オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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ロッテに風は吹かず

2009-08-31 22:58:20 | 千葉ロッテ

今日の予備日に試合が開催をされると思っていた人などは誰一人いなかったと思いますが、台風の影響で早々に中止が決まりました。
そうなると人事も含めたニュースが飛び交うかと思いきや、意外なぐらいに静かな週初となっています。
ペナントレースが白熱をする中で、下位に沈むチームに世間の興味は向かないのでしょう。

さて政治の世界では暴風が吹き荒れましたが、ロッテには風は吹かないようです。
当日にならないと選手の入れ替えをしないのが常のバレンタイン監督ですが、何も情報が伝わってこないところを見れば今週も同じメンバーで戦い続けるものと思われます。
当然のことながら戦略が変わるはずもなく、1勝2敗ペースでいけば借金は30の大台に乗ります。

来年の監督が誰になるにせよ、今年より良くなるとは限りません。
もしかすると暗黒の時代がやってくるかもしれず、しかしそれでも何かを変えたい、これが多くのロッテファンの偽らざる気持ちではないかと思います。
今のままでいくよりはリスクがあっても変化を求める、政権交代とはそういうものなのかもしれません。

同じことが残りの30試合で何とか実現できないものかと、無理だとは思いつつもすがるのはその1点です。
ムニスを使わないのは球団主導で獲得をした選手だからとの噂もまことしやかに流れていますし、来季がない監督に若手を使う理由がないのも分かります。
それでも同じ顔ぶれが同じような戦いぶりで負け続けるのを見るのは疲れた、これが正直な思いです。
何かが変わって欲しい、そう思いながら明日を待つことにします。

 

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四国巡り 史跡巡り篇 中村、宇和島の巻

2009-08-31 01:52:25 | 日本史

 

中村は2005年に土佐村と合併をして四万十市になりましたが、申し訳ないのですが私としてはしっくりとしません。
四万十川からとった名前なのでしょうが、昔ながらの地名が消えていくのは寂しい限りです。

その中村で最初に向かったのは、土佐一条氏の中村御所があった場所にある一條神社です。
商店街の中にあるのですが、説明板に中村御所の説明がなければただの神社、そんな感じでした。

こちらは中村城に向かう途中にある、一条房基の墓です。
土佐一条氏3代の房基は知勇兼備の将として土佐七雄の一つである津野氏を降すなど勢力を拡大しますが、その3年後に突如として自害をしてしまいました。
狂気のためとも言われていますが、この房基の早すぎる死が土佐一条氏の滅亡の遠因となります。

土佐一条氏の居城であった中村城は連郭式平山城で、当然のことながらそれなりの高さを誇ります。
額に汗して自転車を押して登る羽目になりましたが、中腹までは舗装をされていたのですが途中から石畳となったために、途中で諦めて歩いて登ることにしました。

中村城の天守閣は模擬天守で、中は四万十市立郷土資料館になっています。
本来は単体の城ではなく、為松城、東城、中ノ森、御城、今城を総称したものとなります。
登っていく途中で東城の詰(本丸)跡がありましたし、模擬天守のあった場所からちょっと歩くと為松城の詰跡もありました。
天守閣は狭い敷地に建っているために、それなりの写真を撮れる角度はこの方向のみです。
当時の遺構として残されているのは土塁に石垣ぐらいのもので、ご多分に漏れずに多くは公園になっていました。

天守閣からの四万十市街になりますが、市街と言うには中心地から離れた所にありますので、地元の方からすると勘弁をしてくれといった感じかもしれません。
のどかな田園風景が広がっています。

いわゆる城跡から離れた第一公園にも、石垣が残されていました。
こちらは資料館に展示をしてあった写真からその存在を知り、資料館の方にいただいた地図を片手に探したものの見つからず、地元の方に聞いてようやくたどり着きました。
もっともその方は軽トラックで先導をしてくれたのですが、坂道で必死にペダルを踏んでも見る見るうちに離されていく程のスピードで走られてしまい、これがジェッターならと悔しい思いをしたのが正直なところです。
肝心の石垣は小さな公園の一部と化しており、ペンキで汚れているところがあるなど悲しい状態であったのが残念でした。

気を取り直して次に向かったのが、一条教房の墓です。
教房は「日本無双の才人」と評された一条兼良の長男で、自身も父と同様に関白まで登りつめました。
応仁の乱に際して領地のあった土佐に下向し、そのまま土佐に住みつくことになります。
この教房を土佐一条氏の初代と見るか、祖と見るかは議論の分かれるところですが、教房の後は房家、房冬、房基、兼定、内政、政親と続きます。
しかし兼定が長宗我部元親に追放をされた時点で、土佐一条氏は実質的には滅んだと言ってよいでしょう。

この中村をもって土佐の史跡巡りは終わり、次は伊予に向かうことになります。
中村から宇和島まではやはり3時間ぐらいの移動時間を要したのですが、景色を見ているうちに着いてしまった、という感じでした。

そして四国の5日目は宇和島で始まりました。
まず向かったのは宇和島伊達家の菩提寺である、等覚寺です。

JR宇和島駅から細い川沿いをうねうねと進んで行き、路地を抜けたところに等覚寺があります。
ちょっとした城門のような風格の山門を抜けると、そこに宇和島伊達家の墓所がありました。

宇和島伊達家の初代、伊達秀宗の墓です。
秀宗は伊達政宗の庶長子であり、仙台本家を継いだ忠宗の兄にあたります。
庶子であり、また豊臣秀吉に偏諱を受けたことなどから徳川の世で生きて行くには辛い立場で、大坂の陣の恩賞で政宗が得た宇和島に別家を構えることになります。

この他に2代宗利、3代宗贇、4代村年、6代村寿、8代宗城、10代宗陳の墓があります。
宗城は幕末の四賢侯と称されて、混迷の時代にその名を馳せました。

等覚寺からほど近い大隆寺にも、宇和島伊達家の墓所があります。
奇数代と偶数代に分かれていますので、寛永寺と増上寺との関係と同様なのかもしれません。

こちらには5代村候、7代宗紀、9代宗徳の墓があります。
宇和島伊達家は途中で仙台本家の血が入りますが、幕末までしっかりと政宗の血脈を守り通しました。
ちょっぴり嬉しい気がします。


【2009年8月 四国の旅】
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民主の暴風が自公を吹き飛ばす

2009-08-31 00:16:21 | 独り言

ある程度の予想は出来たものの、ここまで民主に追い風が吹いていたのには驚くしかありません。
まだ最終的な結果は出てはいませんが、単独過半数はおろか、300議席を越えて衆議院再可決のラインである320議席にすら達しそうな勢いです。
近づく台風による雨で投票率が下がることで自公も踏みとどまるかと思いきや、選挙に強い公明ですら幹部クラスが次々と落選をするなど、この暴風は誰にも止めらませんでした。

かく言う私も雨の中を傘を差して、球場に行く途中にしっかりと投票をしてきました。
その野球は早々に中止が決まって途中から帰ってくる羽目になりましたが、そんな雨の中でも投票所には人が溢れていました。
いかに今回の選挙が注目をされているか、雨などではその民意を止めることはできなかったようです。

それにしても自公でここまで大物が落選をするとは、本人たちも信じられない気持ちでしょう。
自民では小選挙区で派閥領袖クラスや現役閣僚、閣僚経験者の多くが落選をしています。
比例で復活当選をする候補者もいるでしょうが、年齢的に引退を余儀なくされる大物も少なくはないはずですから、一気に世代交代が進むかもしれません。
公明も代表や幹事長などの幹部が小選挙区で落選をして、比例での重複立候補をしていないために議員バッチを失うことが決定をしましたので、党内の混乱が予想をされます。

笑いが止まらないのは民主ですが、勝負はこれからです。
自民から政権を奪取した日本新党を中心とした連立内閣や社会党は、その後の多くは解党のなどの憂き目に遭っています。
国民の期待が大きいだけに信頼を裏切ったときのしっぺ返しがいかに大きいかは、今回の選挙を仕切った小沢一郎が一番よく分かっていることでしょう。
ばらまきを批判する資格は以前の高齢者に対するお買い物券みたいなやつや今回の定額給付金などを推し進めた自公にはありませんが、かと言って民主のバラ色のマニュフェストを盲目的に信じるほど国民も馬鹿ではありません。
あまりマニュフェストにとらわれすぎることなく、現実的な政治を進めていってもらいたいものです。

自民をぶっ壊したのは小泉純一郎!

