電脳筆写『 心超臨界 』

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( ゲーテ )

日本史 鎌倉編 《 正成軽視ではわからない日本史の本質――渡部昇一 》

2024-05-28 | 04-歴史・文化・社会
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楠木正成がひとたび出て、日本史には一種のオカルト的動因が加わったのである。それを嫌うか、歓迎するかは各人の史観によるが、これを無視した日本史は、日本史を死体解剖的に見ることであり、生き物として見ていることにはならないであろう。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p136 )
2章 南北朝――正統とは何か=日本的「中華思想」によって起きた国家統合の戦争
(3) 日本史のキーワード
「錦(にしき)の御旗(みはた)」と「七生報国(しちしょうほうこく)」

◆正成軽視ではわからない日本史の本質

ちょうどそのころ、東大ではエール大学教授ラッドを招いて何回か講演をしてもらったことがあった。そのお礼に何をしたらよいか、ということになったが、そのとき、ラッド氏は「日本人の性格をよく表わした絵画が欲しい」と答えたのである。それで東大では、何を画題にしたものがよいかと、いろいろ話合いがあった。

日本人の性格といってもそう簡単ではない。それを示す画題も多くある。しかも、それもみんなが知っているものでなければならない、という制約があった。

というのは、ラッド氏がアメリカにそれを持ち帰って、自分の部屋にその絵を掛けておいた場合、そこを訪問した日本人が、この絵は何だろうかと、逆にラッド氏に尋ねるような画題では困る。つまり、「日本人が誰でもよく知っていて、そして日本人の性格を表わすもの」でなければならないのである。

そこでいろいろ苦心した結果、その画題は、楠木正成、正行(まさつら)、正成夫人を中心にしたものならよいであろう、ということになって、東京美術学校(今の芸大)の寺崎広業(てらさきこうぎょう)が画(か)き上げたのであった。

湊川に出陣するときに、桜井(さくらい)の駅(大阪府三島(みしま)郡)で正成は長男の正行に別れを告げ、「自分はこれから天皇の命を受けて、勝ち目のない戦(いくさ)に死にに行くのだが、私が死ねば尊氏の天下になるだろうから、お前はここから郷里に帰って、最後まで朝廷に尽くすように」と言い聞かせたという話に基づいたものである。

これは『太平記』から採(と)られた話であり、当時は重野博士や久米博士などによって『太平記』が史書として抹殺されつつあったときだから、問題を含んでいた。

しかし三上参次(みかみさんじ)博士は、『太平記』のこの話が、正確でなかったり、あるいはまったくの作り話であったとしても、この話が数百年の間、日本人の性格を形造るのに貢献してきたことは、著(いちじる)しいものであるから、それでよい、という判断を示したのであった。

「今はこれまで」とあきらめをつけて勝ち目のない戦に出かけ、「七生報国(しちしょうほうこく)」を念じて自害するという行為、あるいはそれに似たような心情と行為を美しいと感ずるところが、日本人にはひろく行き渡っていると思う。

この心情は、この前の戦いでは極端なまでに強調され、玉砕と特攻が相次いだ。これらは、「楠公精神」という型で析出してきた日本人の心情の純粋結晶とも言うべきものであった。軍首脳はこれを利用、あるいは悪用したという見方も成り立つであろう。

戦後は戦時中とはちょうど逆の啓蒙時代であった。日本史は啓蒙的左翼史学によって書き換えられた。また非左翼陣営でも福沢の精神は日の光を浴び、その後継者である小泉信三博士は最も尊敬された論客であった。小泉博士の議論は堂々として筋がよく通り、暗いところがなかった。

ところが自決する少し前の三島由紀夫の書いたものを読むと、左翼合理主義や、明るい近代主義に対する嫌悪主義がはっきり出てきている。歴史を合理的に、啓蒙的に解釈する流れは正成を小さく見たが、それが戦後ともなると、正成は歴史の教科書から消えてしまったのである。三島はこの流れに身を以て反対したのであった。三島が締めた「七生報国」の鉢巻は、正成の伝統以外の何物でもないのである。

「時代錯誤」と呼び、「気違い」と呼ぶ声も当時のインテリに少なくなかった。それから数年、三島が人の口の端(は)に上(のぼ)ることは稀になり、本当に犬死だったのかと思われてさえきた。ところがポルノ俳優が突如、「七生報国」をかかげたのである。人は事の意外さに驚き、冷笑が方々に起こった。

しかし、ポルノ俳優すらそういうことをするとなると、将来また誰がどんな形で「七生報国」をやるか、わからない。楠木正成がひとたび出て、日本史には一種のオカルト的動因が加わったのである。それを嫌うか、歓迎するかは各人の史観によるが、これを無視した日本史は、日本史を死体解剖的に見ることであり、生き物として見ていることにはならないであろう。
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