オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
since 2007.4.16
写真など一切の転用、転載を禁止します

四国巡り 史跡巡り篇 勝瑞、那賀川の巻

2009-08-24 02:35:36 | 日本史

 

四国の2日目は勝瑞からのスタートです。
JR勝瑞駅から徒歩15分ほどのところにある勝瑞城跡が目的だったのですが、駅前の案内板の地図がアバウトすぎて場所が分からず、以前に訪れたときの記憶に頼って歩いたのが悪かったのか、30分ほど放浪する羽目になりました。
朝早かったこともあり通行人がほとんどいなかったので、道を聞くことが出来なかったのが痛かったです。

ようやくたどり着いた勝瑞城跡ですが、こちらは記憶どおりに城跡と言われなければただの空き地にしか見えません。
それでもトップの写真のあたりは以前は草ぼうぼうでしたから、2001年に国の史跡に指定をされたときにでも手を入れたのでしょう。
残っているのは土塁と堀の一部だけで、城跡と言うよりは中世の館跡と言った方がよいかもしれません。
それでも阿波細川氏、そして戦国期の室町幕府を牛耳った三好長慶の阿波三好氏の居城であり、往時はそれなりの繁栄を誇ったものと思われます。

城跡には阿波三好氏の菩提寺である見性寺があります。
しかしこちらも寺と言われなければ分からないような、一見すると自治体の集会場のようにも見えます。

同じく城跡にある阿波三好氏の墓所です。
三好長慶の曾祖父である之長、父である元長、そして弟の義賢、義賢の子で甥にあたる長治の墓があります。
之長は阿波から畿内に進出をする足がかりを作ったものの細川氏の同族争いの中で命を落とし、跡を継いだ元長も一向一揆に攻められて敗死をします。
兄の長慶を助けて三好氏の全盛を築いた義賢も根来衆との戦いで、著名な戦国武将で初めて鉄砲によって殺されたという不名誉な死に方をします。
その子である長治もかつての主筋であり、異父兄でもある細川真之に攻め殺されるという、何とも呪われたとしか言いようのない一族です。
ちなみに異父弟を殺した真之も、同じ異父弟である十河存保に攻められて自害を余儀なくされるわけですから、これも因果応報と言ってよいのかもしれません。

前回もそうだったのですが、午前の早い時間ですと逆光になりますので、写真を撮ることを考えるのであれば午後に訪れた方がよいでしょう。
残念ながら案内板などが無かったために、どれが誰の墓かが分かりませんでした。
帰ってきてからネットなどで調べても分からず、墓石も風雨でかなり削り取られているために戒名などの記載も確認が出来ず、どうにもなりません。
見性寺の方に聞けば教えていただけるかとも思ったのですが、かなりの早朝であったために躊躇をしてしまい、この件については今後の課題となります。

こちらは勝瑞城跡からほど近いところにある勝瑞城館跡で、三好義賢の館跡と言われています。
勝瑞城跡と同様に国の史跡に指定をされており、第15次発掘調査が行われていました。
しかし見る限りただの野原に過ぎず、所々に案内板が設置をされているものの周りにはその痕跡は見られず、ものによっては1箇所に複数の案内板が置かれているものもありましたので、きちんとした設置がされていないのかもしれません。

勝瑞を出た後は徳島で牟岐線に乗り換えて阿波中島まで向かい、那賀川に降り立ちました。
目的は阿波公方、平島公方とも呼ばれる足利将軍家一族の墓のある西光寺です。
阿波公方は将軍になることができる資格がありながらも阿波で朽ち果てた、戦国の世に翻弄をされた無念の一族です。

山門をくぐってすぐ左に、阿波公方の祖と呼んでもいい3人の墓があります。
足利10代将軍の義稙、義稙の従兄弟の11代将軍の義澄の子であり、12代将軍の義晴の弟でもある義冬、そして義冬の子である14代将軍の義栄です。

足利義稙は初名を義材と言い、応仁の乱で有名な足利義視の子で、従兄弟の義尚の跡を継いで10代将軍に就任をしました。
しかしながら対立をする細川政元に明応の政変で将軍職を追われ、従兄弟の義澄が11代将軍となりますが、大内義興に後押しをされた義稙は義澄を追い落として将軍に復帰を果たすという、足利将軍家では唯一2度の将軍職を継いだことになります。
ところが再び今度は細川高国と対立をして京都を離れて阿波に赴き、そのまま阿波で生涯を終えることになりました。
その義稙と将軍職を争った義澄の子が義冬で、義維という名の方が有名かもしれません。
兄で12代将軍の義晴を要する細川高国を京都から追って堺に在し、堺公方と呼ばれるようになりました。
しかし甥である義晴の子の13代将軍である義輝を擁する細川晴元に追われて阿波に戻り、阿波公方の初代となります。
その義冬の子である義栄は義輝を殺した三好三人衆や松永久秀に担ぎ出されて14代将軍となりますが、織田信長が擁する義輝の弟である義昭が上洛をしたことから阿波に逃げ帰り、そのまま病没をしてしまいます。
このあたりは貴種が政争の具とされて、また同族が骨肉相食む戦いを繰り返すといった、なかなか分かりづらい関係が展開をされました。

山門から見た反対側には義冬の子であり義栄の弟である阿波公方2代の義助らの、阿波公方家の墓所があります。
9代の義根が京都に去るまでの歴代の墓がありますが、西光寺が火事になった際に資料が失われたために、分かっているのは2代義助以降は5代義景、6代義辰、7代義武、8代義宜とその一族の子弟であり、その他は誰のものかも分からないまま風雪にさらされています。

義助は後ろ盾であった三好一族の凋落により身動きが取れなくなりますが、それでも長宗我部元親からはそれなりの処遇を受けたものの、蜂須賀氏が阿波に入国をしてからは生かさず殺さずの待遇となり、それが9代義根の阿波退去に繋がっていきます。

初代の足利義康の血を他家から養子が入ることなく綿々と受け継いでいるのは阿波公方家だけであり、そういう意味では不遇の時代が長かったことが、逆に閉ざされた環境の中で生き続けることで血の断絶を防ぐことができたのかもしれません。

2日目の前半は一般的には地味な場所を回ることになりましたが、地味ながらも室町幕府の末期に畿内で展開をした権力闘争の匂いを感じられる地でもあります。
あまり一般受けをしないことは承知をしていますが、訪れる価値のある場所だとお奨めしたいと思います。


【2009年8月 四国の旅】
四国巡り
四国巡り 旅情篇
四国巡り 旅程篇
四国巡り 史跡巡り篇
四国巡り アクシデント篇
四国巡り グルメ篇
四国巡り おみやげ篇

 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
« 唐川の無念 | トップ | きっと何も変わらない »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (大阪の一ファン)
2009-08-25 01:27:54
地元の方々の、「歴史を残そう」という気持ちの有無・大小によって、史跡の状態はずいぶん違ってくるのですね(予算の有無によっても違いますが)。でも、こういうわかりにくい所を探す楽しみもあるのでしょうね。
返信する
お返事 (オリオン)
2009-08-25 01:33:34
仰るように地方自治体によって予算も違うでしょうし、なかなか難しい問題ですね。
ただ大々的に整備をするなどしなくても、せめて宅地開発などで貴重な史跡が失われるようなことがないよう、そういった配慮だけはお願いしたいです。
返信する