いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

久々田臥登場!とetc.

2004年12月16日 20時59分19秒 | 経済関連
やっと出番でした。田臥ネタ

みんな忘れかけていたんじゃない?(ひどいよ~)
世間の注目度も薄れてきた感があるが、花開くときを待て、田臥!
4試合目の出場となった模様。でもたった2分程度でした。それでも、チームに帯同・ベンチは立派である。出場チャンスがいつもある訳ではないだろうが、出られる時は大いにアピールして欲しいぞ。次につながるはずだ!(と願っている)。

私は忘れず応援しているぞ!頑張ってくれ、小兵。(私がそうなので、人一倍共感できる!)




イラク入り希望の日本人カメラマン

これはダメでしょ!
いい加減にして下さい。
武部さんと一緒に自衛隊に入りなおして、派遣されてくだされ。
おお、偶然2人とも同じ北海道の方ではありませんか。(生還された方々と同じだ。本当に偶然?)
もしかして、この前の発言について、武部さんへの当てつけ?嫌がらせ?
じゃないよねぇ・・・・




三菱重工業を指名停止処分


共同通信の記事(12/14)によると以下の通り。

三菱重工業に開発を発注した88式地対艦ミサイルシステム(SSM-1改)の強度試験に不備があった問題などで防衛庁は14日、三菱重工業を2週間の指名停止処分にした。処分は15日から。防衛庁が同社を指名停止にするのは初めて。
 ミサイルシステムの試験のほか、護衛艦「おおなみ」のマストやF15戦闘機改修の加工過程でも不備が相次いでおり、併せて処分した。
 三菱重工は、航空宇宙事業本部長の前沢淳一常務ら役員2人をけん責と報酬返上10-20%(1カ月)、社員8人を減給の処分にした。
 防衛庁によると、ミサイルは、発射角度を調整するためつり上げた際に重みがかかる位置に、強度試験では十分な負荷をかけていないなど不備があった。今年4月に発覚したが、速やかな報告を怠っていた。


このような行政処分を食らってしまうのは、割と「深刻な事態」と言えると思う。形式的にたった2週間だけなので、企業側は実質的には痛くも痒くもないが、天下の三菱重工が処分されるというのは「異例」だと思う。
防衛庁が防衛関連企業のトップである三菱重工を処分したということは、今までの反省を少ししているのかもしれない。
ひょっとして過去への決別?防衛庁内の勢力地図が変わったのか?それとも、隠して後でマスコミに嗅ぎつけられ何を言われるか分らないから?

変な憶測をしてしまいますが、前向きに「変わりつつある防衛庁」ということで期待したい(空振りに終わらないことを祈っています)。


「熱ト」甲子園―バトル再開編

2004年12月16日 14時14分47秒 | 社会全般
変なタイトルつけてみました。勿論「熱闘」と「ネット」に引っ掛かっていますが、つまらなくてごめんなさい。

木村氏vs切込隊長氏 バトル再開です!(参考までに以前の記事「ネット上の『風説の流布』」シリーズ読んで頂ければ嬉しいのですが・・・)


遂に切込隊長氏が正面攻撃を開始しました(何だか実況中継風になってしまってます)。今までこのような記述をされなかったのが不思議なくらいです。切込隊長氏は前の幾つかの記事形式とは全く趣きを変えてきました。前は低俗なゴシップ系(の印象でした、個人的には)で、単なる読者受けを狙った読み物にしか過ぎませんでしたが、今回のは違います。

初めの意図がよくわかりませんが、最初からこのように書いてしまうと、木村氏を土俵に上がらせることができないと思ったから?わざと挑発的に書いて応えさせたってことなの?野次馬ブロガーを集めといて、注目が集まったところでドカンと実弾?もし、このような展開を目論んでの行動なら、やはり切込隊長氏「恐るべし」です。

木村氏は既に2度も答えてしまっているわけで、ここで口をつぐんだらブロガーからの信用を失いかねない。全てに答える義務はないが、幾つかは答える必要があるだろう。それか、一切無視して告訴?これも都合の悪いことには答えないという意味で信用を失う可能性があるかもしれない。