結局のところは痛みだけしか残らなかった小泉改革の結末が今日の選挙結果であり、そういう意味では公約どおりに小泉純一郎は自民をぶっ壊したわけです。
その人気に乗っかった自民、ブームに浮かれた国民、為すすべもなかった野党のいずれもが現在の不況の責任を負わなければなりませんが、今回の熱病とも思えるような民主の地滑り的な勝利が同じ危うさをはらんでいることは言うまでもありません。
急激に膨らんだ組織をしっかりと民主執行部が取り仕切っていけるのか、呉越同舟の感のある体質により党内抗争などが勃発をしないのかなどの不安材料も多くあり、また国政には素人の多くの議員が右往左往しないよう、小泉チルドレンの二の舞にならないように、新人議員の教育も大きな課題になります。

急激な変化により国会も混乱をするでしょうが、そんなことで立ち止まっている余裕は今の日本にはありません。
与野党ともに足の引っ張り合いではなく、建設的な議論に注力をしてもらいたいと思います。

 

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四国巡り 史跡巡り篇 高知、安芸の巻

2009-08-30 00:41:57 | 日本史

 

高知1日目の午後から小雨が降り出したのですが、天候の心配から日の出とともに動き出したために、予定で残すところはいくつかの資料館と墓所のみとなっていました。
そのため雨はさほどの影響もなく、ビニール傘を片手につらつらと移動をしていたところ、悲劇は高知県庁前で起こりました。
携帯を片手に突進をしてくる自転車を避けるためにハンドルを切ったところ、雨に濡れた歩道にスリップをしてしまい、地面に突いた左手首を骨折する羽目になりました。
旅の間はさほどの影響は無かったものの、帰ってきてから固定をしたことで不自由な日々が続いています。

一度ホテルに戻ってレインコート、レインパンツに着替えてから向かった先は、山内家下屋敷と山内家宝物館です。
そうこうしているうちに雨足は強くなったのですが、午前中に降られなかったのが不幸中の幸いでした。
両方ともこぢんまりとした展示でしたが、午後のひとときをまったりと過ごすには申し分のないものでした。

この日の最後に向かったのが筆山にある山内家の墓所です。
しかしトップの写真にあるとおりに立ち入りが禁止をされており、山内家宝物館に戻って見学を申し出ましたが断れました。
数年前から全て断っているとのことで諦めたのですが、帰ってきてから調べてみると今年の5月に見学をした人がいるようで、雨が降っていたので面倒くさがられたようです。
いつになるかは分かりませんが、次に訪れるときには前日までに連絡をした上で、しっかりと見学をさせてもらうつもりです。

四国の4日目、高知の2日目は幸いなことに天気は回復をしてくれました。
高知とは言っても高知県というだけで訪れたのは安芸市と四万十市ですので、タイトルは安芸、中村としています。

まず安芸で最初に訪れたのは、土佐七雄の一つである安芸氏の居城であった安芸城跡です。
堀と石垣に囲まれたそれなりの構えで訪れる者を迎えてくれます。

さほど広くはない敷地内に、安芸城跡の登り口があります。
数分も登れば頂まで至りますが、見事なぐらいに何もありません。
ただ木が生い茂っているだけで、それでも最初に訪れたときには登ることすらできないぐらいに荒れ果てていましたので、整備がされたことを感謝することにしました。

同じ敷地内に安芸市立歴史民俗資料館がありましたが、安芸氏ではなく山内家の家臣である五藤氏にかかる資料が中心の展示となっていました。
その資料館の脇に、長宗我部元親に攻められた際に落城の原因となった、毒を投じられて毒井戸と呼ばれた井戸の跡がありましたが、安芸氏の後に城主となった五藤氏がそのまま放置をしていたとも思えず、当時のものかどうかは微妙な感じがします。

長宗我部元親が土佐統一に向けて勢力を拡大した際に立ちはだかった安芸氏の、菩提寺である浄貞寺です。
戦国期の当主である安芸国虎は、家臣の命を助けることを条件に開城をした後に、ここで腹を切りました。

その安芸国虎の墓です。
一時は逆に岡豊城を攻めるなど攻勢になりましたが、じわじわと追い詰められて遂には元親に攻め滅ぼされてしまいました。
内応者が次々と出てしまったことが落城の原因ですが、最後まで付き従った黒岩越前守と有沢石見守の墓が守るように国虎の墓の横にあったのには感じるところがあります。

国虎の祖父の元親、父の元泰、兄であり早世をしてしまった泰親の墓です。
祖父の名が元親というのは皮肉な話ではありますが、土佐に流された蘇我赤兄の末裔とも言われている安芸氏は鎌倉時代より安芸郡を領して土佐東部の最大勢力として繁栄を築いてきましたが、国虎の代で元親に滅ぼされてその系譜を閉じることになりました。

安芸を昼前に出て向かったのは中村で、土佐くろしお鉄道とJR土讃線を乗り継いで3時間ほど電車に揺られたのですが、晴れてくれたおかげで車窓から見る景色に心癒されながらの、あっという間の移動となりました。
これが雨ですと睡魔に襲われて、しかし乗り継ぎを考えれば寝るわけにもいかず、といった苦痛の時間になったでしょうから、とても助かりました。


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ミスミスミスミスミス

2009-08-29 21:56:16 | 千葉ロッテ

朝方まで起きていたために目が覚めたのは昼前、そこで二度寝をしたのが間違いでした。
次に目覚めたのは試合開始直前で、休日に球場に足を運ばないという失態をしでかしてしまいました。
ただそのおかげで溜まっていた疲れは取れましたし、ストレスを溜めることにもならなかったわけですから、結果オーライだったりもします。
しかしこんな試合をやっていても満員御礼になるわけですから、パシフィックの阪神という名は伊達ではありません。

サタデー小野は相性の悪い楽天に対して、普段とは違ったピッチングをしたことが悪かったような気がします。
自分を変えることは自信がない証拠でもあり、戦う前から気持ちのどこかで負けてしまっていたのではないかと思います。
今日はカットボールではなくシュートを多投して、そのシュートを打たれたわけですから完全に配球ミスと言ってよく、バッテリーの敗北でもあります。
それでもスライダーやカーブ、フォークなどを交えて粘り強く投げていた小野でしたが、先制をしてもらった理想的な流れを掴みきれなかったわけですから、苦手意識もあったのでしょうし、やはり調子も今ひとつだったのでしょう。
里崎の脊髄ファインプレー以外は守備に足を引っぱられてしまったという、打たせて取るタイプの小野にとっては不幸すぎる守備陣も今日は痛すぎました。

その守備ですが、3回の大松の後逸は仕方がないプレーだったと、そう考えています。
スタートや追い方が映っていなかったので判断は難しいのですが、無駄な動きでの後逸ではなく、攻撃的な守備をした結果でしかないと思っています。
もちろん外野手には後ろに逸らさない守備が求められるのは言うまでもありませんが、どっちつかずで前に落ちる守備をやられるよりはマシです。
4回にタイムリーツーベースを放った際に塁上でニコリともしなかった表情や、8回の似たような打球に果敢に前進をして捕球をした姿に、むしろ大松の成長を感じました。

