オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
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サブマリンは浮上せず

2009-08-28 23:50:15 | 千葉ロッテ

 

今日はJSPORTSがフェイスシールを貼ってくれるサービスをやっていたのですが、千葉マリンでやるのであればロッテのMマークなどのアレンジをしてもらわなければ困ります。
ただの野球好きでは勝利の女神はどちらに微笑むべきかが分からず、海底を這い回るサブマリンが浮上をすることはありませんでした。

それでも渡辺俊は8回途中まで4安打2失点ですから、敗戦の責を負わせるのは酷に過ぎます。
強風とは言わないまでも久しぶりに風がそこそこ吹いており、また相性のいい楽天が相手ですから好投をするのではないかとの予感はありましたが、今日はストライクが先行をしたために破綻の少ないピッチングにまとめることができました。
立ち上がりにカーブがすっぽ抜け気味だったのを除けば、ほとんどが思ったところに投げられていたのではないかと思います。
そのカーブも中盤以降は制御ができていましたし、今の渡辺俊であれば充分すぎるぐらいのピッチングが出来たと言っていいでしょう。
しかしながら負のスパイラルに陥っているときには何をやってもうまくいかないもので、同点に追いついてもらった直後の8回に先頭打者をあっさりと四球で歩かせてしまったところが、今年の渡辺俊を象徴していたと思います。
次の打者のセンター前に抜ける当たりは西岡のグラブの下をすり抜けていきましたが、あれは西岡も精一杯のプレーですから仕方のないところですが、勝ち運のついている投手であればアウトになっていたかもしれません。
また今日は渡辺直、先日は嶋と非力な打者に被弾をしましたし、今年に限らず痛恨の当たりといったフレーズが似合いすぎる渡辺俊ですから、勝負弱さを露呈してしまっています。
これまでの積み重ねがもたらした結果だと、何だか運命論的な話になってしまいますが、悔しいでしょうがこれが現実です。

そんな渡辺俊を何とか打線が援護をして欲しかったのですが、10安打を放ちながらも1点しか取れない残塁ロッテの名に恥じない拙攻を繰り返してしまいました。
ルーキー藤原の抜いたボールにタイミングが合わずに育成モードが発動をしてしまい、危うく完封負けを喫するところでした。
それを救ったのが早坂のプロ初ホームランで、コンパクトなスイングで振り抜いた打球は意外なぐらいに飛距離が出ました。
ここのところ長打を連発しているのでスイングが大きくならないかと心配をしていたのですが、今のところはその心配は無さそうです。
ただ8回の無死満塁のチャンスでは力が入りすぎてフライを上げてしまい、これは記念すべき自らのホームランが活かされないことへの苛立ちが手伝ったのではないかと、8回の守備でセンターフライを捕球した後に一塁に返球をした姿を見て「あれ?」と不思議に思ったので、当たらずといえども遠からずといったところでしょう。
何にせよ得点はこの1点だけですから、今日の敗戦の責任は打線にあると言ってよいと思います。

正確には打線というよりは、ベンチと言った方が正しいかもしれません。
里崎は体調不良、今江とサブローとともにベンチ入りに名を連ねてはいましたが、姿を確認できたのは今江とサブローだけでした。
この主軸の3人がスタメンから外れて、さらには8回の無死満塁の場面でも登場をしないわけですから、それであればベンチから外して治療に専念をさせるべきでしょう。
まあ西岡を無駄に半月以上もベンチに置き続けたバレンタイン監督がそういった措置をとるわけもありませんが、これでは最初からアドバンテージを相手に与えているも同然です。
そもそもバレンタイン監督は多くの選手を上手く使ってチームの総合力を上げることが得意でしたが、いつの間にか手段であったはずの日替わりが目的にすり替わってしまい、その駒とも言える選手の幅を自ら狭めてしまっているわけですから、思い通りの野球が出来ないのも当然です。
その思い通りの野球とは派手な一か八かといったもので、ボビー語録では「左打者の方が大量点になると思った」と語っています。
あの場面で堀に神戸を代打に送ったのは大きな当たり、つまりは犠牲フライで同点にすることを優先したものだとばかり思っていました。
まだまだ分かっているつもりになっているだけで、バレンタイン監督のことを全然分かっていない自分に気がついて愕然としています。

今日は週末ということもあって久しぶりに2階席がほぼ埋まりましたが、逆にライトスタンドに空席が目立ちました。
また8回のチャンスが無得点に終わったところで、まだ1点差なのに席を立つ観客がとても多かったのには寂しさを感じました。
もっとも私もやや義務感にかられて球場に足を運んでいる感もありますし、そういったファンも実は意外に多いのではないかと思います。
千葉マリンの前を走る県道15号に並行する歩道の脇の空き地は草ぼうぼうで酷い状態でしたが、ここ数日できれいに草刈りがされていました。
このぺんぺん草が生えつつあるロッテというチームを刈り整えてくれる救世主が現れないかと、今望むのはただそれだけです。



1 2 3 4 5 6 7 8 9
楽天 0 0 0 0 0 1 0 1 0 2 5

0

千葉ロッテ 0 0 0 0 0 0 1 0 0 1 10 1


◆8月28日(金) 千葉ロッテ-楽天18回戦(ロッテ10勝8敗、18時30分、千葉マリン、23,271人)
▽勝 川岸 11試合2勝1敗1S
▽S 福盛 21試合5勝6S
▽敗 渡辺俊 18試合2勝11敗
▽本塁打 渡辺直1号(渡辺俊)、早坂1号(藤原)

