三つ子の魂百まで、とはよく言ったもので、紆余曲折はありながらも基本的な趣味嗜好は子どものころからさほどに変わっていません。
先日、と言うほどに最近の話でもありませんが、実家から持ち帰ってきながらも放置状態だったものを大掃除での整理整頓で引っ張り出してみれば、それがよく分かります。
読書、コレクション、野球、日本史、きっとこれからも変わらないのでしょう。
おそらくは小学生の中学年のときのプロフィール表、「すきなこと」に「本を読むこと」と書いています。
当時は図書室で本を借りる際には、借りる本の代わりに「代本板」を差し替えることで戻す際に分かるようにしておくというルールがありました。
工作の授業で作ったその代本板が、図書室にほぼ常駐をしていたことを覚えています。
よくぞこんなものまで、と驚いたのが幼稚園のときからの名札、生徒手帳、はちまきなどです。
幼稚園のそれなどは母親が残していたのが最初なのでしょうが、それを引き継いで、と言いますか、その後も捨てることなく置いているのですから収集癖が芽生えていたのでしょう。
またトップの写真のとおり、しっかりとロッテの戦績を書いてあるところなどは、まさに「自分」を見る思いです。
通信簿は小学校、中学校、そして高校の全てが残っていました。
成績もさることながら、性格などについての担任のコメントにも「自分」が何も変わっていないことに気がつかされます。
きっと今後も変わらず、墓場まで持っていくことになるのでしょう。
大学入試の際の、模試の成績表も山のようにありました。
当時の右往左往ぶりが懐かしく、志望校の変遷も「そんなこともあったな」と今はいい思い出です。
ただその成績を見てみれば合格をしたのは奇跡だったような、その自覚はないのですが、あるいは一発勝負には強いタイプなのかもしれません。
卒園アルバム、卒業アルバムも一通り揃っています。
幼稚園のときの方が、小学生のときのものよりも秀逸なイラスト、にも思えてきます。
その他には詩集、文集、そして小学校6年生のときに人生を振り返った「おいたちの記」もあり、一生懸命に自伝を仕上げたつもりが、兄には「小説」と評されてしまいました。
こちらは高校生のときに美術の授業で作った切り絵です。
やはり図書室にあった画集から引っ張り出してきた鎮西八郎為朝で、フリーダムな色使いではありますが、なかなかの再現性ではないかと自画自賛です。
美術の教師もいたく気に入ってくれて、文化祭のときに掲示をされました。
その高校生のときには弓道部でしたので、つるとゆがけです。
ゆがけは右手につける革の手袋のようなもので、親指の根元あたりにつるを引っ掛けて引っ張ります。
自分用の矢も八本、木製とアルミ製がありますが、さすがにそのまま持って帰ると捕まりそうなのでまたの機会、にしました。
我ながら物持ちがいいな、と感心をしたのが、王貞治の756号記念ボールです。
もちろん見てのとおり、ソフトボールに担任が書いたものでしかありませんが、しっかりとサインが入っています。
ただどういった経緯でもらったものか、全く覚えていません。
コレクターとしての第一歩は、ありがちな切手収集です。
兄がやっていたものを真似たのがきっかけで、中学生ぐらいまでは集めていました。
ただやりたくて始めたわけではなかった、と言ってしまうと微妙な表現ですが、ただの物真似、あるいは兄弟の対抗心みたいなものだったような、当時のお小遣いではさほどのものには手が出せませんでしたし、飽きてしまっての尻切れトンボです。
ざっと見てみましたが、価値の出ていそうな逸品は見当たりませんでした。
コレクションとは違いますが、今となっては歴史の遺物となったレコードです。
シーナ・イーストンのファンで、ファンクラブにも入っていました。
来日コンサートにも行きたかったのですが、そこはまだ子どもでしたから、ファンクラブでパンフレットを買うのが精一杯だったのが残念至極です。
大量に発掘をされたのが、旅先でのおみやげです。
その場所からして小学生のときから高校生までの遠足、修学旅行などでのそれではないかと、キーホルダーや通行手形、ミニ提灯など、せっかくですので飾ることにしました。
地名の入ったものを、とは今も変わらぬ選び方なわけで、やはりここにも「自分」がいます。
こちらの輿型貯金箱、は京都のものですので、中学生のときの修学旅行のおみやげだと思われます。
中に入っていたのが記念切符で、しかし刻印が昭和50年1月1日ですから貯金箱とは別のときのものなのでしょう。
大金駅、宝積駅、幸福駅、銭函駅と金銭欲まるだしの一品で、だからこそ貯金箱に入れておいたのではないかと、しかしその欲は叶わないままに人生は折り返し地点を過ぎました。
年末ジャンボ宝くじ、今度こそ、楽しみにしています。
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