オリオン村(跡地)

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四国巡り 史跡巡り篇 高知、安芸の巻

2009-08-30 00:41:57 | 日本史

 

高知1日目の午後から小雨が降り出したのですが、天候の心配から日の出とともに動き出したために、予定で残すところはいくつかの資料館と墓所のみとなっていました。
そのため雨はさほどの影響もなく、ビニール傘を片手につらつらと移動をしていたところ、悲劇は高知県庁前で起こりました。
携帯を片手に突進をしてくる自転車を避けるためにハンドルを切ったところ、雨に濡れた歩道にスリップをしてしまい、地面に突いた左手首を骨折する羽目になりました。
旅の間はさほどの影響は無かったものの、帰ってきてから固定をしたことで不自由な日々が続いています。

一度ホテルに戻ってレインコート、レインパンツに着替えてから向かった先は、山内家下屋敷と山内家宝物館です。
そうこうしているうちに雨足は強くなったのですが、午前中に降られなかったのが不幸中の幸いでした。
両方ともこぢんまりとした展示でしたが、午後のひとときをまったりと過ごすには申し分のないものでした。

この日の最後に向かったのが筆山にある山内家の墓所です。
しかしトップの写真にあるとおりに立ち入りが禁止をされており、山内家宝物館に戻って見学を申し出ましたが断れました。
数年前から全て断っているとのことで諦めたのですが、帰ってきてから調べてみると今年の5月に見学をした人がいるようで、雨が降っていたので面倒くさがられたようです。
いつになるかは分かりませんが、次に訪れるときには前日までに連絡をした上で、しっかりと見学をさせてもらうつもりです。

四国の4日目、高知の2日目は幸いなことに天気は回復をしてくれました。
高知とは言っても高知県というだけで訪れたのは安芸市と四万十市ですので、タイトルは安芸、中村としています。

まず安芸で最初に訪れたのは、土佐七雄の一つである安芸氏の居城であった安芸城跡です。
堀と石垣に囲まれたそれなりの構えで訪れる者を迎えてくれます。

さほど広くはない敷地内に、安芸城跡の登り口があります。
数分も登れば頂まで至りますが、見事なぐらいに何もありません。
ただ木が生い茂っているだけで、それでも最初に訪れたときには登ることすらできないぐらいに荒れ果てていましたので、整備がされたことを感謝することにしました。

同じ敷地内に安芸市立歴史民俗資料館がありましたが、安芸氏ではなく山内家の家臣である五藤氏にかかる資料が中心の展示となっていました。
その資料館の脇に、長宗我部元親に攻められた際に落城の原因となった、毒を投じられて毒井戸と呼ばれた井戸の跡がありましたが、安芸氏の後に城主となった五藤氏がそのまま放置をしていたとも思えず、当時のものかどうかは微妙な感じがします。

長宗我部元親が土佐統一に向けて勢力を拡大した際に立ちはだかった安芸氏の、菩提寺である浄貞寺です。
戦国期の当主である安芸国虎は、家臣の命を助けることを条件に開城をした後に、ここで腹を切りました。

その安芸国虎の墓です。
一時は逆に岡豊城を攻めるなど攻勢になりましたが、じわじわと追い詰められて遂には元親に攻め滅ぼされてしまいました。
内応者が次々と出てしまったことが落城の原因ですが、最後まで付き従った黒岩越前守と有沢石見守の墓が守るように国虎の墓の横にあったのには感じるところがあります。

国虎の祖父の元親、父の元泰、兄であり早世をしてしまった泰親の墓です。
祖父の名が元親というのは皮肉な話ではありますが、土佐に流された蘇我赤兄の末裔とも言われている安芸氏は鎌倉時代より安芸郡を領して土佐東部の最大勢力として繁栄を築いてきましたが、国虎の代で元親に滅ぼされてその系譜を閉じることになりました。

安芸を昼前に出て向かったのは中村で、土佐くろしお鉄道とJR土讃線を乗り継いで3時間ほど電車に揺られたのですが、晴れてくれたおかげで車窓から見る景色に心癒されながらの、あっという間の移動となりました。
これが雨ですと睡魔に襲われて、しかし乗り継ぎを考えれば寝るわけにもいかず、といった苦痛の時間になったでしょうから、とても助かりました。


【2009年8月 四国の旅】
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