酷かったのは竹原の守備で、決勝点に繋がった6回の落球には言葉もありません。
捕球の際に返球を意識してボールから目を切ったのが悪かったのか、それにしても情けなさ過ぎるプレーです。
タイミング的には捕球をしていてもホームでアウトに出来たかどうかは微妙だったかもしれませんが、三塁走者はハーフウェイにいたようにも見えましたし、痛恨の落球です。
5回の犠牲フライも捕球をするのはよいのですが、落下点への入り方や送球はもう少し何とかならないのかと、ここのところは守備も安定をしていただけに、打撃の不調が守備にも微妙な影響を与えているのかもしれません。
その竹原に対しては守備で代えるのではなく代打を送っての交代で、このあたりは精神的にネチネチといじめているような、ちょっと後味の悪いものでした。

まあ大松を4番から外して井口を据えた時点で、今日の負けは約束をされていたのかもしれません。
やや調子を戻しつつある井口とは言っても、今日の打撃を見ても分かるとおり「右に引っぱる」という井口打法はどこに置き忘れたかのような打撃に終始をしていましたので、むしろDHにでも回して休養を与えた方がいいぐらいの状態だと思われます。
そうでなくても今年は大松を4番に育て上げることがテーマであるはずで、例によって左対左症候群の発作で大松を7番まで落とすわけですから、出るのは溜息ばかりです。
今日は見事すぎる軌道を描いてライトスタンドに吸い込まれていった福浦のホームランと、右打席からシャープに振り抜いてセンターに運んだ早坂の打撃、そして厳しい表情でセカンドベース上でたたずむ大松の姿、見るべき点はこれぐらいだったと思います。
あとは凡フライでも全力疾走をする井口で、甘いかもしれませんが打てなくても責める気になれないのは頑張っていることが分かるからで、腰が悪いとは言いながらも打席に立った以上は全力を尽くすべきだと、だらだらとした走りを見せたサブローには愚痴を言いたくなります。

プロ初黒星を喫した上野は、先日の小野のリプレイを見るかのような悪送球をしてしまいましたが、あまり気にすることはありません。
もちろんエラーをしたわけですから反省をしてもらわなければなりませんが、ピッチングとしてはあそこで代えられるようなものではありませんでしたし、同点の場面で起用をしながらあっさりと代えるといった情緒不安定なベンチを気にしていても仕方がないでしょう。
今できることを力一杯やる、今年はそれだけをテーマに自分を作り上げていって欲しいと思います。

さて明日は衆議院選挙の投票日、民主党が政権を獲ることは間違いないながらも報道をされている300議席以上になるのかが注目をされます。
日本人特有のバランス感覚が働くのか、東日本では雨のところもあるようですから、投票率がどうなるのかも鍵になるでしょう。
自公の関係者はその多くが民主党に投票をするであろう無党派層が投票所に足を運ばないよう雨乞いをしている、あるいは台風が急接近をすることを願っているかもしれません。
その雨模様の中で球場に足を運ぶ気合いが自分にあるのか、そんな自問自答をする日曜日にもなりそうです。



1 2 3 4 5 6 7 8 9
楽天 0 0 2 0 2 1 0 0 0 5 10

0

千葉ロッテ 1 0 0 3 0 0 0 0 0 4 7 1


◆8月29日(土) 千葉ロッテ-楽天19回戦(ロッテ10勝9敗、18時1分、千葉マリン、29,886人)
▽勝 グウィン 43試合3勝4敗4S
▽S 福盛 22試合5勝7S
▽敗 上野 11試合1勝1敗
▽本塁打 福浦3号(小山)

▽バッテリー
千葉ロッテ 小野、上野、伊藤、荻野―里崎
楽天 長谷部、小山、グウィン、川岸、有銘、福盛―中谷

 

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サブマリンは浮上せず

2009-08-28 23:50:15 | 千葉ロッテ

 

今日はJSPORTSがフェイスシールを貼ってくれるサービスをやっていたのですが、千葉マリンでやるのであればロッテのMマークなどのアレンジをしてもらわなければ困ります。
ただの野球好きでは勝利の女神はどちらに微笑むべきかが分からず、海底を這い回るサブマリンが浮上をすることはありませんでした。

それでも渡辺俊は8回途中まで4安打2失点ですから、敗戦の責を負わせるのは酷に過ぎます。
強風とは言わないまでも久しぶりに風がそこそこ吹いており、また相性のいい楽天が相手ですから好投をするのではないかとの予感はありましたが、今日はストライクが先行をしたために破綻の少ないピッチングにまとめることができました。
立ち上がりにカーブがすっぽ抜け気味だったのを除けば、ほとんどが思ったところに投げられていたのではないかと思います。
そのカーブも中盤以降は制御ができていましたし、今の渡辺俊であれば充分すぎるぐらいのピッチングが出来たと言っていいでしょう。
しかしながら負のスパイラルに陥っているときには何をやってもうまくいかないもので、同点に追いついてもらった直後の8回に先頭打者をあっさりと四球で歩かせてしまったところが、今年の渡辺俊を象徴していたと思います。
次の打者のセンター前に抜ける当たりは西岡のグラブの下をすり抜けていきましたが、あれは西岡も精一杯のプレーですから仕方のないところですが、勝ち運のついている投手であればアウトになっていたかもしれません。
また今日は渡辺直、先日は嶋と非力な打者に被弾をしましたし、今年に限らず痛恨の当たりといったフレーズが似合いすぎる渡辺俊ですから、勝負弱さを露呈してしまっています。
これまでの積み重ねがもたらした結果だと、何だか運命論的な話になってしまいますが、悔しいでしょうがこれが現実です。

そんな渡辺俊を何とか打線が援護をして欲しかったのですが、10安打を放ちながらも1点しか取れない残塁ロッテの名に恥じない拙攻を繰り返してしまいました。
ルーキー藤原の抜いたボールにタイミングが合わずに育成モードが発動をしてしまい、危うく完封負けを喫するところでした。
それを救ったのが早坂のプロ初ホームランで、コンパクトなスイングで振り抜いた打球は意外なぐらいに飛距離が出ました。
ここのところ長打を連発しているのでスイングが大きくならないかと心配をしていたのですが、今のところはその心配は無さそうです。
ただ8回の無死満塁のチャンスでは力が入りすぎてフライを上げてしまい、これは記念すべき自らのホームランが活かされないことへの苛立ちが手伝ったのではないかと、8回の守備でセンターフライを捕球した後に一塁に返球をした姿を見て「あれ?」と不思議に思ったので、当たらずといえども遠からずといったところでしょう。
何にせよ得点はこの1点だけですから、今日の敗戦の責任は打線にあると言ってよいと思います。

正確には打線というよりは、ベンチと言った方が正しいかもしれません。
里崎は体調不良、今江とサブローとともにベンチ入りに名を連ねてはいましたが、姿を確認できたのは今江とサブローだけでした。
この主軸の3人がスタメンから外れて、さらには8回の無死満塁の場面でも登場をしないわけですから、それであればベンチから外して治療に専念をさせるべきでしょう。
まあ西岡を無駄に半月以上もベンチに置き続けたバレンタイン監督がそういった措置をとるわけもありませんが、これでは最初からアドバンテージを相手に与えているも同然です。
そもそもバレンタイン監督は多くの選手を上手く使ってチームの総合力を上げることが得意でしたが、いつの間にか手段であったはずの日替わりが目的にすり替わってしまい、その駒とも言える選手の幅を自ら狭めてしまっているわけですから、思い通りの野球が出来ないのも当然です。
その思い通りの野球とは派手な一か八かといったもので、ボビー語録では「左打者の方が大量点になると思った」と語っています。
あの場面で堀に神戸を代打に送ったのは大きな当たり、つまりは犠牲フライで同点にすることを優先したものだとばかり思っていました。
まだまだ分かっているつもりになっているだけで、バレンタイン監督のことを全然分かっていない自分に気がついて愕然としています。

