上の写真のキャプションには〈我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群〉とある。朝日新聞社が発行していた『アサヒグラフ』(1937年11月10日号)に掲載された1枚である。そして、同じ写真が72年発行の『中国の日本軍』という書籍に使われている。著者は、当時、朝日新聞が誇るスター記者だった本多勝一氏(82)。 . . . 本文を読む
西進への米国の果てしない衝動は、他の西欧諸国とは異なる独特の、非合理的な熱病じみたものを感じさせる。満州へも、中国本体の中心部へも、思う存分介入できなかった米国は、とうとう最後に南方からの介入で、抵抗を一気に排除しにかかった。フィリピン、グアムを軍事拠点に、英国やオーストラリア、オランダとの合作により南太平洋を取り囲む日本包囲攻撃の陣形を組み、大陸への資本進出を実行する障害除去のための軍事力動員の道に突っ走った。かの真珠湾攻撃は、米国の理不尽で無鉄砲なこの締め付けに対する日本の反撃の烽火(のろし)であった。 . . . 本文を読む
しかし、両手どころか全身を血まみれにして政府を打倒し、首尾よく政権を奪取した革命家にとっては、古い時代に学者が論じた口あたりのよい教説を、そのとおりに守っているゆとりはありません。スターリンは一国社会主義の理論を唱えました。それは、マルクスやエンゲルスが考え及ばなかった破天荒な現実論です。そしてスターリンは共産主義ソ連を安泰ならしむるために衛星国を必要としました。それゆえに、堂々と露骨に革命を東欧諸国に「輸出」し、チャーチルが鉄のカーテンと名づけた外濠(そとぼり)の境界線を張りめぐらしたのです。 . . . 本文を読む
もし、東京裁判で溥儀がソ連の圧力に屈せず「私は日本の力を借りて満州国皇帝の座に復活したかったのだ」と証言し、本書が証拠資料として採用されていたら、たとえ溥儀が傀儡の満州国皇帝だったとしても、キーナン主席検事はどのような論告求刑をし、ウェッブ裁判長はどのような判決を下していただろうか。 . . . 本文を読む
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムというのが、昭和20年12月以降に成立します。戦争に関する罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画、と訳したらいいでしょう。そして、アメリカ占領軍の中にそのための委員会をつくりまして、いかにして日本人に罪の意識を植えつけるかを考え、これを実行した。 . . . 本文を読む
教科書はすでにそうなっている。日本という国全体はまだそこまでひどくはなっていない。教科書になにかの病原菌が集中している観がある。いまのうちに取り除いておかないとヴィールスは全身を侵すであろう。私はそのことを心配している。その理由は本論の最初に述べた。21世紀の勝負は、20世紀の戦争の解釈のいかんにかかっている。 . . . 本文を読む
「今はこれまで」とあきらめをつけて勝ち目のない戦に出かけ、「七生報国(しちしょうほうこく)」を念じて自害するという行為、あるいはそれに似たような心情と行為を美しいと感ずるところが、日本人にはひろく行き渡っていると思う。この心情は、この前の戦いでは極端なまでに強調され、玉砕と特攻が相次いだ。これらは、「楠公精神」という型で析出してきた日本人の心情の純粋結晶とも言うべきものであった。 . . . 本文を読む
律令によれば、強盗によって反物(たんもの)を15反(たん)以上盗んだものは絞首刑であるが、弘仁の格では、15年の重労働となる。しかし実際の警察当局は、15反ではなく14反ということにして、その15年の重労働さえも軽減するということをやる。驚いたことには、それよりも、さらに寛大になって、強盗が人を殺し、品物を盗んだ場合は、その盗んだ品物だけを問題にして、殺人は問わない、という刑罰の盗品主義になった。 . . . 本文を読む
イギリスはその頃、南アフリカのボーア戦争に手を焼いていた。英陸軍が東アジアでロシアの南下を抑えることは全く不可能とわかったので、東アジアに信頼できる国を求めていた。イギリスがアジアの植民地を守るためのパートナーとして日本を選んだ背景を考えると、やはり北清事変(ほくしんじへん)でイギリスの日本観が変わったということ以外にありえないのではないか。 . . . 本文を読む
11カ国の公使館員を中心につくられた義勇軍の中で、日本人義勇兵は柴五郎(しばごろう)中佐指揮の下、最も勇敢にして見事な戦いぶりをみせた。事件を取材して『北京籠城』を書いたピーター・フレミングは、「柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的になった」と書いている。 . . . 本文を読む
1896年に発足したノーベル賞の第一回医学賞を受賞したのはドイツのベーリングであった。ベーリングと北里とは、同じコッホ博士の研究室の同僚であり、ベーリングの受賞理由となったジフテリア菌の血清療法の研究は、彼が北里と破傷風菌の共同研究を行い、北里が血清療法を創案したことが原点になっているのだから、“本家”の北里にノーベル賞が与えられていても不思議ではなかった。 . . . 本文を読む
慶長年間の、角倉素庵(すみのくらそあん)は家訓を残し、およそ貿易は先方にも当方にも利益をもたらすための商業であって、相手に損をさせて儲けるようでは宜しくない、と教えた。『国富論』に先立つこと2百年である。 . . . 本文を読む
イギリスの初期の作家は、みな忙しい人ばかりで実務の技能もみっちり教え込まれた。聖職の階層はあったかもしれないが、文壇という分野はまだはっきり区別されていなかった時代である。シェークスピアは劇場の経営者であり、下手な役者でもあった。彼は、文学的な才能を磨くことより金もうけのほうに関心が高かったのである。こういった実務の習慣を身につけた活力あふれる人物の姿は、いつの時代にも偉大な作家の中に求められる。 . . . 本文を読む
柔軟性のなさはあらゆる偏見のもととなる。偏見( prejudice )とは、つまり先に判定してしまうこと( pre-judge )である。偏見の基盤となっているのは、どちらかと言えば、特定の人物、考え、行動に対する憎しみや嫌悪よりも、気心の知れた人、つまり自分と同類の人間と一緒にいるほうが楽だし安全だという事実なのである。 . . . 本文を読む
たとえば、あなたが今どこか遠く離れた場所へ緊急な用事で使いに出されたとする。まず第一に大切なことは間違いなく迅速に使いを果すことであるが、行く道筋にあるいろいろな景色やものごとを、通りすがりにしっかり観察することも必要なのではないだろうか。耳をすまして、どんな情報や逸話や事実をもできるだけ聞き漏らさないようにして、いちだんと賢くなって戻るべきではないだろうか。こんなことが妨げになるだろうか。このようにしていろいろなことを習得していけば、いちだんとおもしろ味のある、博識で有能な人物になれるのではないだろうか。 . . . 本文を読む