値があるということに大人たちの多くが気づいてほしいと思う。新潟中越地震で、地域の人々が復旧に向けて努力している姿が報じられていたが、その中で非常に感心したことがあった。ある場所では、道路が不通となっていたのだが、地域住民が協力してその道路の横に応急的に車両が通行できる道を作っていた。ショベルカーなどを操作できる人や土木作業になれている人々が中心となって、行政の手助けが間に合わなくても、自分達にできることとして復旧に貢献しているのだ。また、ある場所では、住民達が協力して避難場所にシャワー設備を作っていた。あり合わせの材料や配管技術や水道設備の技術などを工夫して、力を合わせたらできることもあるのだと教えてくれた。このような事態の時に役立つことは、やはり人間の多様性であると感じた。みんながエリートサラリーマンだったら、うまく出来なかったであろうと思う(笑)。

だから、勝ち組の職業という価値観なんて本来必要ないし、いつどのような時に人間の能力が役立つかなんて分からない。その人の価値を決めることは、それほど簡単なことではない、とも思う。他人を羨む気持ちが多いであろうことはわかるし、私もイチロー選手みたいになれたらどんなにうれしいだろうと思うが(絶対無理ですが)、本人にしかその苦悩や嫌なことは分からないであろう。キムタクみたいにモテモテな男だったら嬉しいが、その辛さは本人にしか分からないであろう。テレビで、ある人間国宝の方が「自分に合っている仕事かどうかわからない。これまでの仕事が本当に最良かもわからない」というような趣旨のことをおっしゃっていた。何十年も続けてきたその道の達人がそのように言うのであるから、そうなのか、と思う。私には到達できない境地であるが、真実なのではないかと感じる。「自分に合う仕事」を見つけることは、一生かかっても分からないかもしれないのである。

社会の多様性を認めることこそ必要な価値観であると思うし、それぞれの個人が社会の中で何らかの役割を果たそうとすることに意味があると思う。やっている仕事に誇りを持って臨むことができれば、「爪」の一生であったとしても「脳」と同じ価値があると思う。

異常な長文となってしまいました。読んで頂いた方には感謝いたします。教育から逸れてしまいましたが、このような価値観が社会に認識されるなら、別な教育方針があろうかと思います。次に書いてみたいと思います。




今日の妻4

2004年12月15日 02時25分55秒 | 俺のそれ
最近の記事は堅い内容が多かった(私個人がそう思うだけかもしれませんが、笑)ので、久々に書いてみます。




今の家族の関心事は、クリスマスに得られる利権だ(どこも同じですね)。こちらとしては、妻や子供にそれとなく希望を聞いてみるのであるが、ウチの子は未だに「サンタ」を信じており(年齢は10歳を越えています。本当かよ!と思われるかもしれませんが本当です)、何かを願っているらしく、真意を教えてくれない。毎年の親の苦労が今のところ奏功しているようだ。

妻は「総額」がどの位か気になるようだ。ちなみにお年玉は妻も権利を有しており、毎年渡すことになっている。クリスマスは現物支給(要は欲しいものをプレゼントということ)が原則であるが、今年は特に指定がない。だが、暗に「いくらくらいまで?」と聞かれるので、予算要求ということなのかもしれない。財務省の係りの人の気持ちがちょっぴり分かる気がする(そんなわけないですが)。


株式で小金を稼いでいることは内緒にしている。取引していることは知っているが、どの位利益があったのかは伝えていないので。言えば予算総額が増大することは間違いない。

妻は欲しいものを今のところ指定していないので、今週中に聞いておこうと思っている。あまり高額なものは勿論断るので、要求してこないとは思うのだが…。最近のニュースで、「公務員はボーナスアップ」とかそういうことだけは詳しく知っているので、侮れない。

先週は聞いた時は、「うーん、まだ決めてない。わからないなー」とか言っていたが、防衛庁に似ていて、ギリギリまで粘ってくるかもしれない。毎年のことであるが、妻と私の折衝は続くのである。

やだなー。