今日は週末ということもあって久しぶりに2階席がほぼ埋まりましたが、逆にライトスタンドに空席が目立ちました。
また8回のチャンスが無得点に終わったところで、まだ1点差なのに席を立つ観客がとても多かったのには寂しさを感じました。
もっとも私もやや義務感にかられて球場に足を運んでいる感もありますし、そういったファンも実は意外に多いのではないかと思います。
千葉マリンの前を走る県道15号に並行する歩道の脇の空き地は草ぼうぼうで酷い状態でしたが、ここ数日できれいに草刈りがされていました。
このぺんぺん草が生えつつあるロッテというチームを刈り整えてくれる救世主が現れないかと、今望むのはただそれだけです。



1 2 3 4 5 6 7 8 9
楽天 0 0 0 0 0 1 0 1 0 2 5

0

千葉ロッテ 0 0 0 0 0 0 1 0 0 1 10 1


◆8月28日(金) 千葉ロッテ-楽天18回戦(ロッテ10勝8敗、18時30分、千葉マリン、23,271人)
▽勝 川岸 11試合2勝1敗1S
▽S 福盛 21試合5勝6S
▽敗 渡辺俊 18試合2勝11敗
▽本塁打 渡辺直1号(渡辺俊)、早坂1号(藤原)

▽バッテリー
千葉ロッテ 渡辺俊、内、川崎、荻野―橋本将
楽天 藤原、川岸、有銘、福盛―嶋

 

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四国巡り 史跡巡り篇 高知の巻

2009-08-28 01:40:36 | 日本史

 

高知の巻は続きます。
構成の問題で分かりづらくなってしまいましたが、四国3日目、高知の1日目です。

浦戸城跡から桂浜を経てようやく到着をした、長宗我部氏の累代の居城であった岡豊城跡です。
それこそ最初に訪れたときにはこの石碑しかないぐらいに荒れ果てていたのですが、今はそれなりの整備がされています。

本丸にあたる詰、そして詰下段、二ノ段、三ノ段、三ノ段土塁、四ノ段です。
岡豊城は連郭式山城で瓢箪のような地形に史跡が散在をしていますが、見ての通りの土塁に石段といった往時を偲ばせる趣きがあります。
もっとも雨上がりの山城は危険がいっぱいで、石段を下りる際に足を滑らせて尻を痛打し、尾てい骨を骨折するという目に遭ってしまいました。

詰から望む、南国市街です。
田園風景が広がっていますが、それと同時に城の位置も分かるかと思います。
天守閣や櫓などに登らずにこの高さですから、よくぞ自転車でここまで登ったものと自らを誉め称えたい気分です。

こちらは岡豊城跡にある、高知県立歴史民俗資料館です。
長宗我部氏にかかる資料が中心ではあるのですが、もう少し四国統一への戦いや一領具足などを取り上げて欲しかったという気がします。
ただ長宗我部グッズは他にない充実を見せており、思わず財布の紐が緩んでしまいました。

岡豊城跡に向かう中腹に、香川親和のものと伝えられている墓がありました。
親和は元親の次男で、 元親の四国統一の戦いの過程で讃岐の香川氏に養子に入ります。
兄である信親が討ち死にを遂げた後、豊臣秀吉は親和を後継にするよう元親に計るものの、元親は正室の腹である盛親を後継に定め、失意の親和は21歳でその生涯を終えます。
墓所もそれと知らなければ分からないようなところにあり、まるで親和の短い、そして不遇の一生を物語っているかのように思えました。

岡豊城跡を昼前に出て、次は高知城に向かいました。
岡豊城跡のある南国市から高知市に戻るには逢坂峠を越えなければならないのですが、これが傾斜はさほど厳しくはないものの距離があり、かなり難渋をしました。

高知城でまず出迎えてくれるのは、山内一豊の像です。
大河ドラマで有名になった一豊は、元は尾張の岩倉織田家の老臣であった盛豊の三男として生まれました。
岩倉織田家は織田信長に滅ぼされ、その際に父と兄が討ち死にをしたため、その後は各地を放浪した末に一族の仇である信長に出仕をして、木下秀吉の寄騎となります。
秀吉配下の中堅武将として各地を転戦し、最終的には5万石余の大名として掛川城を任されますが、関ヶ原の戦いに際しては東軍に与して、さらには居城である掛川城を徳川家康に提供をしたことで、戦後に土佐一国を与えられました。

まずは追手門を抜けて石段を登っていくと本丸と二ノ丸を繋ぐ詰門がありますが、ここは通り抜けることはできません。
そこで左右に分かれた道の右手を登っていくと三ノ丸、二ノ丸があり、廊下門を抜けると天守閣のある本丸に出ます。
これら追手門、詰門、廊下門のいずれも、国の重要文化財に指定をされています。

三ノ丸の脇には、一豊の妻で有名な見性院の像があります。
千代の名の方が通りが良いかもしれませんが、土佐一国は千代がいたからこそとも言われるほど内助の功の逸話が多く、賢妻の見本のようにも言われています。
一豊は土佐移封の数年後に亡くなり、千代も京都に移り住んでしまったために土佐との馴染みは実は薄いのですが、やはり高知城をこの2人を抜きに語ることはできません。

本丸にある天守閣です。
高知城は長宗我部元親も一時期居城とした大高坂城を元に、3年の歳月をかけて作り上げられました。
三ノ丸までを含めて完成をしたときには、既に次代の忠義の世となっていました。

やはり国の重要文化財である天守閣は4層5階になっており、一豊の前の居城である掛川城の天守閣を模したものと言われています。
お色直し中で足場が組まれていたのが残念でしたが、戦災を免れて15棟もの遺構が残されたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

本丸にはこれまた国の重要文化財である西多聞、東多聞、黒鉄門があります。
この黒鉄門を抜けて石垣沿いにぐるっと回りながら下りていくと、登ってくる途中にあった詰門に出ます。
つまりは左の道を登っていけば、三ノ丸などを通らずに本丸に出ることができますので、この黒鉄門がいかに重要かが分かります。

この高知城を出たあたりから小雨が降り出したのですが、一通りの予定をクリアしたために気にはならず、むしろ運が良かったぐらいの気持ちになっていました。
その心の隙が悲劇を呼ぶことになろうとは、このときの私には知るよしもありませんでした。


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橋本将の限界

2009-08-27 23:35:22 | 千葉ロッテ

予定よりも会議が早く終わり、しかも今日は長い試合になったおかげで、2試合連続の欠席は避けることができました。
しかしそれが自分にとって幸いだったのかどうか、なかなか微妙だったりもします。

前回の登板のときの再現のような交代劇に成瀬の心中はいかばかりかと、思わずこぶしに力が入ってしまうような9回でした。
確かに今日は力が入ったピッチングで、それが力みにも繋がって球数の多い投球内容ではありましたが、心情的には最後まで成瀬に任せたかったというのが正直なところです。
勝利至上主義と相反することは重々承知ながらも、ここで目先の勝利にこだわるよりは成瀬の心意気に応えることこそが重要だったのではないかと、そう思ってしまう自分がいます。
それぐらいに今日の成瀬は、マウンド上で頼もしい姿を見せてくれました。
伸びのあるストレートに外角低めに抜けていくチェンジアップと、まさに2007年の成瀬を見るかのような安心感をロッテファンに与えてくれます。
勝負師らしい相手を射殺すかのような鋭い顔つきがビジョンに映し出されたのを見て、そこに成瀬の成長を感じました。
橋本将のリードに何度も首をふる姿は、行き過ぎは独善になるので程度問題ではあるのですが、自分のピッチングに自信を持っているからこその行為であったと思います。
マウンド上で飛び跳ねるかのような躍動感のある投球フォームでソフトバンク打線を力でねじ伏せた、そんな成瀬に心から拍手を送りたいです。
ベンチに戻る成瀬の表情に諦めに似たものを感じたのは思い込みかもしれませんが、好投が報われない残念な幕引きとなってしまいました。

