史跡巡りの初日は広島市街を自転車で駆け巡りました。
市街とは言いながらも東西南北に約90キロを走りましたので、いきなりで足が痙攣を起こしたとは旅程篇に書いたとおりです。
途中でカーナビのバッテリーが切れてしまい、もちろん充電池は持っていたのですが0%になってしまえば充電ができないことを知ったのが収穫と言えば収穫です。
まずは日本100名城の一つである広島城です。
毛利輝元が築城をしましたが関ヶ原の戦いで敗れたことで周防・長門に減封をされてしまい、代わりに入城をしたのが福島正則です。
この福島時代に城下町を含めた本格的な整備が進められましたが、洪水で崩れた石垣を幕府に無断で補修をしたとの理由で改易をされてしまい、浅野長晟が和歌山から入って幕末までの約250年を浅野氏の居城として栄華を誇りました。
天守閣は国宝に指定をされていましたが残念なことに原爆投下により倒壊をしてしまい、今の天守閣は昭和33年に鉄骨鉄筋コンクリートで再建をされたものです。

平成元年には二の丸跡に表御門、太鼓櫓、多聞櫓、平櫓が再建をされました。
これらは天守閣と同じく原爆投下で倒壊をしてしまったのの復元で、しかし古写真を使った写真解析で高さ、軒の出、窓の位置などの数値をはじき出しての木造によるものですので、ほぼ当時のものが再現をされているものと考えてよいのではないかと思います。
こちらの表御門は渡り櫓の下に門を備えた櫓門形式の門です。
太鼓櫓は時を告げる太鼓が置かれていたことからそう呼ばれており、二の丸の南東隅にある二層二階建ての櫓です。
二の丸の南西隅にある一層一階の櫓が平櫓で、長屋形式で三十五間の長さの多聞櫓が太鼓櫓と平櫓を繋いでいます。
写真は左から太鼓櫓、多聞櫓、平櫓です。
これら連なった三櫓の内部は公開をされており、中にはいろいろな展示がされています。
鯱瓦は再建をされたときのものですが、詳細が分からなかったために福山城のそれを参考にして作られました。
平成元年の台風で破損をしたために二代目に代替わりをし、その二代目も平成13年の芸予地震で破損をしたことで、今の広島城の鯱瓦は三代目となります。
妙頂寺には浅野忠吉の墓があります。
忠吉は浅野長政の従兄弟ですが先代の長勝の弟の長忠の子ですから、妹の子である長政よりも男系という意味では浅野氏の血を色濃く継いでいます。
長政の子の長晟に従って備後三原3万石を預けられて筆頭家老となり、一門衆として重きをなしました。
備後浅野氏の菩提寺は3代の忠真が創建をした三原の妙正寺で歴代の墓もそこにありますが、その開基が妙頂寺の住職ですので浅野氏との繋がりが強かったのでしょう。
ちなみに妙正寺も2代の忠長や福島正則の甥の正之の墓がある宗光寺も三原駅からほど近いところにあるのですが、こうやって記事をまとめるためにいろいろと調べていく過程で存在を知るのですから後の祭りで、かなり悔しいのですが次に訪れるためのエネルギー源とでも思うしかありません。
妙頂寺にはその他に3代の忠真、14代の忠純、おそらくは一門であろう忠之の墓があります。
忠真のそれは五輪塔の地輪の部分しかありませんので、長い年月を経て失われてしまったのでしょう。
また忠之の「之」を「の」と読めば12代の忠の墓となるのですが正七位が低すぎるような気がしますし、いろいろと調べたのですがよく分かりませんでした。
写真は左から忠真、忠純、忠之です。
ここから東西南北に遠出が始まります。
国泰寺は広島藩2代の長晟の墓があるとのことで西に8.5キロでなだらかな上り坂をえっちらおっちらと登ったのですが、浅野氏の墓所があり立派な五輪塔もあったのですが戒名から長晟のそれではなく、境内の案内板にも何の説明もありませんでしたので誤報だったのかもしれません。
浅野氏の墓所は神田山墓地と新庄山墓地にあるのですがいずれも非公開のために国泰寺に期待をしていただけに、かなりガッカリとさせられました。
その代わりというわけでもありませんが、豊臣秀吉と安国寺恵瓊のそれぞれ遺髪墓です。
豊臣秀吉のそれは恵瓊が形見分けでもらったもので建立をしたとのことですが、真偽の程は分かりません。
また法体であった恵瓊の遺髪とは何ぞや、生臭坊主だったのかとの突っ込みを墓前でしてしまったことは内緒話です。
また大石氏の墓所もこちらにあります。
大石内蔵助良雄が元禄赤穂事件で英雄化をしたため広島藩が遺児である大三郎良恭を家臣に欲しがり、以降の大石氏は浅野氏の家臣として続きました。
またいつの時代のものかは分かりませんが赤穂義士追遠碑があり、赤穂義士の人気ぶりがうかがえます。
その大三郎と、内蔵助の正室の理玖の墓です。
父と同じく1500石の大身で迎えられた大三郎ですが、人物としては優秀ではなかったようです。
妾腹ではありながらも実子ではなく内蔵助の叔父にあたる良速の曾孫の良尚を養子として跡を継がせており、しかし良尚に跡を継ぐ子が無かったことで一時は断絶をした大石氏は大三郎の次男である良遂が養子入りをした横田氏から温良が入って再興をしましたので、辛うじて内蔵助の血が保たれたことになります。
写真は左が大三郎、右が理玖です。

