オリオン村(跡地)

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四国巡り 史跡巡り篇 高知の巻

2009-08-28 01:40:36 | 日本史

 

高知の巻は続きます。
構成の問題で分かりづらくなってしまいましたが、四国3日目、高知の1日目です。

浦戸城跡から桂浜を経てようやく到着をした、長宗我部氏の累代の居城であった岡豊城跡です。
それこそ最初に訪れたときにはこの石碑しかないぐらいに荒れ果てていたのですが、今はそれなりの整備がされています。

本丸にあたる詰、そして詰下段、二ノ段、三ノ段、三ノ段土塁、四ノ段です。
岡豊城は連郭式山城で瓢箪のような地形に史跡が散在をしていますが、見ての通りの土塁に石段といった往時を偲ばせる趣きがあります。
もっとも雨上がりの山城は危険がいっぱいで、石段を下りる際に足を滑らせて尻を痛打し、尾てい骨を骨折するという目に遭ってしまいました。

詰から望む、南国市街です。
田園風景が広がっていますが、それと同時に城の位置も分かるかと思います。
天守閣や櫓などに登らずにこの高さですから、よくぞ自転車でここまで登ったものと自らを誉め称えたい気分です。

こちらは岡豊城跡にある、高知県立歴史民俗資料館です。
長宗我部氏にかかる資料が中心ではあるのですが、もう少し四国統一への戦いや一領具足などを取り上げて欲しかったという気がします。
ただ長宗我部グッズは他にない充実を見せており、思わず財布の紐が緩んでしまいました。

岡豊城跡に向かう中腹に、香川親和のものと伝えられている墓がありました。
親和は元親の次男で、 元親の四国統一の戦いの過程で讃岐の香川氏に養子に入ります。
兄である信親が討ち死にを遂げた後、豊臣秀吉は親和を後継にするよう元親に計るものの、元親は正室の腹である盛親を後継に定め、失意の親和は21歳でその生涯を終えます。
墓所もそれと知らなければ分からないようなところにあり、まるで親和の短い、そして不遇の一生を物語っているかのように思えました。

岡豊城跡を昼前に出て、次は高知城に向かいました。
岡豊城跡のある南国市から高知市に戻るには逢坂峠を越えなければならないのですが、これが傾斜はさほど厳しくはないものの距離があり、かなり難渋をしました。

高知城でまず出迎えてくれるのは、山内一豊の像です。
大河ドラマで有名になった一豊は、元は尾張の岩倉織田家の老臣であった盛豊の三男として生まれました。
岩倉織田家は織田信長に滅ぼされ、その際に父と兄が討ち死にをしたため、その後は各地を放浪した末に一族の仇である信長に出仕をして、木下秀吉の寄騎となります。
秀吉配下の中堅武将として各地を転戦し、最終的には5万石余の大名として掛川城を任されますが、関ヶ原の戦いに際しては東軍に与して、さらには居城である掛川城を徳川家康に提供をしたことで、戦後に土佐一国を与えられました。

まずは追手門を抜けて石段を登っていくと本丸と二ノ丸を繋ぐ詰門がありますが、ここは通り抜けることはできません。
そこで左右に分かれた道の右手を登っていくと三ノ丸、二ノ丸があり、廊下門を抜けると天守閣のある本丸に出ます。
これら追手門、詰門、廊下門のいずれも、国の重要文化財に指定をされています。

三ノ丸の脇には、一豊の妻で有名な見性院の像があります。
千代の名の方が通りが良いかもしれませんが、土佐一国は千代がいたからこそとも言われるほど内助の功の逸話が多く、賢妻の見本のようにも言われています。
一豊は土佐移封の数年後に亡くなり、千代も京都に移り住んでしまったために土佐との馴染みは実は薄いのですが、やはり高知城をこの2人を抜きに語ることはできません。

本丸にある天守閣です。
高知城は長宗我部元親も一時期居城とした大高坂城を元に、3年の歳月をかけて作り上げられました。
三ノ丸までを含めて完成をしたときには、既に次代の忠義の世となっていました。

やはり国の重要文化財である天守閣は4層5階になっており、一豊の前の居城である掛川城の天守閣を模したものと言われています。
お色直し中で足場が組まれていたのが残念でしたが、戦災を免れて15棟もの遺構が残されたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

本丸にはこれまた国の重要文化財である西多聞、東多聞、黒鉄門があります。
この黒鉄門を抜けて石垣沿いにぐるっと回りながら下りていくと、登ってくる途中にあった詰門に出ます。
つまりは左の道を登っていけば、三ノ丸などを通らずに本丸に出ることができますので、この黒鉄門がいかに重要かが分かります。

この高知城を出たあたりから小雨が降り出したのですが、一通りの予定をクリアしたために気にはならず、むしろ運が良かったぐらいの気持ちになっていました。
その心の隙が悲劇を呼ぶことになろうとは、このときの私には知るよしもありませんでした。


【2009年8月 四国の旅】
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