その成瀬とバッテリーを組んだ橋本将ですが、今日の試合は4盗塁にパスボールと散々な結果で、捕手としての限界を垣間見せてしまったことは否めません。
投球を外してもアウトに出来ない弱肩は致命的で相手に思うがままに走られてしまいましたし、逆球とは言ってもボールから目をそらしてのパスボールではお話にならず、今日はいろいろと反省をしてもらわなければなりません。
もちろん盗塁を許すのは捕手だけの問題ではありませんが、里崎が強肩を誇るだけに、投手からすると勘弁をしてくれといったところではないかと思います。
リード面では投手を尊重した柔軟さを持ち合わせていますので、里崎とはまた違った良さを見せてくれるのですが、これだけディフェンス面でのミスが続くとスタメンマスクを預けるのにはかなりの勇気が必要となります。
里崎は唯我独尊の道を歩みつつあるだけに橋本将には頑張ってもらいたいのですが、この状態では田中雅や金澤らの育成が急がれます。
今年はもうどうにもなりませんが、秋季キャンプの大きなテーマとして「捕手育成」が外せないことだけは間違いないでしょう。

試合はほぼ掌中にした勝利をこぼしてしまうという、かなり悔しい結果に終わりました。
終盤の猛攻もあと1本が出なかったのですが、そこはソフトバンクの中継ぎ陣の奮闘を称えるしかありません。
特に攝津のピッチングは敵ながらほれぼれとするぐらいに小気味よいもので、こりゃ仕方がないか、と諦めがつくほどの天晴れな快投でした。
こちらの中継ぎ陣も内、伊藤と休養をとったこともあってか安定をした投球内容でしたし、勝敗を別にすればお互いに収穫のあった試合であったと思います。
4時間25分と昨日の倍に近い試合時間は相応の疲れを残してくれましたが、さほどは明日に引きずらない疲れだと、おそらくは両チームのファンの多くは同じように感じているのではないかと、そんな気になった今日の試合でした。



1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
ソフトバンク 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 0 0 2 7

0

千葉ロッテ 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 2 10 0


◆8月27日(木) 千葉ロッテ-ソフトバンク18回戦(ロッテ9勝8敗1分、18時16分、千葉マリン、15,831人)

▽本塁打 多村14号(成瀬)

▽バッテリー
千葉ロッテ 成瀬、シコースキー、内、伊藤―橋本将
ソフトバンク 大場、水田、攝津、馬原―田上

 

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四国巡り リンクページ

2009-08-27 00:49:48 | 日本史

gooのブログの文字数制限により各記事にリンクを貼るのが厳しくなってきたため、史跡巡り篇とグルメ篇についてはリンクページを作ることにしました。
不細工な構成で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

【2009年8月 四国の旅】
四国巡り 史跡巡り篇 丸亀の巻
四国巡り 史跡巡り篇 高松の巻
四国巡り 史跡巡り篇 勝瑞、那賀川の巻
四国巡り 史跡巡り篇 徳島の巻
四国巡り 史跡巡り篇 川島、高知の巻
四国巡り 史跡巡り篇 高知の巻
四国巡り 史跡巡り篇 高知、安芸の巻
四国巡り 史跡巡り篇 中村、宇和島の巻
四国巡り 史跡巡り篇 宇和島の巻
四国巡り 史跡巡り篇 大洲の巻
四国巡り 史跡巡り篇 道後、松山の巻
四国巡り 史跡巡り篇 今治、川之江の巻
四国巡り グルメ篇 壱の巻
四国巡り グルメ篇 弐の巻

 


小林宏がナイスピッチング

2009-08-26 22:33:56 | 千葉ロッテ

今日は夜にかけて打ち合わせが入ったために会社を出たのが19時半過ぎで、船橋駅に着いたのが20時過ぎでした。
これなら何とか間に合うかと思いきや既に試合は7回の裏に入っていたため、今日は予約でチケットを買っていなかったこともあり断念をしました。
もしあのまま球場に向かっていたら、ヒーローインタビューにも間に合わなかったかもしれません。
と言うことで、今日の試合は録画をざっと流しで見て、先ほどようやく見終わりました。

清水のリタイヤで先発のお鉢が回ってきた小林宏が、今季ベストピッチと言ってもよいぐらいの投球内容を披露してくれました。
浮き気味のボールもありましたし、4安打1失点ながらも8回で125球を要したことからも分かるとおり、本来の精緻なコントロールが復活をしたわけではありません。
しかし今日の小林宏はストレートの伸びが秀逸で、低めに糸を引くようなボールが投げ込めたことが、今日のピッチングを支えました。
ボールが低めにいくことが多かったこともありますが、今日はかなりボールに角度があったように見えたのは気のせいかもしれませんが、ソフトバンクの各打者が差し込まれたかのような窮屈なスイングを繰り返していましたので、ボールにキレがあったことは間違いないでしょう。
マウンド上でかなりの気合いを発していましたし、一昨年までの状態と比べればまだまだではあるのですが、次の予告先発の発表の際にはいくらかは拍手をもらえるだろうと、そのぐらいまでは株を取り戻したのではないかと思います。
もちろんこれまで期待を裏切り続けてきたわけですから、1試合に好投をしたぐらいで信用を完全に取り戻せるわけもありません。
最低でも3試合は小林宏らしいピッチングを続けなければ、それが勝ち星に繋がらずとも、次も見たいと思えるような投球を披露してくれなければ、若手との入れ替えの議論から小林宏の名前が外されることはないでしょう。
オフになって、そして来年、再来年に「あそこで清水が首痛で登録抹消になっていなかったら、今の自分はいなかった。あのチャンスをものに出来たからこそ今の自分がいるんだ。」と回顧ができるよう、次回の登板への準備期間はもう始まっています。

打線は何と言いますか、勝ってラッキーぐらいしか言葉が見つかりません。
僅か1安打に抑えられながらも、その1安打が今江の決勝ホームランなわけですから、ソフトバンクとしてはやっていられないでしょう。
ロッテを舐めたような投手起用をしたツケがこういった敗戦に繋がってしまったと、自らの油断を悔いてもらうしかありません。
今日のベンチとしてはヒットが出ないわけですからどうにもならなかった感はあるのですが、それでも打線の組み方や走者が出た際の作戦を見てとれば、昨日の橋本将へのスリーバントの指示は単なる気の迷いであり、バレンタイン監督はやはりバレンタイン監督であったというところでしょう。
こんな成績でもたくさんの球団からオファーがあるようですので、自分の野球スタイルを変える必要はないとでも思っているのかもしれません。
何はともあれ勝ったことを素直に喜びたいですし、今江に笑顔が戻るのであればそれはチームにとっては大きなプラスですから、今日はナイスゲームだったと思います。

ソフトバンクファンに「日本ハムばかりに負けやがって」と言わせるよう、明日も成瀬できっちりと勝ちにいきたいところです。
明日も予報では風が弱いようですので大場にとってのアドバンテージはありませんから、主審が橋本で高めのボールをストライクにしまくらない限りは、今日の試合を見ながら言うのもおこがましいのですが、最低でも3点ぐらいは取れるのではないかと思います。
つまりは成瀬がソフトバンク打線を抑えることができるかどうかが試合の鍵で、この2試合を見ればロッテに負けないぐらいにバットが湿っているようですから、3点差以内の僅差ゲームになるのではないかと予想をします。
明日も夜に会議が入っているために球場に行くのは難しそうですが、週末の楽天戦を見に行きたいと思えるような試合をしてもらいたいです。