答えてしまったら?勿論正当に答えることは何ら不都合がないが、まともに答えることはないと予想する。今回の切込隊長氏の所謂「公開質問状」とも言うべき記事は、非常に論点が絞られており、ある意味ほぼ yes-no問題に近いものとなっている。これに答えてしまうと、切込隊長氏の意図するところに転がり込むようなものである。「事実無根」と全否定ならば可能であるが。状況証拠から推してみると、無謀な答えとなってしまう可能性が高い。


よって、「答弁に方便」ということで、予想すると次の回答となるのではないか。

「公判を控えており、また別件での提訴準備もあるため、回答は控えさせて頂きます。敢えてこちらの訴訟材料を明かす必要もなければ、敵に塩をおくる結果も予想されるため手の内を晒す必要もありません。」

以上ですが、どうなるでしょうか。


追記
磯崎氏がisologueというブログで述べられていることは勉強になります。読んでみて下さい。
http://www.tez.com/blog/archives/000294.html

続・「ゆとり教育」は何を教育したか

2004年12月16日 03時06分02秒 | 教育問題
前の記事の続きです。とりとめなく書いてしまっていますが、読んで頂ければ幸いです。


社会が多様性を認めるならば、教育においても同じことが言えるのではないかと思います。
走るのが速い子もいれば、絵が上手な子もいる。話が上手くできる子もいれば、料理ができる子もいる。そうした多様性と同様に勉強を位置づけてよいのではないだろうか。そもそも、個人差があることを全てにわたり一律に行おうとすることに、無理な面があると思う。


例えばある少年野球チームがあるとします。そこでは、年齢や体格が違う子供達が存在しています。もちろん野球のレベルにも個人差があり、すごく上手な子もいればあまりうまくできない子もいるかもしれません。レギュラーになれる子はその中から選ばれたごく少数の子だけで、ベンチ入りできる子も限られています。このような場合に、あまり上手ではない子に全体の練習をあわせるとチームは強くなりません。まさしく「ゆとり練習」ですね。

練習をどのレベルに設定するのかは、難しい問題でもあります。ある程度の練習成果や効率性、勝てるチーム作りなどを考えるならば、基礎練習は同じように行いますが、実践練習などはレベルに合わせて練習することが多いのではないかと思います。あまり上手ではない子は、同じレベルの子供達と一緒に能力に応じた練習メニューが必要でしょう。「どうしてもレギュラーになりたい」と思う子は独自にランニングや素振りや個人練習をするかもしれません。「みんなと楽しくスポーツができればいい」と思う子は、それほど必死に練習しないかもしれないし他の習い事や遊びに時間をかけるかもしれません。

結局到達度によってある程度柔軟に対応せざるを得ないと思います。親は「どうしてうちの子はレギュラーと同じ練習をさせないのか」とは言わないことの方が多いのではないかと思います。下級生がレギュラーとして試合に出ていたとしても、上級生の親が「うちの子を出せ」とは言わないと思うのです。ポジションが限られていますし、能力によって出られるかどうかが決められてしまいます。このような状況は非常に不公平かというと、そうではないと考える人の方が多いのではないかと思います。


学校の授業もこのような考え方をしてみたらどうでしょうか。基礎的な能力に関する学習については、全員同じメニューとします。現在の多くの授業内容が当てはまってくるとは思いますが。一般的な試験の点数に大きな開きができてきて、到達度によって分けた方がよいという内容については、レベルごとに授業を行う必要が出てくるということになります。授業進度も変える必要があります。出来る子にはさらに高いレベルの課題を与え、より高度な内容としてもよいと思います。義務教育期間中は、到達レベルの目標を設定しておき、全員がクリアすべき内容を課します。下限だけを決めておくことで、十分なのではないかと思います。現状は、中間層に設定された均一な内容となっており、ついていける子もいれば、ついていけない子もいる状況で、途中で振り切られるとそこから先は無益な時間が過ぎていってしまいます。目標到達レベル以外は現場での自由度を持たせて、高度な内容の授業も容認することとします。