禅林寺は福島正則の創建で、浅野氏の家老である上田氏の菩提寺です。
正しくは初代の上田重安の菩提寺とのことで、しかし原爆投下によりその全てが焼失をしてしまいました。
現在の禅林寺は戦後に再建をされたものです。
上田重安の遺髪塚です。
武人として知られる重安は一方で千利休、古田織部の門下としての茶人としても有名で、むしろ上田宗箇としての名の方が知られているかもしれません。
上田宗箇流の流祖であり、また名古屋城二の丸庭園などを手がけるなど造園家としても手腕を発揮した文武両道の武将です。
関ヶ原の戦いで西軍に味方したために改易をされましたがその後に蜂須賀至鎮に請われて客将として招かれ、また正室、継室ともに浅野氏の姻戚である杉原氏の出であることから浅野幸長の家臣となったことからして、この敗将には珍しい復権も重安の資質によるものなのでしょう。

歴代の上田氏の墓は重安のそれと同じく禅林寺の墓地の一角にあります。
しかし一部を除いて五輪塔の地輪しかなく、原爆投下により飛ばされて戒名が刻まれている地輪を除いてどれがどれだか分からなくなってしまったからなのか、あるいはこの地輪も戦後に作られたのものなのかは分かりませんが、ただ積み上げられているだけではなくコンクリートで固められているのにはちょっと驚きました。
この墓所には3代の重次と12代以降を除いた歴代の当主の墓があり、戒名付きで説明板がありましたのでこういうのは助かります。
しかし残念なことに10代の安世だけは見つからず、固まっていた一角から外れたところも見て回ったのですが骨折り損のくたびれ儲けでした。
浅野氏家老としての上田氏は嫡男の重秀が徳川氏の旗本となったために次男の重政が継ぎ、その後は重次、重羽、義行、義従、義敷、義珍、安虎、安世、安節と続きます。
上田氏は広島藩の国家老として三原浅野氏、東城浅野氏とともに浅野氏三家老の一つとして栄えました。
写真は上段左から重政、重羽、義行、義従、義敷、義珍、安虎、安節です。

次に向かったのが西南に9.3キロの海蔵寺で、やはり広島藩の家老である東城浅野氏の菩提寺です。
これまた延々と上り坂が続く苦行の第二弾で、しかも道案内で50メートル先を下るとあったので100段以上もある階段を延々と下ったのですが民家しか見当たらず、実際のところは100メートルほど先がそれでしたので疲れた体には厳しすぎるトラップでした。
その先も45度に近い下り坂で自転車で下ったことを後悔させられましたので、痛烈なダブルパンチです。

墓所には東城浅野氏の歴代当主の墓がありましたが、一部を除いて説明もなく戒名を控えたのですが誰が誰だかはほとんど分かりませんでした。
東城浅野氏の始祖は堀田高勝で、浅野長政の嫡男である幸長の守り役となったことから後に浅野姓を許されます。
その後は高英、高次、高尚、高方、俊峰、高明、道寧、高景、高通、高平、道博と続きますが、ところどころに養子が入っているようですので血縁関係は今ひとつ分かりません。
ざっと見た感じで特定ができたのが高勝を初代とした11代の高平と、12代の道博です。
高平のそれは珍しい墳墓になっており、何か謂われがあるのかもしれません。
写真は左が高平、右が道博です。