1 2 3 4 5 6 7 8 9
ソフトバンク 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 5

0

千葉ロッテ 0 0 0 2 0 0 0 0 X 2 1 0


◆8月26日(水) 千葉ロッテ-ソフトバンク17回戦(ロッテ9勝8敗、18時16分、千葉マリン、18,388人)
▽勝 小林宏 21試合3勝11敗
▽S シコースキー 44試合6勝5敗10S
▽敗 神内 22試合2勝3敗
▽本塁打 今江8号(神内)、明石1号(小林宏)

▽バッテリー
千葉ロッテ 小林宏、シコースキー―里崎
ソフトバンク 神内、佐藤、水田、攝津―田上

 

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四国巡り 史跡巡り篇 川島、高知の巻

2009-08-26 02:46:35 | 日本史

 

徳島を出て高知に向かう途中で、川島に寄って川島城を見てきました。
あまり知られていない城だと思いますが、丸亀城や高松城を凌ぐ天守閣がそびえ立っています。

見事すぎる天守閣ですが、残念ながら鉄筋コンクリートで再建をされた模擬天守です。
城内には槍や甲胄などが展示をされているものの多くは会議室などになっており、城の形をした公民館と思った方がよいでしょう。

蜂須賀氏の阿波9城の1つとして重要な役割を担っていましたが、江戸時代に入って一国一城令により廃城となりました。
支城という意味から往時にこういった規模の天守閣があったとは思えず、どこぞの城の天守閣を模したものだと思われます。

川島市街です。
JR阿波川島駅は無人駅で、またコインロッカーも無かったために荷物をどうしようかと困り果てたのですが、駅前の靴屋さんが快く預かってくれました。
こういった地元の方の温かい気持ちに触れることができるのも、旅の良さの1つです。
この川島を後にした頃から雨が降り出し、高知に着いたときにはかなりの雨量となってしまい、祈るような気持ちで四国2日目を終えることとなりました。

そして四国3日目はホテルを出たときには降っていた雨も数分で止み、止んでいる間に少しでも移動をしようと必死にペダルを踏みました。
まず最初に訪れたのが長宗我部元親の菩提寺であり、またその戒名である雪蹊恕三大禅定門から寺名をとった雪蹊寺です。

この雪蹊寺には長宗我部信親の墓があります。
長宗我部元親の嫡男である信親は織田信長から偏諱を受け、また文武両道で元親の期待を一身に受けていました。
しかし島津攻めの際に戸次川の戦いで壮絶な討ち死に遂げてしまい、このことで元親の後継問題が騒動となって多くの一門、重臣を失うことになります。
信親に全ての重臣と7割を越える兵士が運命を共にしたことからも人望があったことが分かりますし、長宗我部家の凋落はこの時から始まったと言ってよいかもしれません。

次に向かったのは、昨秋に行きたいと表明をした若宮八幡宮です。
七つ酢漿草の幟がはためいており、これだけで胸がドキドキとしてきます。
早朝で時間前ながらも無理をお願いして中に上げていただき、ミニチュアの幟と絵馬を購入しました。
長宗我部元親を大河ドラマに、との署名にもしっかりと名を連ねてきたことは言うまでもありません。
ちなみに時間が早かったこともあってか、歴女の姿は見られませんでした。

その若宮八幡宮の参道にあるのが、長宗我部元親の像です。
1998年に建立をされたので高知は3度目にして見るのは初めてで、史跡としての価値は当然ながらありませんが、山内家一色の感のある高知で長宗我部にかかるこういったものが作られただけでも、長宗我部フリークとしては涙が出るほど嬉しくなります。

その嬉し涙が乾かぬうちに、長宗我部元親の墓を訪れました。
以前と同様に案内板は朽ち果てたままでしたし、手前にあった愛馬の塚の説明板は姿を消してしまい、高知市にはもっと長宗我部を大切にしてもらいたいです。
一時は四国全域に覇を唱えた長宗我部元親はゲームのおかげでブームになりつつありますので、やや不純な動機ではありながらも役所が重い腰をあげてくれるきっかけにでもなってくれればと、そう願っています。

ここから桂浜に向かったのですが、雨が止んでくれてとても助かりました。
目的の浦戸城跡は平山城ですから登りが厳しく、傘を差してなんてことは到底無理だと思い知らされました。
これは桂浜から岡豊城跡に向かうために浦戸大橋を渡ったときもそうだったのですが、雨が降っていたら自転車での散策はとても無理で、散々な高知になるところでした。

浦戸城は岡豊城を本拠にしていた長宗我部元親が、大高坂山を経て1591年に居城を遷した城です。
三層の天守を誇るそれなりの規模の城であったようですが、関ヶ原の戦いで元親の四男である盛親が敗れたことで、山内一豊が掛川から土佐に移封をされてきます。
その一豊は元親が断念をした大高坂山に高知城を築いて1603年に遷ったために、この浦戸城は僅か13年で廃城となってしまいました。
今は高知県立坂本龍馬記念館や国民宿舎の建設により遺構は大半が失われてしまい、天守跡には小さな祠が寂しそうに建っていました。

私が確認をできたのは、国民宿舎の奥の石垣、同じく国民宿舎の駐車場の脇の石垣、そして龍馬記念館の奥にある井戸ぐらいでした。
悲しいぐらいの破壊っぷりで、ここでテンションがちょっと下がってしまいました。

その浦戸城跡からの、坂本龍馬の像や土佐犬の闘犬で有名な桂浜です。
前の2回は欠かさずに訪れた場所ですが、幕末に興味が無くなったのと、天気が心配で今回は素通りとなりました。

ここから南国市にある岡豊城跡に向かったのですが、雨は止んだものの太陽が顔を見せていなかったために方角が掴めず、何度か道を間違えてかなり時間を無駄遣いしました。
雨対策でバッグをビニール袋にくるんでいたために、ポータブルナビを出すのを面倒くさがったのが失敗でした。
もっとも日の出とともにホテルを出たために、岡豊城跡にある高知県立歴史民俗資料館の開館時間にはぴったりでしたので、天気の回復もあって焦りはありませんでした。

焦っているのはgooのブログの文字数制限のために中途半端な構成にならざるを得ないことで、かなり頭を悩ませています。
旅程篇は写真の一部を省略する羽目となりましたし、早急に改善をしてもらいたいです。


【2009年8月 四国の旅】
四国巡り
四国巡り 旅情篇
四国巡り 旅程篇
四国巡り 史跡巡り篇
四国巡り アクシデント篇
四国巡り グルメ篇
四国巡り おみやげ篇

 

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大嶺が帰ってきた

2009-08-25 23:10:37 | 千葉ロッテ

 

今日は親子ゲームですので休みを取って若手の成長ぶりに目を細める、といった1日を過ごしたかったのですが、今月に夏休みを取得した身としては無理な相談です。
それならナイターの試合開始からと意気込んではみたものの、球場に着いたのは3回が終わったところでした。

ただタイミング的には大嶺が調子を上げてきたところでしたので、ちょうどいい感じのときに席についたのだと思います。
久しぶりの1軍での登板とは思えないぐらいに、大嶺は落ち着いたマウンド捌きを見せてくれました。
ストレート、変化球とも低めに集まっており、コントロールが抜群とは言わないまでも、四球で破綻をするような気配はありませんでした。
140キロちょっとのストレートは迫力に欠けましたが、それでも8つの三振を奪ったことからも分かるとおり、ボールに伸びがあり多くの空振りが取れていました。
だからこそ落ちるボールが有効に決まったのだと思います。
本音を言えば145キロを越えるストレートをビシバシと投げ込んで欲しいものの、今は勝つことが出来るスタイルを身につけることが優先をされますし、その型さえ身につけばストレートも自然とスピードが乗ってくることでしょう。
過度にコントロールを気にして手投げになるのではなく、今日のように腕をしっかりと振れているのであれば、今年はスピードにこだわる必要はないと思います。
最終回にあと1人となってからバタバタとしたのは、2軍では100球を越えるような球数を放ることがほとんど無かったことによるガス欠でしょうから、やはり今の2軍の投手育成方針には疑問を覚えてしまうのですが、何はともあれ今日の137球を投げての完投勝利は大嶺にとっては大きな経験になったことでしょう。
打たれたのは真ん中の甘いボールであったとは言え、逃げて四球で崩れるよりはマシですので、あまり気にすることはありません。
次の登板でも臆することなく、自分のボールに自信を持ってストライクゾーンに無心に投げ込む大嶺であって欲しいと思います。

