近衛が政権中枢に入れた共産主義者たちが、支那事変とそれに続く対米英戦でめざしたのは、レーニンの「革命的祖国敗北主義」つまり「帝国主義戦争を内乱(革命)に転化せよ」というスローガンに基づいて敗戦革命へのレールを敷くことでした。日本とアメリカの対立を徹底的に煽り両者が戦うことを目指したのです。 . . . 本文を読む
小泉純一郎内閣当時の有識者会議は平成17年、旧皇族の皇室復帰について明確な根拠もなく「国民の理解が得られない」と排除する報告書を出していた。つい数年前まで、旧宮家子孫の皇族復帰について「グロテスク」とまで言い放つ政府高官がいたことを思うと、隔世の感がある。17年前の有識者会議の報告書の旧宮家「排除の論理」は、一読してごまかしが目立つ。 . . . 本文を読む
「敵は毛沢東でなく日本だ」ということを飲まされ蒋介石は、西安事件で実権を失ったと私は見ています。だから、いくら日本が蒋介石に和平を呼び掛けても、一切応じなかった。それを日本の歴史家は何と言っているか。「日本は条件を釣り上げて、中国人のメンツを傷つけた。だから、中国は和平に応じなかった」という歴史解釈にするわけです。とんでもない解釈です。 . . . 本文を読む
日本海軍の伝統的な作戦は、敵艦隊をマリアナの近海に引きつけて迎え撃つ、というものでした。「昭和16年度、帝国海軍作戦計画」はこの考えに基づいたもので、西太平洋における不敗持久の戦略態勢という思想がベースになっています。 . . . 本文を読む
虎の檻に平気で入れる理由を天風はこう話している。「信念が強く結晶した人の周りには、非常に強い同化力が働き出す。霊的作用の感化で、その場の雰囲気をスーッと同じ状態にしてしまう。猛獣が同化するのは当たり前じゃないか」 . . . 本文を読む
野に打ち捨てられた死体が腐敗し、白骨となって朽ち果てていく。その過程を九つの段階に分けて描いた絵画を「九相図(くそうず)」という。時に小野小町という絶世の美女が零落するイメージにもなぞらえられ、近世以前の日本で長らく描き続けられてきた主題だ。皮膚がただれ、虫がわく様子をリアルに描いた絵は気持ち良いものでないが、その源流は仏教にある。 . . . 本文を読む
キリストの十字架刑以外に、歴史に残る臨終場面といえばソクラテスの死をおいてない。裸足のソクラテスに嫉妬と羨望を抱いた一部のアテネ人は彼にあらぬ罪をきせ、裁判にかけて死刑を宣告した。ソクラテスに好意的だった牢番は毒杯をすすめながら、こう言った。 . . . 本文を読む
一般に、日本では刑が軽減される傾向が生じ、嵯峨天皇の弘仁(こうにん)年間(810-823年)以来、死刑が実際上は廃止されるという出来事が起こった。後白河天皇の時代の保元(ほうげん)の乱(保元元年・1156年)による源為義などに対する処刑まで、26代、346年間、実際上死刑が執行されることはなかった。このことは日本刑法史上はもとより、世界刑法史上よりみても注目に値する事実である。 . . . 本文を読む
日本が満州国を誕生させた1932年、米大統領に就任したフランクリン・ルーズベルト(日露戦争の仲介をしたセオドアの甥(おい))は激しい人種差別主義者で知られており、とりわけ日本人は大嫌いでした。彼も蒋介石を利用して日本を叩きつぶそうと考えたのでした。アメリカはイギリスと手を組んで、当時、フランス領だったインドネシア半島経由で、蒋介石軍に武器弾薬や食糧を援助しました。日本と中国国民党が泥沼の戦いになれば、中国での利権獲得も簡単になります。 . . . 本文を読む
しかし、一方また加藤周一はなかなかもって用意周到です。彼は自分がこのように提唱する根拠として、フィンランド史をみっちり勉強した結果であるとは言っておりません。ちゃんと逃げ道を用意してあります。彼の立言は「短い旅行の間」に得た「さしあたり」の「印象の要点」なのです。「さしあたり」の考えであり「さしあたり」の発言なのです。 . . . 本文を読む
ヨーロッパの「国際教科書改善運動」がどういうものかをここで一瞥する必要がある。ヨーロッパは一つのキリスト教文化圏で、歴史意識を共有する。しかも近代の発展程度も一定の成熟度に達し、幼いナショナリズムを各国が克服している。加えて、相互の敵愾心や偏見をできるだけ小さくするのを目的としたこの運動は、すでに1920年代に始まり、奇妙なことにナチ時代にも行われていたのである。 . . . 本文を読む
宋学の立場から見れば、日本の正統たる天皇の地位が、幕府の意向次第で決まるのは絶対に許すことのできない不祥事である。ひとたび皇位に即(つ)かれた後醍醐天皇は、絶対に鎌倉の言うことはきくまい、と決心される。ということはとりもなおさず、皇位は持明院統に渡さないということに連なる。 . . . 本文を読む
このような後宮文化時代に、男は何をしていたか。もちろん女のところに、せっせと通っていたのである。藤原時代も、10世紀から11世紀ごろになると、宮廷の警備がすっかりゆるんでしまって、よく泥棒が入った。『紫式部日記』によると、ある年の年末に盗賊が入って女官の着物を剝いだ。彼女らの騒ぎを聞いてみんなで助けを呼んだが、警護の武者も、中宮付きの侍も、殿上(てんじょう)の宿直(とのい)も、男は一人もいなかったという。 . . . 本文を読む
蛙(かえる)は蛇を恐れ蛇は蛞蝓(なめくじ)を恐れ蛞蝓は蛙を恐れて三竦(さんすく)みの構図が出来あがる。この関係が民主主義という微妙な体制を成り立たせる理想の構図である。人間は審査(チェック)されることなく野放しにしておけば限りなく我を通して最終的には他人(ひと)に害を及ぼす。 . . . 本文を読む