この海蔵寺に東城浅野氏の墓所があることを知ったのは実のところは訪れたときで、かなりのラッキーパンチでした。
本来の目的は山中氏の墓所で、尼子氏の重臣であった山中鹿介幸盛の後裔となる吉和屋山中氏の一族が葬られています。
幸盛の娘の盛江が毛利氏の家臣である児玉氏に出入りをしていた商人の吉和義兼に嫁ぎ、その子の範信から本姓山中氏の吉和屋彌右衛門として栄えました。
幸盛の嫡男である幸元は盛江の次男とも言われているようですが鴻池財閥の始祖であり、武辺一辺倒であった幸盛の子が商いで身を立てるのですから不思議な感じがします。
その盛江の墓ですが、昭和に入ってから改葬をされたものです。
墓前には幸盛を語る際には欠かせない「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」が刻まれた石碑がありますが、これもそのときのものかもしれません。
幸盛の首塚もあるとの情報もそういった案内板はなく、しかし帰ってきてから調べてみれば墓の左に辛うじて映っている松の大木に幸盛の首級が埋められているとのことで、これほどのものであれば現地で情報は得られるだろうと手を抜いた甘さを次回の糧にしたいと思います。

また面白いことに、小田原北条氏の5代の氏直の墓がありました。
小田原城が落城をした後の氏直は家康の女婿とのことで許されて高野山に謹慎し、その後に大名に復活をしたものの30歳の若さで病没をしてしまいましたがその地は大阪であり、この広島の海蔵寺とどういった縁があったのかは今ひとつ分からず、しかし小田原の早雲寺にある墓は供養塔でこちらが本墓との説もあるようです。

こちらはこの日の最大の難関だった福王寺で、これまでの多くの旅の中でも一番に大変でした。
距離的には北に22.3キロですからさしたることはなかったのですが延々と上り坂だったのには閉口どころの騒ぎではなく、痙攣をする足を引きずっての到達です。
トップの写真がその苦難を物語っていますし、それであれば帰りが楽かと言えばそうでもなく、スピードが出過ぎればうねうねとくねった道を飛び出して崖下に転落をしかねないのでブレーキをかけっぱなしで、握力をかなり浪費しましたので行きも帰りも怖い福王寺でした。
福王寺にあるのが武田氏信の供養塔で、氏信は安芸武田氏の初代です。
氏信は甲斐武田氏の10代である信武の次男で、その信武が同族の石和流武田氏から甲斐守護職を奪い取るまでは安芸を本拠としており、信武の嫡男である信成が甲斐守護職を、そして氏信が安芸守護職を継いで二流に分かれました。
安芸武田氏はその後に若狭武田氏が分かれますが、毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の最後の当主である信実は若狭武田氏の出です。
気力を振り絞って最後に訪れたのが妙風寺で、加藤清正の重臣だった加藤正方の墓があります。
熊本藩が改易となった後は片岡風庵と名乗り風庵相場と呼ばれるほどに相場で巨利を手にしたとのことですので、武将と言うよりは能吏だったのかもしれません。
その後に広島藩の預かりの身となったことで、ここ妙風寺に葬られました。
初日に取りこぼした、と言うよりはそもそも一日で巡るには詰め込みすぎたのが実状ですが、その取りこぼしを二日目に拾って巡りました。
安国寺不動院は安芸武田氏の菩提寺で、一時は大内氏との抗争で焼け落ちてしまいましたが、安芸武田氏の一族である安国寺恵瓊が復興をして現在に至ります。
楼門は国の重要文化財であり、また国宝である金堂は絶賛工事中でした。
裏手の墓地には安国寺恵瓊の墓があります。
毛利の外交僧として活躍をした恵瓊は伊予に6万石もの領地を豊臣秀吉から与えられて直臣になったとも言われていますが、あくまで毛利の臣であったとの説も根強いようです。
関ヶ原の戦いにおいて石田三成と共謀して毛利輝元を西軍の盟主に祭り上げたことが有名で、しかし吉川広家や福原広俊との対立が毛利氏を迷走させた感は否めません。
その他もてんこ盛りです。
福島正則は広島藩を改易された後は信濃に移りそこで没していますので、こちらの墓は供養塔のようなものではないかと思います。
また豊臣秀吉の遺髪墓は国泰寺もそうでしたがあちらこちらにあるようで、実際に遺髪が葬られているかどうかは微妙なところでしょう。
武田刑部少輔は歴代当主の誰にあたるかは戒名などが削れているために判然としませんが、刑部少輔は元繁、光和、信実が名乗っていますからこのいずれかだと思われます。
調べてみれば信実が有力とのことではありますが、きちんとした裏付けはありません。
写真は左から福島正則、豊臣秀吉、武田信実(仮)です。
次に向かった才蔵寺が16時半で門を閉じる早寝がモットーのようでしたので間に合わず、仕方なく適当に市街を散策しました。
明星院は毛利輝元が母の位牌所として創建をしましたが、今は堂内にある赤穂義士四十七士の木像の方が有名なようです。
お願いをすれば見せていただけるという話もあるようですが、自分としてはあまり興味がなかったので踏み込みませんでした。
そして原爆ドームは遠目ですが見たのは二度目ではないかと、原爆の悲惨さを訴えかけているかのようです。
初日、そして二日目に取りこぼした才蔵寺は、四日目にしてようやく訪れることができました。
才蔵寺は笹の才蔵で名高い可児才蔵吉長を祀る寺で、またミソ地蔵が有名なようです。
才蔵は槍術の名手で斎藤龍興、柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝、豊臣秀次、佐々成政、福島正則と錚々たる武将の配下として渡り歩きましたが、その大半が滅亡をしていますから運が無かったのか、はたまた才蔵が何かを背負っていたのかもしれません。
境内には槍を持った才蔵の像と、その墓があります。
さすがにひらがなの墓石は初めて見ましたので、当時のものではなく近年になってから造られたものではないかと想像します。
その手前にあるのがミソ地蔵で、福島正則の改易に際して籠城のために才蔵が味噌を集めたのが由来とのことですが、実際の改易は才蔵の没後ですから伝説の域を出ません。