その若い大嶺を、今日はバックが盛り立てました。
同じく今日に1軍復帰を果たした今江や、西岡の踊るような好守も大嶺を救いましたが、里崎や西岡らがこまめに大嶺に声をかけていた姿を見て嬉しく思いました。
特に里崎がああいった行動を見せるのは久しぶりのような気がしますし、何だかチームが一丸となって大嶺とともに戦っているようにも見えました。
こういった結束力があればチームも下位に低迷をすることはないはずなのですが、明日も同じようなチームの雰囲気になるのかどうか、今後に向けて大きなポイントになります。

小野と唐川にも分けてやれ。

力が落ちる投手に対しては嵩にかかった攻撃をするのがロッテ打線の特徴とは言っても、2試合連続で完封負けをした次の試合で2桁得点ですから、何とも複雑な心境です。
相手が四球とエラーで勝手に崩れてくれたこともありますし、次の日本ハム戦を意識してか、あるいはロッテを舐めたのかは分かりませんが、先発も中継ぎも主力を温存したソフトバンクとしては悔いの残る試合ではなかったかと思います。
それでも地元に帰ってきたことによる気持ちの安らぎと、今日の勝利によって体がほぐれてくれるのであれば、相手の失態であっても素直に喜ぶことができます。
ミスを見逃さずにつけ込んでたたみ掛けた攻撃に、今日は拍手を送りたいと思います。

しかしながら明日の予告先発が発表になった際には、小林宏の名に拍手を送るファンは誰一人いなかったと言ってもよいぐらいの、しわぶきひとつない静かなスタンドでした。
小林宏が中継ぎに配置転換との報道も一部にありましたし、清水の登録抹消は首の違和感とのことで急な話だったと思われるのですが、まだ小林宏を先発で使うのかと、そう思ったのは私だけではないと思います。
先日の西武ドームでのスタンバイを見れば小林宏にも中継ぎでの起用の話はされていたと思われますし、そうであれば清水の代わりは2軍から抜擢をするべきだったと考えます。
小林宏も中途半端な心境でしょうし、これで明日に滅多打ちに遭うようですと次の選択肢は浦和行きしかありません。
ポリシー無き選手起用がどういった結果になるのか、明日の小林宏のピッチングが注目をされます。

今日はズレータがチームに復帰もとの笑える報道がありましたし、橋本将にスリーバントを命じたバレンタイン監督の迷走もありましたし、オーティズの好守にわたるオーティズらしさも見せてもらいましたので、なかなか充実をした1日でした。
個人的に今日はちょっとしたイベント日でしたので、試合にも勝つことができましたし、久しぶりにいい気分で床につくことができそうです。



1 2 3 4 5 6 7 8 9
ソフトバンク 1 1 0 0 0 0 0 0 3 5 10

2

千葉ロッテ 2 1 0 4 3 0 0 0 X 10 8 0


◆8月25日(火) 千葉ロッテ-ソフトバンク16回戦(8勝8敗、18時15分、千葉マリン、15,246人)
▽勝 大嶺 11試合3勝5敗
▽敗 高橋秀 8試合1勝3敗
▽本塁打 西岡9号(高橋秀)、里崎9号(高橋秀)

▽バッテリー
千葉ロッテ 大嶺―里崎
ソフトバンク 高橋秀、陽、甲藤、佐藤―田上

 

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四国巡り 史跡巡り篇 徳島の巻

2009-08-25 00:51:35 | 日本史

 

那賀川から徳島に戻り、まずは徳島城を訪れました。
徳島城は天守閣や櫓などの遺構は残されておらず、最初に訪れたときにはただの公園に過ぎませんでした。
その後は多少の整備がされて綺麗になってはいますが、往時の繁栄を思わせるものはありません。

それでも1989年に鷲の門が再建をされたことは喜ばしく、表御殿外郭の門であるために現在の城跡からちょっと離れたところにあるのですが、それなりの偉容を誇っています。
周りがコンクリートの地面となっているのは、場所が場所だけに仕方がないでしょう。

城の周りは堀と石垣に囲まれており、下乗橋や数寄屋橋などが架けられているのですが、そもそもこのあたりは表御殿や奥御殿といった平時の居住地の跡であり、天守閣があった場所からは離れた地となっています。
本丸や二の丸、三の丸があったのは現在の城山の辺りであり、城跡としての整備はされていないとのことでした。

城内には蜂須賀家政の像があります。
戦前は蜂須賀正勝の甲冑姿の像だったそうですが、戦時中に供出をされてしまい、戦後に作り直された際には藩祖ということで子の家政に取って代わられてしまいました。

同じく城内にある徳島城博物館です。
それなりの規模を誇る展示がされていますが、そもそも徳島城が戦国末期の築城であったために、私が興味のあるようなものが少なかったのは織り込み済みです。
蜂須賀家の墓所のある興源寺への行き方を、広域地図のコピーを取って教えてくれるなど、係の方にはとても親切にしていただきました。

その興源寺です。
徳島城からそれなりに離れており、迷うには充分ぐらいの距離がありましたが、いただいた地図のコピーとポータブルナビのおかげで無事に到着をすることができました。

墓所には歴代藩主の墓が整然と並んでおり、きちんとした整備がされているようです。
水辺もあってか親子連れの散策の地になっているようで、小さな子どもの歓声が響き渡っていました。

藩祖である蜂須賀家政の父、正勝の墓は別格なのか、ちょっと離れたところにあります。
蜂須賀正勝は豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃から仕えており、蜂須賀小六の名の方が通りがよいかもしれません。
講談で盗賊のように描かれていることで豪傑のイメージがありますが、むしろ謀臣に近い役回りであったようです。

その正勝が秀吉から阿波一国を賜るものの、老齢を理由に子の家政に譲ったことで、徳島藩の藩祖は家政ということになります。
伊達政宗をして「阿波の古狸」と評されるほど父に劣らない老練な手腕を見せ、また豊臣家には忠誠心があったようで、関ヶ原の戦いでも西軍につくなど微妙な動きを見せます。
東軍が勝利したために家督を子の至鎮に譲って隠居をしますが、その至鎮が早世をしたことで孫の忠英を後見し、81歳まで生き抜くことになります。

家政の子の至鎮が、徳島藩の初代藩主です。
徳川家康の養女を正室に迎えていたこともあり、東軍として関ヶ原の戦いに臨むことになります。
その功績もあって淡路を加増されて25万石余の大封を得ますが、病弱であったために僅か35歳で世を去ります。

その後は忠英、光隆、綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕と続きますが、短命な藩主が多く途中で松平氏、佐竹氏から養子を取ったことで、現在の当主には正勝の血は流れておらず、斉裕が徳川11代将軍の家斉の子であることから、徳川将軍家に連なる一族となっています。
何だかちょっと残念と言ってしまうと失礼にあたるかとは思いますが、その思いは拭えません。


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きっと何も変わらない

2009-08-24 22:37:22 | 千葉ロッテ

明日の先発が大嶺と発表になりました。
順番から言えば小林宏のはずですが、西武ドームで試合中にブルペンに入っていたようですから、おそらくは中継ぎに回ることになったのだと思われます。
2軍で好投をしていた大嶺にチャンスを与えることは正しい判断だと思いますし、短いイニングを全力で投げることで小林宏が何かを取り戻すのではないかとの期待もありますから、この配置転換はチームにプラスに働くのではないかと評価をしています。