他の授業として、生きる力、自信を養うために、勉強以外の面を増やす方向がよいと思います。既に実施されているところもあるでしょうが、例えば園芸技術、料理、木工作業、紙工作、機械組み立て、デザイン、服飾関係、生け花等の実生活に役立ち、その後の人生にも何らかの影響を与えるような内容のものがあればよいのではないかと思います。方法論として具体的にははっきり思い浮かびませんが、勉強が得意な子と同じように、こうした技術が得意な子がいることも不思議ではありません。理科の化学実験の授業を選択する子もいれば、園芸の授業を選択する子がいてもよいと思うのです。このような方向性を探ってあげられるのが、親であったり教師であったりしてもよいのではないでしょうか。

今までは、「みんな一律に」「差別しないように」という変な平等意識があって、その根底にあるのは多様性を認める価値観が存在しないことに起因していると思います。これでは、先の野球チーム内で、「レギュラーと全く同じ練習をさせないのは不当な差別だ」というようなことと一緒のような気がします。「能力に違いがある」というごく普通のことを、大人たちが受け入れるべきであると思います。

現実にはスポーツが得意な子はそういう学校へ行ったり、勉強ができる子は私立の進学校へ行ったりしていますね。そのことが悪いことでもなんでもなく、得意なことがあればそれを伸ばしてあげたいし、やる気がある子はどんどん前へ進みたいと思うでしょう。その反面、そうしたことが見つけられず何処を目指して前へ進めばよいのか分からなくなっている子がたくさん存在することも事実です。親や教師たちは、勉強ができる子供達と同じ所を目指して進めと言い、他の価値を認めないところがあると思います。試験に合格するためのテクニックを憶えることが真の学問であるということを、あらゆる識者たちが考えているとは思えないのです。

今後少子化の影響で子供の数は減少しますから、学校の教員は子供一人あたりの人数が相対的に増加すると思います。そこで、上述したような弾力的な授業も可能ではないかと考えます。専門的な授業を教える人は、現役の人でもよいでしょうし、高齢者の人でもよいと思います(専門的技術や知識はやはり専門家に頼ることになりますから)。高齢者が教えることは、雇用面、子供達と高齢者の接点、などの面でも利点が多いと思います(勿論教師も一緒に授業に取り組みます)。

もう一つ取り組むべき授業があると思っています。それはロールプレイングです。例えば、八百屋さんを想定して、商売をする現場を再現しながら、体験させていくようなものとします。商売上手な子がいてもよいでしょう?その後人生で役立つかもしれませんし、特別な能力を発揮できる子がいるかもしれません。できれば実際の体験(本当のお店に行き見学や体験などを行えればよいと思います)をさせながら、考えてもらえる場を提供していくことが重要と思います。実際に高校生の運営するお店などが全国的に幾つか存在していますが、とてもよい取り組みであると思っています。教科書で勉強する以上に役立つことは多いのではないかと感じます。想定される授業は相当の広がりが考えられます。どの時点(何年生ころ)から始めるかとか各論的な議論はあると思いますが、全員が体験できるものが望ましいと思います。現在は大都市部の子供たちを中心に、あまりに社会とかけ離れた環境に置かれているのではないかと思います。体験の少ない、バーチャルな世界しか知らない子供達が増えているのではないでしょうか。コミュニケーションや問題解決能力に問題があるのは、実体験が少ないことに起因すると考えます。

勉強をすごく頑張って、難関校とか東大合格を第一目標とする学校があってもいいと思っています。それが望みの人はそういう選択をすればいいのです。でも、みんながそういう子ではないのですから、それ以外の進む方向があってもよいのではないでしょうか。それが現実の社会構成と合致しているように思うのですが。


少年野球チームを強くすることはとても大変です。ですが、適切な指導をすれば、短期間で飛躍的に強くなることも稀ではありません。指導者の役割が如何に重要かを物語っています。それを達成するには、保護者等周囲のサポート、指導者の熱意と明確な方針が必要であると思います。このような方向性を文部科学省が示してくれくことを期待したいと思います。