その脇には「肥後藩 可児才助藤原重喬」と刻まれた石灯籠がありました。
才蔵の子孫なのか一族なのかは分かりませんが、血の繋がりの重さを感じさせてくれます。
いろいろと調べてみましたが才蔵の子にかかる情報は見当たりませんでしたが、きっと綿々と系譜は続いているのだろうと思いたいです。
広島の巻に入れるのにはちょっと無理があるのですが、他のどこでも無理がありますので気にしないで特攻です。
才蔵寺を後にして向かったのが宮島で、言わずとしれた厳島神社です。
毛利元就が策略にて陶晴賢を討ち取った厳島の戦いの舞台で、ここそこにその戦いの跡が残されていますので前回に訪れたときには時間をかけて見て回ったのですが、今回は予定になかったものを寄り道気分での散策ですので大鳥居と本殿をちょろっと見た後は鹿と戯れただけで宮島は終わりとしました。

廿日市の洞雲寺は厳島神主家の藤原教親が創建をした、藤原氏の菩提寺です。
その後に厳島の支配者が大内氏、陶氏、毛利氏と変わっても尊崇と保護を受けました。
福島氏の時代に寺領を没収されるも浅野氏により復興され、そして現在に至っています。
この洞雲寺のお目当ては、毛利元清の墓です。
元清は元就の四男ですが庶子であり、正室の子である隆元、元春、隆景とはかなり年齢が離れています。
一番に近い隆景とすら18歳の年齢差がありますし甥である輝元の2歳の年長でしかありませんので、兄弟よりも親子という関係に近かったのかもしれません。
その多くの庶子の中でも元清は文武優れた武将であったようで、桂元澄が死去した後の桜尾城を任されました。
居城の位置関係もあってか特に隆景と親しく、戦陣を共にすることが多かったようです。
一時期は輝元の継嗣となった秀元の父であり、よって長府毛利氏の始祖とも言えます。
また穂井田氏の養子となったことで穂井田元清と名乗っていた時期もありましたので、その名の方が有名かもしれません。
47歳の若さで亡くなってしまいましたがもし元清が関ヶ原の戦いまで健在であれば、毛利氏の動向がまた違ったものになったのではないかと夢は広がります。
元清の前の桜尾城主だった桂元澄の墓も、この洞雲寺にあります。
厳島の戦いにおいて陶晴賢が決戦を決意したのは元澄の偽りの内応が理由の一つとされていますが、そもそもこの戦いが毛利氏と陶氏のものではなく村上氏と陶氏のものであるとの学説もあるようで、そうなると元澄の策略も講談の世界の話なのかもしれません。
右が一見すると元澄の墓よりも立派な継室のもので、やはり毛利氏の重臣である志道広良の娘の墓です。
厳島で討ち取られた陶晴賢は桜尾城で首実検がされた後に、ここ洞雲寺に葬られました。
負けるはずのない戦いに敗れて首とされたのですから、さぞや無念だったでしょう。
また藤原氏の実質的な最後の当主であるこれまた桜尾城主だった友田興藤の墓もあり、新旧の桜尾城主が眠っていることになります。
写真は左が陶晴賢、右が友田興藤です。
最終日に訪れたのが上深川の吉川興経の墓です。
興経は毛利元就の正室である妙玖の甥にあたりますので、跡を襲った元春の従兄弟にもなります。
大内氏と尼子氏の間をフラフラとしたことで家臣の不興を買い、半ば強制的に隠居をさせられました。
そんな興経を元就がそのまま放っておくはずもなく、嫡子の千法師とともに謀殺をされました。
その千法師の墓も近くにあるとのことでしたが、空港に向かう前で重い荷物を抱えていたことで坂道を登るのが億劫だったので今回はパスです。
【2013年4月 広島、山口の旅】
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