日本の場合、玉砕(ぎょくさい)思想は、軍の首脳部が捕虜になることを否定する方針を採(と)ってきたことと、最も関係があると思われる。昭和16年(1941)1月、第二次近衛(このえ)(文麿(ふみまろ))内閣の陸軍大臣であった東条英機(とうじょうひでき)は「戦陣訓(せんじんくん)」を出したが、これには「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」という一句があり、この点が、また特に強調された印象が残っている。 . . . 本文を読む
これも最近の話ですが、そのカナダではハーパー首相が、共産主義革命で犠牲者になった人たちのための碑を建設することを公言しました。戦争犠牲者の碑はあるものの、共産主義の犠牲者の碑を建設するという話は聞いたことがありません。実に意義のあることですが、これも中国という国に愛想をつかしたカナダ人の中で生まれた発想だと私は見ています。 . . . 本文を読む
結局、日本のマスメディアはいまだに占領支配から抜け出せていないのです。占領下ではGHQが「プレスコード」といって報道機関を統制するために、実に細かい規則を設け、検閲が行われました。新聞雑誌の発行、ラジオの放送の原稿は報道前に占領軍の承認を得なければならなかったのです。 . . . 本文を読む
やがて8月23日になったが、ツァーからはルーズベルト宛の正式回答が来なかった。それで、ウィッテは会議を午後2時半まで遅らせてほしいと申し込み、小村はこれに同意した。しかし、回答は午後になっても来ない。実は、永久にこなかったのである。さて、午後の会議で小村は、「サハリンを二分し、ロシアは南半分を日本に割譲し、北半分は12億円で日本から買い取ること。この条件で日本は軍費払戻し要求を撤回する」旨(むね)の覚書を渡した。 . . . 本文を読む
A級戦犯の「罪名」は「平和に対する罪」だったが、これは明らかに、戦争後に勝者が敗者を裁くために作られた事後法だった。東条を中心とした日本の一部が「共同謀議」のうえ、侵略を犯した罪とされたのだ。むろん戦前の国際法にはなかった。 . . . 本文を読む
5月30日に月刊誌、中央公論元編集長の粕谷一希氏が84歳で亡くなった。氏は名編集者として知られているが、また、評論家として戦後日本に対する明晰(めいせき)な批評を遺(のこ)した人でもあった。戦前からの良質な教養を受け継いだ真の知性であったといえるであろう。 . . . 本文を読む
「原爆記念日を期して私はこの写真を千万枚億万枚複写して、世界中にばらまきたい」。(山本)夏彦がこれほど感情を露にした文章を書くのは珍しい。昭和54年夏のことである。そこまで夏彦を駆り立てたのは、日本が独立を回復した27年の夏に発行された「アサヒグラフ」だ。20年8月6日の原爆投下直後、「科学朝日」の記者が広島に入って撮影した写真が、占領軍の撤退によってやっと日の目を見たのである。 . . . 本文を読む
IEEPA法は、アメリカと関係諸国の安全保障に重要な危害を与えるものを対象として、金融制裁というかたちで銀行口座の凍結、資産の凍結、資産の没収、アメリカ企業との取引の停止(これは金融、銀行を含む)などができるというものだ。 . . . 本文を読む
H26.08.31
あやゆる教育の要因の中で最も影響力のあるのは
子供が耳にする家庭内の会話である
( ウィリアム・テンプル )
The most influential of all educational factors is
the conversation in a child's home.
( William Temple )
H26.08.30
赤裸々の真実はつねに最高に粉飾 . . . 本文を読む
この無差別殺戮の行き着いたところが20年8月6日、9日の広島、長崎への原爆投下だった。広島では被爆直後だけで、約10万人が犠牲になった。約16時間後、米大統領ハリー・トルーマンは声明を発表した。「われわれは現在、日本が有するいかなる都市、いかなる生産施設も迅速かつ完全に抹殺する用意がある」。一国の大統領とは思えない威嚇であった。 . . . 本文を読む