しかし結局のところは、それでもチームは何も変わらないのではないかと、そんな諦めもあります。
こんな配置転換はもっと早くやるべきでしたし、同様の立場にいる渡辺俊をどう遇するかといった課題も残ったままです。
多少なりとも顔ぶれを変えることでてこ入れをしようとしているのかもしれませんが、それはそれで大切なことながらも、まず変えなければならないのはベンチの采配や選手起用、そして選手たちの野球に対する姿勢です。
こういった根本的なところに手をつけずにうわべだけ手を入れるようなことをしても、きっと何の効果もないだろうと思っている自分がいます。

それでも何もしないよりはマシです。
大嶺にはこれまでの鬱憤を晴らすような、そしてベンチがもっと若手を使ってみようかと思えるような、そんなピッチングを披露してくれることを期待しています。
そして選手たちが甲子園大会の決勝戦を見て、あの熱き血潮がたぎっていた頃の自分を思い出してくれたのではないかと、忘れかけていた野球への情熱を取り戻してくれたのではないかと、そんなすがるような思いを抱いて明日も千葉マリンに足を運びます。

ところで以前から気になっていたのですが、なぜ大嶺の出場選手登録を今日にしないのかが理解できません。
1日でも早く入れ替えをすれば、代わりに抹消をされた選手の1軍再登録の日も当然のことながら早くなります。
今日のような移動日を無為に使ってしまっていること、そんなところにもベンチがチームを俯瞰できていないことが窺えるように思えてなりません。

 

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四国巡り 史跡巡り篇 勝瑞、那賀川の巻

2009-08-24 02:35:36 | 日本史

 

四国の2日目は勝瑞からのスタートです。
JR勝瑞駅から徒歩15分ほどのところにある勝瑞城跡が目的だったのですが、駅前の案内板の地図がアバウトすぎて場所が分からず、以前に訪れたときの記憶に頼って歩いたのが悪かったのか、30分ほど放浪する羽目になりました。
朝早かったこともあり通行人がほとんどいなかったので、道を聞くことが出来なかったのが痛かったです。

ようやくたどり着いた勝瑞城跡ですが、こちらは記憶どおりに城跡と言われなければただの空き地にしか見えません。
それでもトップの写真のあたりは以前は草ぼうぼうでしたから、2001年に国の史跡に指定をされたときにでも手を入れたのでしょう。
残っているのは土塁と堀の一部だけで、城跡と言うよりは中世の館跡と言った方がよいかもしれません。
それでも阿波細川氏、そして戦国期の室町幕府を牛耳った三好長慶の阿波三好氏の居城であり、往時はそれなりの繁栄を誇ったものと思われます。

城跡には阿波三好氏の菩提寺である見性寺があります。
しかしこちらも寺と言われなければ分からないような、一見すると自治体の集会場のようにも見えます。

同じく城跡にある阿波三好氏の墓所です。
三好長慶の曾祖父である之長、父である元長、そして弟の義賢、義賢の子で甥にあたる長治の墓があります。
之長は阿波から畿内に進出をする足がかりを作ったものの細川氏の同族争いの中で命を落とし、跡を継いだ元長も一向一揆に攻められて敗死をします。
兄の長慶を助けて三好氏の全盛を築いた義賢も根来衆との戦いで、著名な戦国武将で初めて鉄砲によって殺されたという不名誉な死に方をします。
その子である長治もかつての主筋であり、異父兄でもある細川真之に攻め殺されるという、何とも呪われたとしか言いようのない一族です。
ちなみに異父弟を殺した真之も、同じ異父弟である十河存保に攻められて自害を余儀なくされるわけですから、これも因果応報と言ってよいのかもしれません。

前回もそうだったのですが、午前の早い時間ですと逆光になりますので、写真を撮ることを考えるのであれば午後に訪れた方がよいでしょう。
残念ながら案内板などが無かったために、どれが誰の墓かが分かりませんでした。
帰ってきてからネットなどで調べても分からず、墓石も風雨でかなり削り取られているために戒名などの記載も確認が出来ず、どうにもなりません。
見性寺の方に聞けば教えていただけるかとも思ったのですが、かなりの早朝であったために躊躇をしてしまい、この件については今後の課題となります。

こちらは勝瑞城跡からほど近いところにある勝瑞城館跡で、三好義賢の館跡と言われています。
勝瑞城跡と同様に国の史跡に指定をされており、第15次発掘調査が行われていました。
しかし見る限りただの野原に過ぎず、所々に案内板が設置をされているものの周りにはその痕跡は見られず、ものによっては1箇所に複数の案内板が置かれているものもありましたので、きちんとした設置がされていないのかもしれません。

勝瑞を出た後は徳島で牟岐線に乗り換えて阿波中島まで向かい、那賀川に降り立ちました。
目的は阿波公方、平島公方とも呼ばれる足利将軍家一族の墓のある西光寺です。
阿波公方は将軍になることができる資格がありながらも阿波で朽ち果てた、戦国の世に翻弄をされた無念の一族です。

山門をくぐってすぐ左に、阿波公方の祖と呼んでもいい3人の墓があります。
足利10代将軍の義稙、義稙の従兄弟の11代将軍の義澄の子であり、12代将軍の義晴の弟でもある義冬、そして義冬の子である14代将軍の義栄です。

足利義稙は初名を義材と言い、応仁の乱で有名な足利義視の子で、従兄弟の義尚の跡を継いで10代将軍に就任をしました。
しかしながら対立をする細川政元に明応の政変で将軍職を追われ、従兄弟の義澄が11代将軍となりますが、大内義興に後押しをされた義稙は義澄を追い落として将軍に復帰を果たすという、足利将軍家では唯一2度の将軍職を継いだことになります。
ところが再び今度は細川高国と対立をして京都を離れて阿波に赴き、そのまま阿波で生涯を終えることになりました。
その義稙と将軍職を争った義澄の子が義冬で、義維という名の方が有名かもしれません。
兄で12代将軍の義晴を要する細川高国を京都から追って堺に在し、堺公方と呼ばれるようになりました。
しかし甥である義晴の子の13代将軍である義輝を擁する細川晴元に追われて阿波に戻り、阿波公方の初代となります。
その義冬の子である義栄は義輝を殺した三好三人衆や松永久秀に担ぎ出されて14代将軍となりますが、織田信長が擁する義輝の弟である義昭が上洛をしたことから阿波に逃げ帰り、そのまま病没をしてしまいます。
このあたりは貴種が政争の具とされて、また同族が骨肉相食む戦いを繰り返すといった、なかなか分かりづらい関係が展開をされました。

山門から見た反対側には義冬の子であり義栄の弟である阿波公方2代の義助らの、阿波公方家の墓所があります。
9代の義根が京都に去るまでの歴代の墓がありますが、西光寺が火事になった際に資料が失われたために、分かっているのは2代義助以降は5代義景、6代義辰、7代義武、8代義宜とその一族の子弟であり、その他は誰のものかも分からないまま風雪にさらされています。

義助は後ろ盾であった三好一族の凋落により身動きが取れなくなりますが、それでも長宗我部元親からはそれなりの処遇を受けたものの、蜂須賀氏が阿波に入国をしてからは生かさず殺さずの待遇となり、それが9代義根の阿波退去に繋がっていきます。

初代の足利義康の血を他家から養子が入ることなく綿々と受け継いでいるのは阿波公方家だけであり、そういう意味では不遇の時代が長かったことが、逆に閉ざされた環境の中で生き続けることで血の断絶を防ぐことができたのかもしれません。

2日目の前半は一般的には地味な場所を回ることになりましたが、地味ながらも室町幕府の末期に畿内で展開をした権力闘争の匂いを感じられる地でもあります。
あまり一般受けをしないことは承知をしていますが、訪れる価値のある場所だとお奨めしたいと思います。


【2009年8月 四国の旅】
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