▽バッテリー
千葉ロッテ 渡辺俊、内、川崎、荻野―橋本将
楽天 藤原、川岸、有銘、福盛―嶋

 

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四国巡り 史跡巡り篇 高知の巻

2009-08-28 01:40:36 | 日本史

 

高知の巻は続きます。
構成の問題で分かりづらくなってしまいましたが、四国3日目、高知の1日目です。

浦戸城跡から桂浜を経てようやく到着をした、長宗我部氏の累代の居城であった岡豊城跡です。
それこそ最初に訪れたときにはこの石碑しかないぐらいに荒れ果てていたのですが、今はそれなりの整備がされています。

本丸にあたる詰、そして詰下段、二ノ段、三ノ段、三ノ段土塁、四ノ段です。
岡豊城は連郭式山城で瓢箪のような地形に史跡が散在をしていますが、見ての通りの土塁に石段といった往時を偲ばせる趣きがあります。
もっとも雨上がりの山城は危険がいっぱいで、石段を下りる際に足を滑らせて尻を痛打し、尾てい骨を骨折するという目に遭ってしまいました。

詰から望む、南国市街です。
田園風景が広がっていますが、それと同時に城の位置も分かるかと思います。
天守閣や櫓などに登らずにこの高さですから、よくぞ自転車でここまで登ったものと自らを誉め称えたい気分です。

こちらは岡豊城跡にある、高知県立歴史民俗資料館です。
長宗我部氏にかかる資料が中心ではあるのですが、もう少し四国統一への戦いや一領具足などを取り上げて欲しかったという気がします。
ただ長宗我部グッズは他にない充実を見せており、思わず財布の紐が緩んでしまいました。

岡豊城跡に向かう中腹に、香川親和のものと伝えられている墓がありました。
親和は元親の次男で、 元親の四国統一の戦いの過程で讃岐の香川氏に養子に入ります。
兄である信親が討ち死にを遂げた後、豊臣秀吉は親和を後継にするよう元親に計るものの、元親は正室の腹である盛親を後継に定め、失意の親和は21歳でその生涯を終えます。
墓所もそれと知らなければ分からないようなところにあり、まるで親和の短い、そして不遇の一生を物語っているかのように思えました。

岡豊城跡を昼前に出て、次は高知城に向かいました。
岡豊城跡のある南国市から高知市に戻るには逢坂峠を越えなければならないのですが、これが傾斜はさほど厳しくはないものの距離があり、かなり難渋をしました。

高知城でまず出迎えてくれるのは、山内一豊の像です。
大河ドラマで有名になった一豊は、元は尾張の岩倉織田家の老臣であった盛豊の三男として生まれました。
岩倉織田家は織田信長に滅ぼされ、その際に父と兄が討ち死にをしたため、その後は各地を放浪した末に一族の仇である信長に出仕をして、木下秀吉の寄騎となります。
秀吉配下の中堅武将として各地を転戦し、最終的には5万石余の大名として掛川城を任されますが、関ヶ原の戦いに際しては東軍に与して、さらには居城である掛川城を徳川家康に提供をしたことで、戦後に土佐一国を与えられました。

まずは追手門を抜けて石段を登っていくと本丸と二ノ丸を繋ぐ詰門がありますが、ここは通り抜けることはできません。
そこで左右に分かれた道の右手を登っていくと三ノ丸、二ノ丸があり、廊下門を抜けると天守閣のある本丸に出ます。
これら追手門、詰門、廊下門のいずれも、国の重要文化財に指定をされています。

三ノ丸の脇には、一豊の妻で有名な見性院の像があります。
千代の名の方が通りが良いかもしれませんが、土佐一国は千代がいたからこそとも言われるほど内助の功の逸話が多く、賢妻の見本のようにも言われています。
一豊は土佐移封の数年後に亡くなり、千代も京都に移り住んでしまったために土佐との馴染みは実は薄いのですが、やはり高知城をこの2人を抜きに語ることはできません。

本丸にある天守閣です。
高知城は長宗我部元親も一時期居城とした大高坂城を元に、3年の歳月をかけて作り上げられました。
三ノ丸までを含めて完成をしたときには、既に次代の忠義の世となっていました。

やはり国の重要文化財である天守閣は4層5階になっており、一豊の前の居城である掛川城の天守閣を模したものと言われています。
お色直し中で足場が組まれていたのが残念でしたが、戦災を免れて15棟もの遺構が残されたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

本丸にはこれまた国の重要文化財である西多聞、東多聞、黒鉄門があります。
この黒鉄門を抜けて石垣沿いにぐるっと回りながら下りていくと、登ってくる途中にあった詰門に出ます。
つまりは左の道を登っていけば、三ノ丸などを通らずに本丸に出ることができますので、この黒鉄門がいかに重要かが分かります。

この高知城を出たあたりから小雨が降り出したのですが、一通りの予定をクリアしたために気にはならず、むしろ運が良かったぐらいの気持ちになっていました。
その心の隙が悲劇を呼ぶことになろうとは、このときの私には知るよしもありませんでした。


【2009年8月 四国の旅】
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